1973年に起きた大洋デパート火災は100人以上の死者を出す大参事になった。悲惨な現場のあと、焼け出された遺体はデパートの裏、ビルの敷地の中庭に置かれた。
その建物は旧電電公社のビルだった。そこで警備をしていた城田さんは目の前に並べられ、ビニールで覆われた遺体の山を見ていた。
城田さんは戦争中は朝鮮の警察におり、それ相応の遺体や暴動などは見てきた。警備の人は年配者も多く兵隊上がりが多い。火事の時も目の前の焼け焦げた遺体を見ても、そう動揺はしなかった。だが、城田さんはやはり気分が悪くなった。
あまりの吐き気に早退することにした。
体も重い。電停まで歩くのも辛く、タクシーに乗ることにした。何人も並んでいたので、流しのタクシーに乗ろうと手をあげた。
すると耳元ではっきりと聞こえた。
「私も乗せてください。子供がおりますので」
驚いて振り向くと、誰もいない。
城田さんはぞくっとして、捕まえたタクシーに乗った。自宅は大江町にあり、タクシーでは10分位で着く。
「大江の○○まで」
「わかりました」
しばらく乗っていると運転手が妙な事を言った。
「さっきも大江の家まで?って、ここで女の人乗せたとですよ」
「え? あ、はい」
「そしたら、大江に着いて振り向いたら、おらんのですよ、そん女の人」
城田さんはぞっとして黙っていた。
「あの火事で亡くなった人、大江の家に戻ろうて思うとでしょうたい」
「……そうかも知れんですね」
大江の自宅に着いた。お金を払い出ようとすると、
「あれ、一緒に乗ってきた女性はどこ行かした?」
「一緒? いや、わし1人ですばい」
「いやあ、乗せた時は2人で立っておられたでしょ。さっきまで座っておられましたけん」
「さっきて、どの辺までですか」
「白川の大甲橋のとこか……川の手前までミラーには映っとったんですよね」
水が欲しくて降りたんだろうか……城田さんは家に着くと昏々と眠り、しばらく警備の仕事を休んだ。体の重みは次第に取れてはいった。
その時の消防士たちも、家に帰ろうとする霊を見たという。
子供を置いて買い物に来ていた母親たちは、何とかして家に帰ろうとするのだろう、と城田さんは話してくれた。
実はこの事件はまだ火災原因がわかっていない。
火事の前に、デパートで何らかの事件があり、救急車を呼んだ経緯があった。ところが上司に連絡せずに通報するなと指導され、火災に気づいたときも上司に連絡したが繋がらなかった。そのため消防に通報できずに、バケツの水を掛けるなど社員で何とか消そうとして、次々と引火してしまったとも聞く。
階段に積み重ねられた寝具や段ボールに次々引火し、消火扉も荷物で開かないような状況だったという。何より、昼間買い物に行ったまま帰らなかったお母さんのお子さんたち、遺族の悲しみは耐え難い。
その後、焼け残ったデパートの建物を使って別のショッピングセンターとして営業したが、ついに撤退してしまった。あの低い天井を見ると大洋を思いだし、ぞっとする人もいたという。
2014年に完全に建物を解体した時は、慰霊祭が行われた。実に火災から40年近くあのままの建物を使っていたのだ。
消えた命に心から冥福を祈る。