河童と病院に出る女の幽霊(福岡県) | コワイハナシ47

河童と病院に出る女の幽霊(福岡県)

野末さんのお母さんが、ただ一度きりの約束で話してくれた怖い話である。

昭和の始め頃、地方ではまだまだ水道のない生活が当たり前だった。生活用水として川を使うことも珍しくなく、桃太郎の時代ほど遡らずとも川で洗濯物を濯ゆすいでいる人々の姿を見ることができた。

その日、まだ三歳になったばかりの野末さんのお母さんは、自分の母親(野末さんのおばあさん)に連れられて近くの川に洗濯に出かけた。今よりもずっとのどかな時代とは言え、幼稚園や保育園があるわけでなし、家に幼子を一人で置いておくよりは目の届くところに連れて歩いたほうが遙かに安心というものだ。

母親が洗濯をしている間、野末さんのお母さんは川岸の花を摘つんだり虫を追ったりと、むずかることもなく大人しく一人遊びに昂じていた。

あらかた洗濯が終わった母親は、そろそろ帰り支度でも……と顔を上げた。

しかし、つい今し方まで近くでトンボとにらめっこをしていたはずの娘の姿が見えない。

「よしこ?どこだい、よしこ?」

大声で娘の名前を呼んだが、どこからも返事はなかった。

辺りには姿を隠せるような木陰もない。最前まで洗い物をしていた川岸は細く浅い小川で、子供が流されるほどではない。

小川の横はなだらかな丘になっていて、とても三歳の子供が一人で越えられるような代物ではなかった。丘の裏手には、本流となっている大きな川が流れている。

まさか……と思いながらも母親がその丘を越えていくと、腰まで川に浸かった娘の姿が目に映った。

驚いた母親が、娘が深みにはまる前に……と、急いで声を掛けようとしたとき、娘の前に何かがいるのに気付いた。

腐った水草が漂っているのかとも思ったが、川面に浮いたり沈んだりを繰り返しながら、もこもこと手招きをするように動いている。

それは、人間ではない薄汚い茶色い生き物だった。

その生き物は、腰まで水に浸かった娘に向かって『おいで、おいで』と手招きをしていたのだ。

(……今、声を掛けたら引きずり込まれる……)

母親は静かに川に入り、ゆっくりと娘に近付いた。

娘は魅入られたように、足の付かない深みに歩みを進めている。

後少しで、水掻きの付いた茶色い手が娘に届く……。

その刹那、母親は娘を背中から抱きしめた。

娘が我に返るのと生き物が水の下に消えたのは、ほぼ同時だった。

怪談を探して歩いていると「河童を見た」という目撃譚に出会うことがたまにある。その多くは「それは明治の始め頃、うちの爺さんが子供の頃に……」という始まりであったりするのだが、疋野さんから聞いた話は、少なくとも昭和の終わりから平成の始めくらいに掛けての出来事である。

疋野さんの出身地は筑紫川の上流に当たる。ご当地は河童の聖地として有名な場所で、河童を見たという目撃譚を下さる方には、この付近の出身者が不思議と多い。その疋野さんが高校三年生の頃、お母さんがふとしたことからアキレス腱を切る大怪我を負って、近くの病院の外科に入院した。

大部屋のベッドに寝かされている外科の患者の多くは、自由に身動きは取れないものの、暇をもてあましている元気者が多い。そのため長期入院ともなればカーテン一つ隔てただけの隣の入院患者と、すっかり仲良くなってしまうなんていうのもよくあることだ。

疋野さんのお母さんの隣のベッドのおばさんも、田舎の人によくある「面倒見が良くて人懐こい人」だった。

あれこれと他愛もない話をしているうちに、すっかり疋野さん達と打ち解けたおばさんは、可愛がっているペットのことのことをしきりに気にしているようだった。

「あたしがねぇ、入院しちゃったでしょう。だから誰も食べる物あげてくれないんじゃないかと思うのよ」

川の近くからやってきて、おばさんの所で食べ物を貰っている。

最初、外で野生動物の餌付けをしているのかと思ったのだが、どうも違うらしい。

「うちね、河童が来とるんよ」

おばさんの家は、裏手に川が流れている。そこから河童が来ているというのだ。

「本当に河童なんですか?」

「うん。あたしも最初はね、うちの庭で作ってるちっちゃい畑の野菜を荒らすのがおるけん、狸か猿か何かだと思ったとよ」

ところが、畑の土に残された足跡は「三本指で水掻きが付いていた」のだそうだ。

「狸や猿に水掻きはないでしょ?カモやらアヒルやらがキュウリや大根を荒らすって話も聞かんし、ねぇ」

河童の足跡は畑から川までまっすぐ続いていた。

冬になって畑の野菜が枯れてしまうと、今度はおばさんが籠に野菜を乗せて出してやるようになった。

「だって、冬に食べ物がなかったら可哀想やろ?」

籠の上の野菜も少し目を離した隙になくなっているのだが、野菜のあった籠から川までの間には、やはり例の三本指の足跡がまっすぐに残されている。

「それでね、うちの家族は河童のこと誰も信じてくれんのよ。それは、その辺の狸の仕業やって言って。だからあたしが入院しとる間はねぇ、食べる物がなくて困っとるんやないかと思うと、河童が不ふ憫びんでねぇ」

おばさんはどこまで冗談なのか本気なのかわからないような溜め息を一つついて、窓の外を眺めた。

さて。その当時、この病院は河童ではなく幽霊が出るという話で持ちきりだった。

ワンピース姿の若い女の霊が、下の階の病室から順にベッドに寝ている患者の前に現れるというものだ。

表立って、ハイその通りですと肯定する医者はさすがにいなかったが、そういった噂話は入院患者の間を駆け抜けて広まっていた。

「母さん、そんな話を信じとるん?」

随分具体的な噂話だが、これが噂話どころの騒ぎではなかった。何しろ、件の幽霊を見たという目撃証言が、実際にベッドの並び順通りに出ていたのである。それは身体検査の順番待ちか先生の回診みたいなもので、いやでも何でも確実に患者一人に付き一回ずつ、女の霊がワンピースを揺らして現れていた。

「だって、回る順番まではっきりわかっとって、もう隣の病室の人もひと通り見とるって言うとよ。母さん、怖くて」

一人の例外もなく現れて回るとは、随分律儀な幽霊もいたものだ。とにかく確実に出ると言うので、次は僕、あさっては私の番とばかりに、患者達は一様に戦々恐々と順番待ちをする羽目になっていた。

そうこうしているうちに、とうとう病院の最上階にあった疋野さんのお母さんの病室にも、幽霊の順番が回ってきた。

その頃になると、「すっかりよくなりまして」と無理矢理全快したことにして退院してしまう人も現れて、後半の順番待ちは加速度的に早まっていた。

お母さんの順番は例の河童おばさんの次だった。

ついに自分の番が回ってきたお母さんは、さすがに怖くなったのか見舞いに来ていた疋野さんが帰らないように引き留めた。

「ねえ、お姉ちゃん。今夜は母さんと一緒に病室に泊まらんね?母さん一人じゃ怖いし。あんた、怖い話好きでしょう」

「やだよ!あたしだって怖いもん!」

また随分薄情な話である。

「怖い話は好きだけど、自分が体験するのはまっぴらごめん」とばかりに、疋野さんは縋るお母さんを振り払って、さっさと帰ってしまった。

薄情な娘に見捨てられたお母さんは覚悟を決めた。

(不意を突かれるから怖いのだ。いつ幽霊が現れてもいいように、一晩寝ないで構えていれば、少しは恐怖に耐えられるかもしれない)

そんなことを最初から考えていたのかどうかは定かではないが、怖くて眠ることができなかったお母さんは、一晩中ずっと起きていた。

そして、翌朝。

「……幽霊、出た?」

朝、恐る恐る訊ねてみると、お母さんは若干寝不足気味ながら勝ち誇ったような顔でこう言った。

「いや、何か知らんけど出んかったよ。母さんに恐れをなしたんよ」

一晩中起きていたのに朝になっても幽霊が現れないのは、それはそれでいいことなのだが、お母さんの次のベッドの人にも幽霊が現れることはなく、それっきり女の幽霊の噂はぱたりと止んでしまったのである。

「正確にはうちの母さんじゃなくて河童のおばさんの所で止まったんです」

そう。そうなのだ。

女の幽霊が現れていたのは、河童おばさんの所まで。

疋野さんは怖い話マニアの視点から、と前置きしてこう締めくくった。

「私にはねぇ、河童が女の幽霊を始末したような気がしてならないんですよね」

シェアする

フォローする