牛憑き(静岡県伊豆市) | コワイハナシ47

牛憑き(静岡県伊豆市)

「うちの叔母は美容室を経営するかたわら、お客さんのお見合いの相談によく乗っていたんですよ」

法律事務所に勤める里歌さんは二十年ほど前、叔母から見合い相手を紹介された。

Kという、総合商社に勤める男性だった。Kの母親が、ある女性とKとのお見合いに立ち会うために、里歌さんの叔母に髪結いを頼んできたことが縁になった。Kとその女性とのお見合いは結局うまくいかず、それを聞いた里歌さんの叔母が、じゃあうちの姪なんかどうでしょうか、と勧めたのだった。

Kは県内有数の名家の跡取りで、里歌さんはお見合いの前にKの母親と引き合わされ、事前審査とばかりに二時間ほどあれこれと質問攻めに遭った。金縛りに遭ったことはあるか、幽霊は大丈夫か、など、奇妙なことも聞かれた。里歌さんは、金縛り体験は時々あるが、ただの生理現象だと割り切っており、幽霊の存在は信じていない、と素直に答えた。

Kの母親のお眼鏡にかなったようで、翌週、里歌さんはKとお見合いする運びとなった。

里歌さんはKが名家の人間だということで緊張していたが、会ってみたら気さくで笑顔の柔らかい男性だった。初めて会ったとは思えないほど話が弾み、Kは結婚を前提にお付き合いしてください、と里歌さんにお願いしてきた。横にいたKの母親も、にこやかな顔で頷うなずいていた。

「嬉しかったんですけど、なんだか急いでいるなあ、という印象を受けましたね。わたしとの結婚を熱望してくれているというより、結婚することで何かから逃れようとしている感じでした」

Kの多忙なスケジュールを縫って、お見合いの後に二人きりで二度ほど食事をした直後、Kの母親がKと里歌さんとの結納の日取りを決め、伊豆への婚前旅行を提案してきた。里歌さんの母親も、Kさんは良い人そうだし、結納が決まった相手とならいいじゃないの、行ってきなさいよ、と旅行を許可してくれた。

里歌さんはKに対して好感を持ってはいたものの、一生添い遂げる相手と決め込むほど入れ込んではいなかった。だが他に意中の人がいたわけでもなく、周りのお膳立てに従う形となった。

Kの運転する車で伊豆の旅館に着いたのは夕方過ぎだった。食堂で食事をとり、酒を呑むと、緊張と疲労のせいか、二人とも眠くなってしまった。

とりあえずひと眠りしますか、とKは言って、押入れから布団を取り出し始めた。男性と一緒に宿に泊まることが初めてだった里歌さんは、十二畳の和室に飾られた掛け軸や木彫りの熊を見ながらどぎまぎしていた。

Kは二人分の布団を敷くと、あくびをしながらさっさと自分の布団に寝転がってしまった。里歌さんはほっと溜め息をつきながら、肩すかしを食らったような気分になった。部屋の明かりををオレンジ色の豆電球にして、仕方なく里歌さんも寝転がった。Kが薄目を開けながらちらちらと里歌さんの様子をうかがっていた。

体を横たえると、どっと疲れが押し寄せてきた。だが頭は冴えていて、なかなか寝付けない。

Kが突然触れてきたら、どんなふうに反応したら良いんだろう。そんなことをぼんやり考えていると、カリカリカリカリ、と乾いた音が聞こえてきた。隣にいるKの方からではない。部屋の入り口の方だ。

カリカリ。ドッ。カリカリカリカリ……。

硬いもの同士がこすれ合う音の中に、何かを叩く音が混じる。

ネズミだろうか?だがそれにしては音が大きい。ネコか?だがネコなどこの部屋にいるはずなどなかった。

里歌さんは薄目を開け、部屋の入り口のほうに体を向けた。オレンジ色の淡い明かりの中、部屋の入り口近くにある冷蔵庫の前に、大きな黒い塊がうごめいているのが見えた。

犬?いや違う、もっと大きな動物だ。里歌さんの胸ほどの高さのあった冷蔵庫の扉を、前足で掻いている。あのシルエットは牛かな、と思った時、頭部から垂れた長い黒髪のようなものが揺れていることに気づいた。

怖くなり、里歌さんが隣で寝ているKの名を呼ぼうとした直後。

黒い塊が里歌さんの視界を覆い、胸に重いものが乗っかってきた。思わず目をつぶると、動物の湿った糞のにおいが鼻孔を突いた。

金縛りか、と里歌さんは思ったが、こんな苦痛は今まで体験したことがない。

胸を押さえつけられ、うまく息が出来ない。胸には硬く鋭い感触があった。里歌さんは顔をしかめながらゆっくりと目を開けた。

牛だった。目の前に胸の前部が迫り、湿った鼻息を顔に浴びた。体は丸く肥えていて、耳が横に長い。だが、その顔をよく見ると、眼と唇は若い女のものだった。見開いた二つの目が、里歌さんを威圧する。

視界がぼやけ、気が遠くなっていく。「それ」は左右に足踏みをするかのように、里歌さんの肋骨をゆっくり強く押してきた。助けを求めようとしても、息を出しきってしまい、声を発することができない。

もう駄目だ、と思った時、突然、ふっと軽くなった。

里歌さんは胸を押さえ、思いきり息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと身を起こして、Kを見た。

Kがいつの間にか正座をしていた。彼は体を強張らせ、俯き、ぶるぶると震えている。

里歌さんが口を開く前に、Kが声を漏らした。

「ごめんなさい」

そう言ったKがゆっくりと顔を上げ、里歌さんの顔を見る。

「さっきの、見えてましたか?」

里歌さんが訊くと、Kは顎をカタカタ震わせながら頷いた。ただの金縛り中の幻覚ではなかったのだ。

「僕のせいです、彼女が出てきたのは」

Kは訥々と語り出した。

「彼女」は、Kが昔付き合っていた女性なのだという。職場の同僚であり、周りに内緒で愛を育み、結婚を考えた。だが、Kの母親は彼女を見るなり、別れなさい、と命じた。

「あの女には、牛が憑いてる」

そんなことを言う母親に対して、Kは言い返すことができなかった。

思い当たることがあったのだ。彼女の隣で寝ていると、夢うつつの中で、その場に居ないはずの白黒の牛を見たことがあった。時にはその牛のせいで、圧死するのではないか、と息苦しくなることもあったという。

Kは、彼女と牛に因縁があるのではないかと思い、彼女を問いただした。すると、彼女の親族の一人が晩年に精神を病んでしまい、家の近くの牧場でたくさんの牛の喉を切って殺していたことがわかった。

結局、Kの気持ちが離れてしまい、彼女とは別れることになった。だが、Kが他の女性と寝ようとするたびに、別れた彼女が牛の姿で現れ、女性にのしかかるのだという。

僕を恨んで生き霊を飛ばす時に、牛の霊を連れてきてしまうのだろう、とKは言った。

Kの母親は、Kが独身でいるうちは、「彼女」にまだ思いを残しているのだろう、と疑っているらしい。だから他の女性と急いで結婚させようとしていたのだ。だがKが他の女性と一緒に寝ようとすると、必ず牛憑きの女が現れ、別れることになってしまう。

翌朝、Kよりも早く起きた里歌さんは部屋の冷蔵庫の扉を見て、息を呑んだ。いくつもの赤黒い筋が付いていたのだ。それをトイレットペーパーで拭き取りながら、昨日聞いたカリカリという音を思い出した。血だまりの中で前足をばたつかせる牛たちの姿が頭に浮かんで仕方がない。

里歌さんは結局、Kと別れた。Kは今でも独身らしい。

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