たったそれだけで……(青森県) | コワイハナシ47

たったそれだけで……(青森県)

香川翔太の父は肝硬変で入院した。

母に同行して父の見舞いに行ったまではいいが、そもそも翔太と父の間柄は良好とは言えず、五秒も父の顔を見たらすぐに帰りたい。

両親は特に病状に関する話題で話す訳でもなく、とにかく身にならない、他の患者がどうだとか、一人気に食わない看護師がいるなど、相変わらずのしょうもないことばかり大きな声を出す父に辟易するまで二分と掛からず、翔太が病室を出たのは病室に入って五分後のことだった。

運転手として付いてきた手前、母を置いて帰る訳にもいかず、とりあえずは喫煙所にでもと思い立ち、エレベータで一階まで降りた。

母は帰りたくなったら携帯を鳴らすだろう。尤も、仲が良い二人だ。小一時間はあのくだらない話をし続けるに違いない。以前この病院に来た折、表玄関に広めの喫煙室があったことを思い出し、エレベータを下りて真っ先に玄関に向かったが、院内の玄関近くにそれらしきものはなく、自動ドアを出てからまた周辺を見渡すも、やはり喫煙室は見当たらないどころか、代わりに院内全面禁煙の看板を見つける始末。

翔太は一度中に戻って警備員に喫煙所の場所でも訊ねてみようかとも考えたが、外に出たならもう院内ではないのだし、かといって玄関横で煙草に火を点けるのも問題であろうから、ならば玄関から離れた所で一服しようと、病院の壁に沿って裏手裏手へと歩いた。

道路は駐車場を抜ければすぐ目の前にあり、何なら車まで戻るという選択肢もあった。

どこかに灰皿の一つでも設置されているだろう、と期待を持てるくらいには大きく立派な病院だったことと、何より秋晴れが爽やかな少し散歩でもしたくなる天気だったことが、病院の外周散策と洒落込むことになった原因である。

ちょうど病院の真裏に差し掛かると、一台の救急車が音もなくゆっくりと病院の敷地に入ってきた。消防車や救急車、パトカーなどはまるっきり一般車両と違うデザインを持つせいか、目に入ったが最後、ついじっと見てしまう。

停車した先には大きな緊急患者用の出入り口があった。

特に切羽詰まったような雰囲気が感じられない救急車の佇まいから判断するに、この車両はここで一旦待機しそうだ。何かこの病院の設備では手に余る大変な容体になりそうな患者がいて、搬送の段取りが付くのをここで待つのだろう。

父のいる病室に戻ると、ちょうど母が帰り支度をして待っていた。

「父さん、経過に問題なかったらすぐ退院だって」

「あ。そう。ずっと入院してていいんだけど」

母を実家に下ろしてから、翔太はそのまま会社へ行った。休みを取っていたのだが、メールと不備で戻ってきた書類の有無を確認したかった。

翔太は化粧品、美容グッズや雑貨などを取り扱う企業の営業担当だ。

「香川さん、お疲れ様です」と隣のデスクに座る後輩の田村。

「お疲れ。今日はどう。トラブルはなし?」

「ないっすね。暇っす。休んで正解っす」

面倒なメールもなく、戻ってきた書類もなし。

一服して同僚と馬鹿話でもしたら帰るつもりだ。

「そういえば、二回、香川さんの内線鳴ったっす。でも代わりに出たら切れたっすね」

「切れたって。内線だろ?受け付けから来たんだろ?」

通常、外線は受け付けが取り、そこから内線で各デスクに回る。

電話が切れたなら受け付けに連絡して、先方に再度こちらから連絡するのが筋だ。

「いやぁ。受け付けに連絡したら鳴らしてないって。内線が勝手に鳴ったみたいで」

「何じゃそりゃ」

談話室という名の喫煙所に入ると、先客がいた。

「お疲れぇ。香川君、休みじゃないの?」

「そうそう。親父が倒れてね。呑みすぎて」

総務の岡野とは煙草仲間だ。談話室でしか顔を合わせることがほぼないながらも、翔太は岡野の気さくな人柄が気に入っていた。

「そっか。いや、ちょうど窓から車が駐車場に入ってきたの見ててさ。いいの?まだ一服してて。彼女、怒るんじゃない?」

「ははは。彼女いませんよ。欲しいです。紹介してください」

「あら、じゃあ車にいた人はあれ?彼女未満?遊び人だねえ」

家に帰ると、食卓の上には母が近所のスーパーで買ったと思しき弁当が一つ置いてあった。家の中が静かだったので、二階の居間を覗くと、母が座布団を枕に横たわっている。

声を掛けようかどうか考えあぐねていると、「ちょっと具合悪くて」と母が顔だけ向けて言った。

「最近、寒暖の差があるからね。休んでな」

翌日になっても母の調子は良くならなかった。「大丈夫?」と問うても「心配しないで」と細い声を出す母。両親とも決して若くはない。そろそろ結婚でもして、孫の顔を見せてあげなければ。母を置いて仕事に向かう途中、そんなことを初めて思った。

それから三日経っても母は寝込んだままだった。

一応は朝晩とも起きて少量の食事を摂る姿を見かけるのだが、物も言わずに寝室に去っていく。体調について訊ねても「ああ」としか言わない。「病院に行ったら?」には、「すぐ治る」と。

もうしばらく様子を見て快方に向かわないようなら、無理にでも病院に連れていこう。

朝の喫煙所には牢名主よろしく、岡野がいた。

クリアファイルをテーブルに置き、書類を見ながら煙草を咥えている。

「おう。香川君。おはよう」

「おはようございます」

挨拶だけ済ませると再び視線を書類に落とす岡野。

翔太は仕事の邪魔をしないように何となく外を眺めながら煙を吹いた。

「……彼女、元気?」

「いや、だからいませんて」

「まだ付き合ってないの?その割に毎朝会社まで連れてきてるじゃん」

「いや、いませんから」

「彼女、会社から近い所に住んでる訳?」

冗談にしてはしつこい。

翔太の車に女が乗っているのを見た、ということを言いたいのだろうが、最近車に乗せた女性といえば母しかいない。それをこんな風に茶化されるのは、ある意味で屈辱的なことだ。

「今日も乗ってたよね」

「いませんから。違う人の車を見てるんじゃないですかね?」

「……いや、香川君の車だよ。香川君が降りるところも見てるんだから。助手席に座ってるじゃん。隠さなくていいよ」

「本気で言ってるんですか?」

「何?怒ってるの?じゃあ、連れてこなければいいじゃん。あんなの目立つって。会社の窓から丸見えだよ?」

「いや。いないんです。連れてきてないんですよ。見間違いだと思います」

「……ええ?でも、みんな見てるよ?総務で噂にしてるんだから、ほんと。みんな見てるから……そんなに否定しなくても」

岡野は宥めるような口調でそう言った。

これではまるでこっちが強情を張っているようではないか。

「いいです。今度、その女の人が乗ってたら、写メでも撮って送ってください。それを見たら認めます」

「何でそんなこと……いいよ。分かったよ。撮ったらすぐ送ってやるからな」

後味が悪いまま、デスクへ戻った。

すぐさま内線が鳴り、取ると切れている。

「またっすか?」と田村が残念そうに声を掛ける。

「電気系統の問題なんすかね?よく分かんないすけど」

ここ数日の間に、これで何回目だろう。

家に戻ると母はやはり寝ていた。

駐車場から降りると、携帯にメール。

岡野から〈激写!〉というメッセージと写真が一枚。

朝から身体が怠い。

それから数日後、父の訃報。

夜、病室で寝ている間に、吐瀉物を喉に詰まらせたのだそうだ。

母は病院でパニック障害だと診断された。

母に代わり、翔太は葬儀の段取りに東奔西走した。

倦怠感はずっとあった。

一通り終えると、会社を辞めたくなった。

既に消去はしていたものの、岡野から届いた画像が時折頭に浮かんだ。気にしてはいけないと思っても気になってしまう。しかし、気にしてしまったらもう、終わりだ。

メールを受け取ってから、岡野とは顔を合わせないようにしていた。

しかし、出社し続ければいずれ必ずどこかで顔を合わせる。

あんな女乗っていないんです。

あの写真に写っている女なんて知らないんです。

その言葉で納得するのだろうか。

岡野は他の社員も車の女を見たと言っていた。

自分が反論したことも、既に噂になっているのだろうか。

父を亡くし、母は病気で、自分は社内の変わり者だ。

会社に戻ると何も伝えない内線が鳴る日々がまた始まってしまう。

それは耐えられない。

仕事中、田村の携帯が鳴った。

翔太からだった。

今から会えないか、と告げられた。

「それ、マジなんすか?確かに香川さんが彼女を会社に連れてきてるとは聞いてましたが、じゃあそんな女いないってことっすか?」

田村は喫茶店で翔太が話す内容を到底信じられなかった。

内線の不調に関しては代理で受話器を取っている以上、当事者側だ。

しかし、翔太の両親の不幸に関しては偶然としか思えない。

何が言いたいというのか。

「何が始まりなんすか?何でそんなこと考えるようになったんすか?」

翔太は少し間を置いてから、病院で見た救急車のことを話した。

田村にはまったく付いていけない話だった。

そして、退職の手続きすらせず、ひたすら欠勤を続けた翔太は懲戒免職となった。

社員が会社に女を連れてきたという噂は、その後まったく趣の違う話に変わった。

空いた翔太のデスクの内線が鳴ると、誰もが怯えた。

田村が転職をして職場を去ると、しばらくしてこんな噂が立った。

内線が鳴る。

受話器を取ると、少し間を置いて、

「……いますか?」

と、かぼそい女の声が聞こえる。

そして電話は切れる。

たったそれだけで、電話を取った社員の人生は終わる。

翔太も田村も岡野も、もうその会社にはいない。

噂だけはまだある。

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