水難あり(東京都) | コワイハナシ47

水難あり(東京都)

ライターの紐井君は、フリーになる前はとあるゲーム雑誌の編集者だった。

この手の出版社には珍しく寮完備という好条件だったので、暮らしはまぁまぁといったところではあった。

もっとも世の編集者の常というもので、部屋はあっても帰る暇なしといった日々が続いた。勤め先である編集部が日常生活の大部分を占めていたから、寮の部屋は資料と称してため込んだ漫画やゲームなどの私物をしまっておく倉庫のようなものになっていた。

その日、久々に編集部詰めっぱなしの生活から解放された紐井君は、最近買ったばかりの『資料』を自宅に持ち帰って整理していた。

半地下になっている紐井君の部屋から同僚の部屋へ向かう途中、ふと窓の外を見ると何かが泳いでいるのが見えた。

「ん?」

それは鯉だった。

鯉は二階の窓の外を悠々と泳ぎ、身を翻ひるがえして宵闇の中に凛とした鱗を消していった。

鯉は確かに『空中』を泳いでいた。

「窓の外に鯉が!」

紐井君は同僚の部屋に転がり込んだ。

「そりゃいるだろう。鯉なら中庭の池にいっぱいいるぞ」

「いや、そうじゃなくて窓の外の空中に鯉が!鯉の幽霊が!」

直属の上司である編集長にその話をしたのだが、怪談の苦手な彼は取り合ってくれなかった。

紐井君は鯉のことが気になって寮に近寄るのを避けるようになった。

鯉の話が寮中に行き渡った頃には、会社の偉いさんにまで話が伝わっていた。

寮の先輩達の話を総合すると、どうやら以前にも窓の鯉を見た者がいるらしい。そして、鯉を見た者の身には決まって何かが起きるのだ。

「何かって何があるんです?」

社長は幽霊の存在など頭から信用していない様子だったが、以前から寮住まいの社員が何度も『鯉』を目撃していることは知っていた。そして、その原因にも心当たりがあるようだ。

「俺は信じてないがな、前にウチの孫がな。そこの中庭の池で遊んでて、池の鯉を陸に跳ね上げて死なせちゃったことがあるんだよな。ま、子供のやることだから仕方ないがなぁ」

それ以来、ここに住んでる社員がときどき鯉を見るようになったらしい。

「で、鯉を見るとどうなるんですか?」

「水難があるんだと。ま、俺は信じてないがな」

水難。水の事故。

紐井君は心に誓った。

……海と川に近寄るのはよそう。

とはいえ、月刊雑誌の編集者に海水浴や川遊びに行けるほどの暇もなく、何事もない日々が続くうちに、鯉の一件はいつもの激務の日々に埋没していった。

一九九三年の夏。東京は記録的な豪雨に見舞われた。

編集部は当時の自衛隊市ヶ谷駐屯地、現在の防衛省にほど近い、四谷のビルに移っていた。紐井君の激務の日々は相変わらず続き、校了間際ともなると昼夜を問わず編集部から一歩も外に出ることができないくらいだった。

件の豪雨が東京を洗っているとき、紐井君は編集部に足止めされていた。

どうせここから出られないんだ。今抱えている仕事が一段落して寮に帰れるようになった頃には、この雨も治まっているだろう。

降り続いた雨が止み、ちょうど仕事も落ち着いた紐井君は、着替えを取りに寮へ戻ることにした。

流れきれないほどの雨は、東京のそこかしこに洪水を起こしている。

茶色く濁にごった水を見ながら、紐井君は漠然とした胸騒ぎに襲われた。

水難。

小走りに急ぐ紐井君の部屋は、寮の半地下にある。

まさか、もしや。

予感通り、紐井君の部屋にあった漫画もゲームもテレビもコンピュータも服も……電化製品・資料・家財道具のほとんどが潰滅状態だった。

彼の部屋は、洪水によって水没していたのである。

しばらくして紐井君の担当していた雑誌は休刊になり、編集部は解散して彼も寮を出ることになった。

雑誌の休刊と編集部解散は水難ではないので、紐井君の自宅水没までが鯉の祟りであり、それ以上は鯉のせいではない、ということになっている。

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