私が、神奈川大学に在籍中、一年次は千葉県の実家から通っていたのだが、二年次からは横浜市神奈川区に下宿することになった。大学は台地の上にあるのだが、そこから少し下った場所の下宿屋に住んでいた。
「腹が減ったな」
そう言ってはJR東神奈川駅や東急東横線の反町駅、東白楽駅まで坂道を下ってラーメンや牛丼を食べたものであった。
ある日のこと、遅くまでやっているラーメン屋で夜食を食べた後、東白楽駅前の通りを歩いていた。
「なんか、変な気分だ」
なんだか、妙な感覚になってきた。──死にたくなってきたのだ。胃の中に血が集まっているからであろうか。何故か目の前の大通りに飛び出したくてたまらなくなった。
(この大通りに飛び出て、向こう側の歩道まで思い切り走りたい)
そんなことをしたら、猛スピードで走っている車に轢かれるのは必至である。でも、どうしても飛び出したいのだ。そんな妙な感覚にとりつかれてしまった。
(飛び出したい、飛び出したい)
もの凄い衝動で体が動き出しそうである。飛び出し=死であったとしても我慢できないのだ。私は自制心と理性で心を落ち着かせた。
(動いてはいけない。我慢せなあかん、我慢せなあかん)
必死に自分を制御した。ようやく心が落ち着いてきた。
その刹那。──前を歩いている男が道路に飛び出した、もの凄い勢いで道路を走りぬけようとした。
「キーッツ! ガタン」
爆音が周囲に広がった。道路に飛び出した男がタクシーにはねられたのだ。
「ゴットン」
頭部を強したたかに打った男。男は10メートル以上飛ばされ、道路に横たわった。
(やばい、早く助けなきゃ)
私も反射的に男に駆け寄った。タクシーを運転していた初老のドライバーも大慌てで出てきた。
「あぁぁっ、やってしまった……」
ドライバーは絶望的な表情をしていた。人というものは絶望的であればあるほど、滑稽な仕草をしてしまうものらしい。ドライバーの動転ぶりは、悲劇のようにも喜劇のように見えた。
轢かれた男は眼を半開きにしたままうつろな表情で、覗き込む私やドライバーを見つめた。周囲にはいつの間にか、やじうまが集まってきていた。
(なんだ、この匂いは)
むせ返るような生臭い匂い、たちまち取り囲んでいたやじ馬がひいた。男の頭部の廻りにできていた血溜まりが、すーっと音もなく丸く周囲に広がっていく。男の廻りに直径3〜4メートルの血の池ができた。男は半笑いのような表情で横たわっている。
(あの男、何故飛び出したのであろうか?)
私はなんとも言えない違和感を感じていた。私がもし踏みとどまらなかったら、どうなっていたのか。私が我慢できずに飛び出していたら、この血溜まりの中にいたのは自分ではなかったのか。
理由もなく死ぬ人が稀にいる。その意味がわかったような気がした。──神を感じた夜であった。
轢かれた男は半笑いのまま死んだ。