馳皇さんの話である。
ある晩、彼女は夢を見た。
夢の中に、馳皇さんの自宅の近くにある本牧神社と見知らぬおばあさんが現れ、背に朱色の立派な鞍くらを着けた漆黒の大きな馬を彼女に押しつけた。
「馬を預ける」
おばあさんの勢いに押されながらも、馳皇さんはそれに抵抗しようとした。
「あたしは馬なんかいらないよう。だって預かっても困るもの」
だが、おばあさんは無理矢理、
「いや、頼むからこの馬を預かってくれ」
と言った。
困り果てながらも馬を預かり途方に暮れる……というところで夢から覚めた。
しかし、馳皇さんはベッドから起き上がることができなかった。
馳皇さんの胸の上に、何か白いものが乗っている感覚があった。
「……何?……誰?」
薄目を開けて暗闇を見上げると、そこには白い着物にワンレングスの髪をした女がのしかかっていた。
一瞬、夢の続きかと疑った。しかし、それが夢ではないことはすぐにわかった。
恐ろしく歪んだ顔をした女は、馳皇さんの胸に掌を当て、ぐいぐいと押してくる。しかし、馳皇さんの身体は金縛りによって、身じろぎ一つできないのだ。
(これは夢じゃない……!)
女は馳皇さんの胸を押す力をますます強めてきた。今にも馳皇さんの首に手を掛けて、きゅっと締め付けてきそうな勢いだった。
と、そのとき。
不意に、金縛りに遭っている馳皇さんの耳元で、馬が地を駆る蹄ひづめの音と、
〈ブルルルルルルルルルッ!〉
という嘶きが聞こえた。
すると、馳皇さんにのしかかっていた着物の女は、悔しそうな顔をして彼女の上から去っていった。
(ああ……夢で預かった馬が追い払ってくれたんだなぁ……)
それからというもの、馳皇さんの身の上に幾つかの変化が起こった。
まずベジタリアンになった。信じられないほど大量の野菜を食べるようになったのである。まるで馬のようだ。
そして、髪の毛が五ヵ月で二十五センチという尋常ではない早さで伸びた。
それからしばらくして、馳皇さん一家は新潟の弥彦神社に旅行に出かけた。
家族とともに参道を歩いていた馳皇さんは、参道と並んでいる林の途切れた奥に、小さな社があるのを見つけた。参道から十数メートルも離れていない所にある社は、鬱うっ蒼そうと茂る笹や下生えに隠れており、少し見たぐらいでは気付かないほどのささやかなものだった。
馳皇さんは参道を歩く家族から離れて、林の中の社に惹かれていった。
格子戸の隙間から、その小さな社の中を覗き込んでみると、そこには夢に出てきたあの朱色の鞍を着けた黒い立派な馬とそっくりの馬がいた。ただし、その馬は漆黒の毛並みではなく、純白の美しい毛並みをした木彫りの馬の像だった。
その白い馬を見た瞬間、馳皇さんは悟った。
(ああ……あたしは、あの黒い馬をここまで運んでくるために預かったんだなぁ)
それは天啓とも言うような、人智を越えた瞬間的な理解だったと彼女は言う。
しばらくの間、茫然と白い馬に見とれていた馳皇さんは、白い馬を祀まつっている社に手を合わせてから、参道を歩いている家族のもとへ戻った。
さて、これには後日談がある。
馳皇さんは、馬を預かる夢を見たことと、それを運んだらしいという話を家族にしたのだが、誰も信じない。
「でも、参道を歩いているときに、白い馬の入っている社は本当にあったのよ」
「それじゃ確かめてみるか?」
幸い、馳皇さんのお父さんが家族の最後尾でずっとビデオを撮っていたので、そのビデオを再生しながら社のある場所を指し示そうとした。
「確か、あたしが途中で抜けて林の中に入っていくところがあるはずだから……」
参道を歩いている間、最後尾のビデオカメラはずっと回りっぱなしで、カメラの前を歩いていた馳皇さんの姿は、他の家族の姿とともにずっとフレームの中に収まっている。
彼女が社で白い馬を見ていた間は、少なくともフレームに映っていないはずだ。
馳皇さんは参道を歩く自分の姿を見ながら、あの社のあった場所を必死に思い出そうとしていた。
「あ、ここ。この奥の所に社があって、あたしはここで社のほうに行ったのよ」
ビデオの画面を見る馳皇さんが指し示したところで、画面に映っている彼女の姿がフレームから林の中に消えた。
だが、それもほんの一秒足らずのことだった。
ビデオに映る馳皇さんは、間髪を入れずに元の参道に戻ってきてしまった。
「あっれぇ!?」
たった一秒で済むはずがない。
参道を離れ、林の中に分け入って小さな社を見つけ、中を覗き込んで白い馬を見て、しばらくそれに見とれて、それから手を合わせ、そして再び参道の家族のもとへ戻る。それだけのことをしていたのだから、少なくとも二~三分以上はフレームから消えているはずなのだ。
だが、参道を歩いている間中、止まることなく回り続けていたビデオカメラの映像には、その一秒以外、他の家族の姿や参道の風景同様、馳皇さんの姿もずっと映り続けていたのである。