関東軍最期の兄の霊(熊本市中央区黒髪) | コワイハナシ47

関東軍最期の兄の霊(熊本市中央区黒髪)

熊本には村上姓が多い。中には村上水軍と関係のある人もいる。

村上水軍の末裔の村上正建さんは、現在村上家当主だが、実は23歳上に兄がいた。兄の芳雄さんは大学を卒業し、関東軍の伍長として満州へ出征していった。家族で旗を振って見送ったのを覚えているという。

昭和20年の8月、空襲がひどくなり家族は市内の水前寺から黒髪に家を移した。母が心配したのは芳雄さんが戻ってきたら、どこの家に住んでいるか分からなくなることではないかということだった。満州へ手紙を送り続けていた。

その頃、満州では恐ろしいことが起きていた。

8月8日、ソ連が突然不可侵条約を破り、国境にあった虎頭要塞に向かってソ連軍は押し寄せた。

芳雄さんは突然昇格し砲撃分隊長として最前線に立つことになった。それは20日間の激戦となった。

その頃、終戦を迎えていた熊本市内は焼野原となっていた。

8月18日の午後、5歳だった正建さんは、庭の地面に絵を描いていた。手を洗おうと土間に入ると、視線を感じた。見上げた窓の方に人が立っている。

陸軍のカーキ色の軍服。正建さんの方をじっと見ている。兄の芳雄さんだ。

「お兄ちゃん? 帰ってきた? この家わかった? 空襲で逃げてきたとよ」

芳雄さんは少し笑って、うなづいた。何か言っていたが聞き取れず

「正建、うちを守れよ」

という言葉だけがしっかり聞こえた。

そう言うと兄の頭が歪み始めた。顔が2つに割れ、飛んでいき、首から下の軍服だけの姿になった。一瞬の事で、首から軍服に血が流れだした。

あまりの恐ろしさに正建さんは隠れた。後で外に出たが誰もいなかった。

兄に何か不吉なことが起きた気がして、母にも誰にも言わずにいた。

それから8年経って兄の戦死公報が届いた。お骨はなかった。もう正建さんも中学生だった。兄からの生前の遺書を母にもらって、泣きながら読んだ。

『母上様、悲しまないで、笑ってください。靖国に入ることを喜んで下さい。正建よ、この兄を見習わずに良き人間となり、母上様皆の事を頼むぞ……』と。

正建さんはその時初めて母に話した。小さい頃、家に戻ってきた兄を見たと。

「それはいつの話? 終戦の時?」

「8月の18日。お絵かきで18て書いたけん覚えとる」

正建さんは毎朝日付を庭の土に書いていたのだ。あの日もそうだ。

「……芳雄は18日に爆弾に当たって死んだって……書いてあった……」

そう言うと母は泣き崩れた。舞鶴港まで8年も立ち続けた母だった。

あの日、芳雄さんは跡継ぎが正建さんに代わることと、お別れを告げに、亡くなった瞬間に霊となって熊本の自宅に戻ってきたのだと、正建さんは感じた。

その後、正建さんは虎頭要塞から奇跡的に帰ってきた人から話を聞くことができた。要塞では民間人含め60数名が助かっていた。

実は軍部の命令で、関東軍の大佐は秘密裏に大本営へ引き揚げさせていた為、その下の大尉では判断がつかず、玉砕戦となった。15日の降伏の連絡も日本からは途絶えており、要塞死守の命令に従い戦ったことが記録されている。

18日は、激しい戦闘の後、要塞にガソリンを注入され、1600人近くが中で焼死した。虎頭山中では、第二中隊90野砲分隊長の芳雄さんにソ連軍の弾が命中し、即死だったそうだ。

正建さんは兄の遺書の一部を財布に入れた。その後、大事な時に見えない手のようなものが出て、転倒や病気の時も助けてくれたと話してくれた。彼自身は、兄の生きた満州近く大連まで行き、関東軍の資料等の研究を続けておられる。

関東軍は悪い評価もあるが、民間人を守り戦い、散った命もあった。

その亡骸は今も大陸に置かれたままだ。

まだ誰も遺骨を取りには行けていないと聞く。

悲しくも、大地に苔むす骨となり、多くの魂が彷徨う場所であろう。

シェアする

フォローする