前兆 八海山その一(新潟県南魚沼市) | コワイハナシ47

前兆 八海山その一(新潟県南魚沼市)

南魚沼市の旧六日町と旧大和町の境にそびえる八海山は、日本二百名山の一つ。越後駒ヶ岳、中ノ岳とともに越後三山の一峰であり、古くから山岳信仰の山として崇められてきた。

夏に、八海山に登ったことがある千葉県在住の和也さん。今度は冬山にチャレンジしたいと考えていた。

和也さんは登山経験が長い。仲間との登山も良いが、どちらかというと単独行をしたいと思っていた。ルートを考えたり、もしもの場合を想定して準備をしたり、全ての責任を自分で背負わなくてはいけない緊張感が好きだった。

自営業である和也さんの仕事は、繁忙期を過ぎて一段落している。予報では天気も安定しているとのこと。準備は万端なので、翌日にも出かけることができた。

ただ一つ問題なのは、昨年結婚したことだった。事故や遭難を心配した妻から「登山はやめて欲しい」と何度もお願いされていたのだ。しかし、和也さんは「これで最後にするつもりだから」と説得して、出かけることにした。

八海山は青空も空気も清々しく、気持ちが良かった。

和也さんはテントに一泊して頂上を目指す計画を立てていた。その日は早めにテントを張って、夕食と雪山の静かな夜を楽しんだ。

シュラフ(寝袋)にすっぽり包まれ、うとうとしている時だった。外張りをつけた冬用のテントの生地を、外からズーッとこするような音がした。

一度ではない。繰り返し繰り返し、その音が聞こえてくる。爪でひっかくような音なので、野生動物かと不安になったが、音以外に気配はない。まるで和也さんを眠らせないように、誰かが音を立てているような気がした。

しばらくすると奇妙な音は止んだ。だが、今度は外から女のすすり泣くような声が聞こえてきた。和也さんもこれには驚いて、「誰かいるのか?」と声を上げた。しかし、返事はない。

和也さんは、体温が下がるのを覚悟でシュラフを抜け出した。登山者が助けを求めているのかもしれないと思ったのだ。

テントの周辺をランタンの灯りで見て回ったが、人の姿はなかった。

和也さんは、空耳か何かの音を聞き間違えたのだろうと考えて、再びシュラフに潜り込んだ。すると間もなく、今度は赤ん坊が泣くような声がしてきたのだ。

和也さんはもう一度見に行くかどうか迷った。山では説明のつかない不思議なことが起こるものだと聞く。遠くで泣いている声が、何かの理由でここまで届いているのかもしれない。

そのうち、赤ん坊の泣き声は消えていった。だが、和也さんはすっかり目が覚めてしまった。

明け方、ようやく和也さんは眠くなってきた。そのせいで起床が遅れ、予定より遅い出発になった。

予定していたルートを登り始めると、すでに日が高くなっていて、雪面からの日光の反射がきつい。

前方の登り斜面を見ると、登山者が見えた。どうやらその登山者も単独行のようだ。

突然、和也さんの耳に赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。和也さんは驚いて立ち止まった。前を行く登山者に目を凝らしてみると、背負っていたのはリュックではなく、ベビーキャリーだった。

和也さんは呆然とした。すると、登山者は後ろを振り返り、じっと和也さんを見つめた。登山者は女だった。しかも、見た目は和也さんの妻に似ていて、さめざめと泣いていた。

その時、女の後ろに動くものが見えた。和也さんは直ぐに雪崩だと気付いた。

このままでは、雪崩に飲み込まれてしまう。和也さんがそう思った瞬間、女の姿は見えなくなってしまった。雪崩に巻き込まれたのではない。姿を消してしまったのだ。

和也さんは逃げ遅れてしまった。だが、幸い規模の小さな雪崩だったため、巻き込まれずに済んだ。

和也さんは登頂を諦め、急いで下山した。妻に似た女が現れたため、妻の身に何か異変があったのではないかと感じたのだ。

しかし、凶事ではなく吉事だった。妻は妊娠していたのだ。

その年の秋、和也さんの腕にはかわいい我が子がいた。今、和也さんは家族みんなで楽しめる趣味を持ちたい……と考えている。

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