札幌厚別区にこのアパートは現存する。
一見、何の変哲もない建物ではあるのだが、どうにも入居者には色々な災いが起きるようだ。
大藤さんはペット可物件を探していて、ここを紹介された。
玄関の上がり框から室内に入ろうとすると、十センチ程下がる段差がある。
床面はコンクリートにクッションフロアーを敷いてあるだけで、左手には和室。
その奥にはやはり同じ床材の洋室があった。
どうにも落ち着かない気はしたのだが、交通の便で条件に見合う物件が他にない。
やむを得ずこの物件で手を打った。
一匹のチワワと一匹のハムスターとともに、新生活が始まる。
ひと月経った頃、帰宅した大藤さんは我が目を疑った。
ハムスターが死んでいたのだ。
自らお腹を掻き毟ったように血が滲み、何故か片目も飛び出していたという。
寿命であれば、まだ納得できる部分もある。
それがこの惨状では、心の落ち着きようがなかった。
とはいえ、いつまでもこのまま放置しておくのはあまりに忍びない。
丁度、このアパートの横には空き地がある。
そこへ埋めて、安らかに眠らせてあげようと思った。
園芸用のスコップなどは持っていない為、スプーンで一生懸命に地面を掘る。
浅く埋めてカラスなどに荒らされるのは可哀想と、できる限り深く掘り続けた。
既に辺りは真っ暗になっている。
ふと、取り囲まれているような視線を感じた。
夜間に怪しい行動をしている中年男性──と思われて野次馬が集まったのか、はたまた警察でも来たのかと顔を上げる。
しかし、周囲には誰もいなかった。
気の所為か。
大藤さんはハムスターをエサなどと一緒に埋葬し、手を合わせる。
癒してくれた感謝の気持ちを心から伝えていると、右肩を二回叩かれた。
反射的に振り向くが、そこには闇があるだけで誰の姿もない。
少し薄気味悪さを感じつつも、自宅へと戻った。
その夜、夢を見た。
大藤さんはある集落にいるようだ。
家のような建物があるが、藁ぶき屋根のようで若干違う。
何処かで見たことがあるような気がするが思い出せない。
そうしている内に、文様が施された着物を纏まとった十人以上の男に取り囲まれていた。
(アイヌだ!アイヌの集落だ!)
そう思った瞬間に目が覚める。
何故か全身に冷や汗を掻き、恐怖を覚えていた。
別段、何かをされた訳ではない。
それなのに、恐怖心が身体に刻まれていた。
ふと気が付くと、愛犬も隣で震えている。
いつもは専用ベッドで寝ているのに、大藤さんにくっつき一点を見つめながら震え続けている。
その視線の先を幾ら見ても、異常は感じられない。
大丈夫だよと宥なだめていると、三十分程でいつもの様子に戻った。
ただの夢、と思いたかったのだが、妙な符合に胸がざわついた。
朝になり、出勤しようとアパートを出たところで、大藤さんは車に撥ねられた。
反射的に躱したお陰で、身体は右腰付近の打撲だけで済んだ。
勢い余った乗用車は歩道を乗り越え、アパート横の空き地で停車した。
怒り心頭の大藤さんが文句を言おうと乗用車に近付いたところ、運転手は何処か惚けているようだった。
現場は緩いカーブになるが、運転手の話によるとハンドルも動かず、アクセルを踏む足が離れなかったという。
普段なら、「馬鹿なことを言うな」と怒鳴り散らすところだが、言葉を失う。
警察の判断は運転操作の誤りというものであったが、大藤さんは薄ら寒いものを感じた。
その日は結局、会社を休んだ。
病院での診察を終え帰宅すると、心身ともにへとへとになっていた。
布団に倒れ込み、いつの間にか眠っていた。
……またアイヌの集落にいる。
立派な髭を蓄えた男性が歩み寄ってきて、何かを言っている。
その剣幕から怒りを伝えてきているのは分かるのだが、言葉が理解できない。
ごめんなさい、となかなか通じない謝罪を連呼している内に夢から覚めた。
気分がどんよりとする。
空気を察したのか、愛犬が慰めにきてくれた。
何故か、この子だけは守らなければ、という意識が芽生えたという。
その日から大藤さんはこの部屋で数多くの体験をした。
宙に浮かぶ生首、天井からぶら下がる男、窓一杯の巨大な顔、部屋の隅で蹲うずくまる少女、例を挙げ出したらキリがない。
それまで一度も霊を見たことがなかったので、最初のうちは驚いた。
しかしそれも連日数度というペースで体験し続けると、感覚が麻痺していく。
終いには(またか)という感情しか残っていなかった。
不思議なのは、アイヌ絡みと思しき霊を見たことは一度もなかったことである。
アイヌの人々に恫喝どうかつされているような夢ばかりを見ていたので、何らかの関連があるのだろうと思っていたが、そうでもないようだった。
一方、愛犬は霊に怯え続ける。
大藤さんにしがみつくか、部屋の隅に隠れ、キューンキューンと鳴き続ける。
(自分が仕事のときは、どんなに怖い思いをさせてしまっているのだろう……)
愛犬の為を思い、引っ越しを考えるようになっていた。
ネットや雑誌で物件探しを続けるが、なかなか条件に合うものが見つからない。
無理をしてでも引っ越すべきか、と悩んでいた頃、玄関先で隣の入居者と会った。
大藤さんが引っ越しの挨拶をしたときは、明るい印象の女性だった。
それが今は妙にやつれている。
世間話から入り事情を探ると、同棲している男性に暴力を振るわれているという。
そういえば夜間に悲鳴のような声を聞いた覚えがあった。
都会の生活のルールというか、他者に必要以上に関わらないようにしていたことが、彼女の異変に気付けなかった要因であった。
聞けば、階下の住人も含めてここ最近で五世帯が転居していったという。
借金の取り立てでヤクザ者が来ていたとか、世帯主が急死し生活が困難になったとか、精神を病んで親元に戻ることになったとか理由は様々であるが、ほぼ同時期に一斉に人がいなくなったらしい。
どうしてそれほど事情に詳しいのかと訊ねると、この女性は大家の親戚であることが分かった。
「それよりもね……」
が、彼女は何かを言いかけた途中で、言葉を濁した。
「いえ、何でもないの。気の所為の話だから、何でもないの」
大藤さんは、思わず自身の霊体験について口走りそうになり、ぐっと堪えた。
結局、それ以上の踏み込んだ話を聞くことはできなかった。
自分の意志でここを離れるのと、何かの不幸で出ていかざるを得ない状況になるのでは意味が違う。
自身の事故といい、何かしらの関連性があるように思える。
大藤さんは観念し、引っ越しを決めた。
その夜のこと。
大藤さんはまたアイヌの夢を見ていた。
半覚醒状態というのか、身体が寝ていることを頭では分かっている状態だった。
それ故、夢の中の自分の思考の他に、現実の自分の思考も存在していた。
やはり髭を蓄えたアイヌの男性は、酷い剣幕で怒っている。
夢の自分は理解できていないのだが、俯瞰ふかん状態の自分には何故か言葉が所々理解できた。
……どうやら、自分達を集落から追い出し、土地を奪ったことが許せないらしい。
あまつさえ、イオマンテ紛いのことをして、眠っていた魂までをも愚弄したという。
自分達の土地に居座る者を皆殺しにするとまで言っている。
その恐ろしさに目が覚めた。
大抵の言葉は理解できたのに、イオマンテとやらが分からない。
大藤さんは言葉を調べて、暫し考え込む。
(そうか、ハムスターだ!!)
慌てて空き地に行き、埋めたと思われるところを掘ってみるが死骸は見つからない。
目印を付けた訳でもないので、大体のところまでしか覚えていなかった。
翌日、明るい内にスコップを用意して掘り探すが、結局見つからないままであった。
「この騒動の発端は僕のような気がして……」
後日、資料を調べると、このアパート付近にアイヌ集落があったのは確認できた。
ただ夢や霊との因果関係までは分からない。
現在の大藤さんは、別のアパートで愛犬と静かに暮らしている。