札幌市豊平区の西岡での話。
現在も付近には結構な数の住民が住んでいるので、詳細な場所は伏せておく。
ある冬のこと。
大学生の藤堂さんは十四時過ぎに帰宅した。
リビングでくつろぎお茶を飲んでいると、誰かに呼び止められたような気がした。
その時間帯は家族の誰もが仕事に出ており、家には一人しかいなかった。
何とはなしに、リビングの窓を見やる。
レースのカーテン越しに見える庭には、人の気配がない。
(気の所為かぁ……)
テレビのほうに向き直ると、また名前を呼ばれたような気がした。
『真樹ちゃん……ねぇ、真樹ちゃん』
また窓を見るのだが、誰の姿もない。
テレビのボリュームを上げ、呼び掛けには無視を決め込んだ。
十八時前にパートから帰宅した母親は、玄関に荷物を置くとすぐに飛び出していった。
帰宅の挨拶もない母親というのは見たことがない。
何があったのだろう、と藤堂さんも玄関先に出る。
隣家の前には大人が数人集まり、別の場所からは怒号のような声も聞こえる。
静かな住宅街では異様とも言える光景だった。
何かしらの怖さもあるが、確かめずにはいられない。
藤堂さんは恐る恐る隣家の前にいる大人に声を掛けた。
「あのー、何があったんですか?」
「丹波の爺ちゃんが、雪に埋もれているみたいなんだって」
藤堂さんは言葉を失う。
幼少期から可愛がってくれた優しいお爺ちゃん。
最近は大学やバイトで忙しく、顔を見るのも久しい状態だった。
ごちゃまぜになった感情が溢れそうになった。
「何処?お爺ちゃんは何処?」
指さされた場所、藤堂家と丹波家の境目に落雪の山があった。
藤堂さんの母親も男手に交じり、一心不乱にスコップで雪を掘っていた。
「お母さん、私もやる!」
皆が必死の救助作業だったが、丹波老人は息絶えた状態で見つかった。
藤堂さんはその場で泣き崩れ、母親が家に連れ帰った。
後日、しめやかな葬儀が執り行われた。
老人の二人暮らしであったことから、丹波夫人の憔悴しょうすいは激しく、誰もが心配になった。
藤堂さんは頻繁に顔を出して声を掛けたり、おかずを届けたりするようになる。
そこには丹波老人への償いというか、せめてもの恩返しの思いがあった。
ひと月も過ぎた頃、丹波夫人が元気を取り戻してきたように見え始めた。
少しでもお役に立てているなら、と藤堂さんは一層顔を出すようになる。
ある日のこと、おかずを届けに行った際に夕食へ誘われた。
気が紛れるなら、と了承し、一度母親にその旨を伝えに帰る。
丹波家へ招かれると、食卓の上には三人分の食事が用意されていた。
その理由はすぐに分かった。
「お婆ちゃん、最近はどう?」
「いやぁ、みーんな良くしてくれてるから助かるよ。雪掻きまでしてもらってるから、テレビ見てるだけだわー。ねぇ、お爺さん」
誰も座っていない方向を見て、にこやかに話す丹波夫人。
「そうなんだ、良かったねぇ」
話を合わせ、笑顔で返答する。
藤堂家だけではなく近所の住民は、雪掻きや屋根の雪下ろし、買い出しなども協力していた。
全ては丹波夫妻の人徳であったと言える。
食事中、見えない丹波老人に向かって何度も話し掛ける丹波夫人の様子を見ていると、藤堂さんは涙が零れそうになった。
あの日あのとき、雪下ろしをしていた丹波老人が落雪に巻き込まれたのは、藤堂さんが誰かの呼び声を聞いた頃合いだった。
もちろん、雪の中から声が届くはずはない。
ただ、テレパシーのようなものが存在するのなら、それに気付いてあげられたのなら、丹波老人は助かったのかもしれない。
藤堂さんはずっと悔やんでいた。
食事を終え、帰宅しようとすると丹波夫人から話し掛けられた。
「真樹ちゃん、明日も一緒に御飯食べよう。お爺さんもそのほうが嬉しいみたいだし、ねぇ?」
誰も座っていないテーブルに、丹波老人の姿が見えた。
にこやかに頷く姿に、堪えていた涙が一気に溢れ出た。
「うん……絶対来る!一緒に食べよう!」
玄関まで見送られる頃には、丹波老人の姿は消えていた。
自分の罪悪感が作り出した幻影だろう。
丹波夫人は寂しさから同じものが見えているのだろう。
分かってはいる。でも、それでいいと思えた。
その日から、結構な頻度で丹波家で夕食を食べるようになった。
バイトは休みがちになり、苦情が出ていることも知っていたが、それより優先すべきことであった。
ただ、あの日以来、丹波老人の姿を見ることはなかった。
丹波夫人の話に合わせ、誰もいない場所へ笑顔を振りまく。
そんな日々がひと月ほど続いた。
『真樹ちゃん……真樹ちゃん……』
夜中に優しく呼ばれた声で目を覚ました。
ベッドの横には丹波老人が立っている。
『寒いんだ……寒くて寒くて……』
言葉は柔らかだが、身体を擦るような仕草を続ける。
「分かったよ。うん、分かったよ……」
その言葉を聞くと、安心したような表情を浮かべて丹波老人は消えた。
朝までの間、自分に何ができるのだろう、と藤堂さんは考えた。
家族が皆仕事へ行った後、藤堂さんは湯呑に熱いお茶を入れて丹波老人が亡くなった場所へ供えた。
自分のフリースも宙に広げ、優しく呼び掛ける。
「ゆっくりお茶を飲んで、身体をあっためて。お爺ちゃん、痩せてたから私のでも着られるでしょ?一緒に家に帰ろう、ね?」
十分程その場で待ち、フリースを広げたままのその足で丹波家へ向かった。
「はいはい、あら真樹ちゃ……」
丹波夫人はその場に泣き崩れた。
ひとしきり泣き終えた後、「漸く帰ってきてくれた」とぽつりと零した。
丹波夫人の話によると、夕食時の丹波老人は穏やかな表情をしてくれる。
日中も、姿を見せてくれているときもある。
ただ、常にいてくれる訳ではない。
葬儀も行った。死んだことは理解している。
夜にふと目が覚めると、丹波老人は横にいない。
寂しくて寂しくて、自分がおかしくなっていると思い、毎晩のように泣いていたという。
「さっきね、『ただいま』って言ってくれたの……」
その言葉に、藤堂さんは言葉が詰まった。
それから三カ月も絶たずに、丹波夫人も亡くなった。
様子を窺いに来た近所の人が発見した。
亡くなるまでの間、丹波夫人は幸せそうだったという。
そして現在、丹波家は空き家である。
藤堂さんが丹波家の前を通り掛かったとき、窓に二つの人影が見えることもある。
内容は聞こえないが、声がすることもある。
(良かったね)
いつもそう思いながら通り過ぎている。