芸霊 吉原の生き霊(東京都) | コワイハナシ47

芸霊 吉原の生き霊(東京都)

「花街ってのは、男と女が化かしあう処ですからねえ。そりゃ、不思議なことのひとつやふたつ、珍しくはござんせんよ」

長唄の師匠から紹介されてお会いした元芸者、たまき姐さんの第一声である。

還暦を過ぎてなお艶やかな声音と気風の良さに、私はすっかりと惚れてしまった。その感動を読者諸兄と分かち合いたく、よって本項は彼女の口調を再現する形でお届けしたい。

昔の芸者ってのは、そら大変なもんでござんしたよ。

十五にもならないうちに見習いの下地子として預けられて、いざ半玉になったら今度はお稽古だけでなく、お座敷もこなして。それに耐えて耐えて、ようやっと一本立ちして、それからが本番なんですから。並の性根じゃ務まりませんよ、ええ。

まあ、そうはいっても芸者だって人ですもの、たまには風邪くらい引きますわね。ただ、そうしますってえと、お座敷は休まなくっちゃいけません。ちょいと熱があるくらいなら兎も角、ちん、とん、しゃん、に合わせて咳きこんだ日には、華やかなお座敷が台無しになっちまいますから。

そんなこんなで、知り合いの姐さんが風邪で休んだことがござんしてね。

ところがこの姐さんときたら芸者衆でもとりわけ責任感のある……なんて言っちまうと、なんだか真面目な堅物のように聞こえますけどね。そうじゃなくて、つまりはお座敷への執念が強い人だったんですよ。するってえと、どうなると思いますか。

ええ、出るんです。

お座敷に姐さんの姿がぼおっと浮かぶらしいんです。いえ、妾はいっぺんも見たことがないんですがね。目にするのは、きまってお客なんですよ。

これが、死んじまった人間だってんなら、やれお化けだ幽霊だと大騒ぎなんでしょうが、生きてますからね。しかも目撃するのは、姐さんが休んだことを知らないお客だもんで……はあ、なるほど。そういうのは「生霊」ってんですか。しかし、生きてる霊ってのも、なんだか妙な言葉でござんすねえ。

さて……普通だったら、芸者ってのはお客の横に着くもんでしょう。

ところが、「そういうとき」の姐さんは、部屋の隅で微動だにせず座っているんだそうで。おかげでお客はおかんむりですよ。「あの芸者はなんだ。なんにもせず座ってるばかりで、あいつは俺らよりも偉いってえのか」なあんて幇間あたりが叱られるって塩梅です。

ま、置屋の女将なんかはすっかり慣れてますんでね、自分とこの芸者を休ませるときは「来なくていいからね、家できちんと寝てな」って、しつこく念押しするんだそうですよ。そうしないと、身体を放っぽりだして来ちまうってんですから。ええ、有名な話です。

そうそう、もう三十年も前の話になりますけどね。

知り合いの芸者が、家へ帰りがてらにお客を宿まで送ることになったんだそうですよ。なんでも横浜のお大尽で、出張で上京したときには必ず料亭を使い、芸者さんで遊ぶのがきまりのお客だったようで。

それで、その方が「定宿のホテルまで送ってくれ」とせがんだとかでね。たぶん、表を連れ歩いて自慢したかったんじゃあないですかね。まあ、旦那衆とまではいかないけれど、玉代をはずむ上得意ですからね。無碍にもできないねってんで、結局は一緒に帰ることにしたんだそうです。

で、そういう帰り道ってのは「宿の部屋で飲みなおそう」なんて誘われたりするのが、常でござんしてね。昔なら、旦那衆以外の男が色目を使うなんざご法度だったんですが、もうそういう時代でもなかったんでしょう。その子もちょいと脇が甘いのか、なんとなく誘いに乗って、宿の部屋で飲みはじめたんですよ。たぶん二、三杯軽くつきあって、ほどほどのところで退散する腹積もりだったんだろうと思いますがね。ところが、相手はそのうち「風呂に入る」と言いだして、本当に浴槽へお湯を溜めだしたんです。

何度も「しこたま酔っているのだから、お止しになったら」と言っちゃあみたものの、お客はとうに正体をなくしてますから忠告を聞くはずもない。とうとう「そこで待っとけ」と言うなり、服を脱いで風呂にドボンと浸かりはじめちまった、てんです。

さあ困った。向こうはやる気じゅうぶん、いまさらその気がないなんてとても言えない。おまけにその子は着付けが不得手でね。無理やり着物をひんめくられでもした日には、まともな姿で帰れなくなっちまう。

さんざ迷ったすえ……どうしたとお思いですか。

妾もたまげましたよ。その子、お客の免許証を捜しだして書いてる住所をじっと睨み、「助けてください、助けてください」と、一心に手を合わせたってんですから。

ええ、そうなんでござんす。その子もね、休んだ日にお座敷にあらわれる……ええと、なんでしたっけ、先ほどの。ああそうそう、生き霊ってえやつです。その生き霊が、何度となく目撃されてたんですよ。上の姐さんからも気をつけるように言い含められていたし、本人もそれとなく自分のそういうところを察してたみたいでね。それで、神頼みならぬ自分頼みをしたって話のようです。

さてお兄さん、驚くのは此処ここからですよ。

風呂からあがったお客を前にその子がおろおろしてるとね、ホテルのフロントが電話を突然よこしたってんです。

「奥様と名乗られる方がいらしておりますが、お部屋に通してよろしいでしょうか」

お客の家は横浜で、当のお宿は浅草ですから、普通に考えりゃ「ちょいと訪ねてきた」なんてことは考えられない。そうは言ったって無視するわけにもいかないでしょう。で、ためしにフロントへ「女はどんな風体だい」と聞いてみたら、これがもうどんぴしゃり。髪型から服装から、どう考えても奥さんだってんです。

そりゃ大慌てですよ。お客は服も着ずに「すまんが、今日はこのまま帰ってくれ」と、その子を部屋から追いだしたそうです。

で、話はまだ続くんですがね。

しばらく経ってそのお客、また上京した折にその子を呼んだそうで、

「お前、あの夜に我が家へきたかい」

開口一番、そんな寝ぼけたことを聞いてくる。

なんでも、あのあと部屋に乗りこんできた奥さんが言うことには「家に着物姿の女が訪ねてきた」ってんですよ。

「チャイムに気づいて女房が玄関を開けたら、綺麗なべべを着て島田に結った若い娘が、ホテルの名前と部屋番号を言うなり帰っていったらしいんだよ。最初は幽霊かと思ったが、ふと俺の宿まり先が浅草だと思いだして……勘づいたってんだな」

そのお客ってえのがね、どうも常日頃から女好きで、しょっちゅうそういったヘマをやらかしていたようなんです。で、奥さんも疑ってた矢先に妙な女がきたもんで、これはと思って車で駆けつけた……と、こんな顛末でね。

ええ、もちろんその子は知らぬ存ぜぬでとおしたそうですよ。言えないじゃないですか、「さいです、それは私です」なんて。ねえ。

「電話をするわけにもいかなかったもんで」なんて妾には言ってましたけどね、「真夜中に見知らぬ女が訪ねてくるほうが、電話の何倍もおっかないじゃないか」なんて、ふたりで笑いましたよ。

「そういう不思議なあれやこれやも含めて、ぜんぶ花街の夢、夜の夢なんですよ」

ぴしゃりと話をしめると、たまき姐さんはほんのすこしだけ懐かしそうな顔で笑った。

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