指籠の人 精神病と座敷牢(東京都世田谷区) | コワイハナシ47

指籠の人 精神病と座敷牢(東京都世田谷区)

【我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ】~呉秀三『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』より

久保家のガートルードこと私は、クローディアスこと田渕正浩を後ろに従えて、久保家当主の信二の寝間に入った。一家の者から日頃は亡霊として扱われるようになって久しい信二が、息を吹き返す瞬間だ。白く濁った眼を見ひらいた夫に、私は侮蔑と昔日の情欲の名残をまぜこぜにした視線を投げかける。

久保家の親戚筋の青年である正浩も、近ごろでは信二を馬鹿にすることに慣れて、平気でこの病人の前で私とまぐわうようになった。書生だった正浩の童貞を奪ったのは私で、それまで交合を誰かに見せつけることなど思いもよらなかった初心な男が、こうなるのは存外に早かった。近頃では、私の娘の彩に手をつけているのだから、若い男なんて、しょうもない生き物だ。

彩といえば、あれは十八になるが、外の世界というものをついぞ知らない。

ずいぶんと前、たしか大正八年に精神病院法が施行されたことは私も承知しているが、構うものかと私宅監置を続けている。あそこの居心地は、まあ、悪くないはずだ。桧格子の指籠はいつも、ハムレットこと伸夫によって隅々まで拭き清められており、寝食には困らない。綺麗な振袖を着せてやっているのは彩が晴着を好むからで、つまりそれぐらいの我儘を私が許しているということだ。

正浩と繋がり、結合部を寝たきりの信二に舐めさせていると、障子のすきまから覗いている伸夫と目が合った。なんて間抜けなつらつきをしているのかしら。冬の野良犬みたいな、あのしおたれたようす、卑しいったら、ないわ。あんなふうに育てたおぼえはありません。それをいったら彩も、見てくれだけは薄紅色した牡丹の花みたいに美しいけれど、おつむがあの調子では、死ぬまで、いいえ、死んでも人前に出すわけにはまいりません。

──シェークスピアの『ハムレット』を基にして溜さんが脚本を書いた『淫母』に出演したのは、二〇〇一年の三月頃だった。撮影に使ったハウススタジオは、たしか世田谷区三軒茶屋にあったように思うが、もしかすると記憶違いかもしれない。

二○一六年十月現在、三軒茶屋辺りには、あのようなハウススタジオは影も形もない。

もういっぺん訪れたいと思い、三軒茶屋に限らず世田谷区全域を探してみたが、見つけることが叶わなかった。ただ、『淫母』のパッケージ写真と私の記憶のなかに、奥へ行くほど畳が暗くなる旧家然としたたたずまいの片鱗をとどめるばかりである。DVDなら画像を再生することもできようが、『淫母』はVHSであり、今の私には見るすべもない。

もっとも、伝手を頼れば見られると思うし、心当たりもあるけれど、そこまでする必要はないだろう。このたび私が肝腎だと感ずるのは、あの屋敷には指籠、つまり、いわゆる座敷牢が在ったということのみなのだから。

十五年ほど前までは、世田谷区内の住宅街の片隅に、時代から取り残されたような平屋造りの屋敷が建っており、その奥座敷が座敷牢に改造されていたのである。

世田谷区立教育センター内「せたがや平和資料室」にある戦災地図で確かめればわかるが、世田谷区は第二次大戦の東京大空襲で区の面積にして三割しか焼けなかった。その頃の世田谷区のほぼ半分は農村地帯で、米軍は熱心に狙う必要なしと判断したものと思われる。だから、古い建物が比較的、良い状態で残っているのだ。

精神病者の私宅監置が禁止されたのは一九五〇年だが、あの屋敷はもっとずっと前に建てられたものだろう。全体に古色蒼然とし、一見、贅沢な豪邸のようだが、足を踏み入れたら、そこここに傷みが目立ち、住むには適さなくなっていることは歴然としていた。

戸を閉め切っていてもどこからか隙間風が入り、滅多に替えられることがなくなった畳は一歩踏み出すごとに気色悪く沈んだ。廊下の床板はたわみ、柱には白しろ蟻ありが噛んだ痕がゴールのない迷路を描いていた。

いかにも幽霊が出そうな雰囲気の屋敷だった。日が沈むとキーキーギシギシと家鳴りがし、それになんといっても頑丈そうな格子が付いた座敷牢の存在が不気味である。

おまけに、あの作品はAVにあるまじき陰惨なドラマで、全編とにかく暗かった。溜さんは日頃は冗談ばかりいう飄々とした男で、創る作品の大半もポップなお色気コメディの類なのだが、たまに、暗く淫靡なドラマを考えついた。

『淫母』の舞台は大正時代。色情狂の悪妻が、夫に毒を盛って寝たきりにさせ、書生を愛人にして変態的な性行為に耽溺したあげく、実の息子とも交わる。実の娘は精神を病んでいるのか脳に欠陥があるのかわからないが挙動がおかしく、座敷牢に閉じ込められている。その娘を書生が強姦。その後、息子と娘も近親相姦し、息子も頭がへんになり、ラストシーンは、たしか、息子が万華鏡を覗き込みながらクルクルと回る場面だった。

そんな陰惨な話ではあるが、私は悪役を演じるのが楽しかった。また、大正時代に流行はやったという束髪に髪を結ってもらい、高価な着物を着せてもらえるのが嬉しかった。

が、しかし、やがて夜になり、縁側の外が真っ暗になってくると、鳥肌がおさまらなくなってきた。あの座敷牢が怖い。同じ建物の中に在るというだけでも恐ろしい。

私宅監置制度は、精神に問題のある人を養う中流以上の家庭で多く利用された。

──叔母のことを思い起こさずにはいられなかった。

父方の叔母は、若い頃、包丁を手に実の息子と娘を追い回して措置入院してからこの方、精神病院に入院している。撮影当時でも、すでに二十年以上、入院しっぱなしだった。

叔母を病院から出すことは論外だ。一族皆がそう思うようになって久しい。なにせ、仮退院させるたび、相手が血縁者だろうが他人だろうが見境なく、本気の殺意のこもった暴力を振るい、即座に病院に舞い戻ることになってきたのだから。

そんな叔母だが、本格的におかしくなってしまう前は、たいそう美しい人だった。

私が幼児の頃は、叔母はまだ実家にいた。つまり私の祖父母の家ということになるが、これが、私が両親や妹と住んでいたアパートの下の階の部屋で、遊びに行くと、よく叔母が相手をしてくれた。

「これ、あげる」

あるとき叔母がそう言って、白魚のような指で飴の包みをつまむと、私の湿った掌にポツンと落とした。今思えば、あれは不二家のノース・キャロライナだった。私が生まれた翌年の昭和四十三年に発売された袋売りのソフトキャンディで、平成六年頃まで売られていた。

苺いちごやメロン、ミルク風味やチョコレート風味のヌガーを狐色のキャラメルで巻いてあるのが特徴だったが、単調なグルグル模様の飴が八、九割で、一袋の中にほんの少しだけ、市松模様や花模様など、ちょっと凝った巻き方をしてあるのが混ざっていた。

花模様の飴はいちばん珍しくて貴重であり、そのぶん味も良く感じられたものだ。

叔母がこのときくれたのは、ピンクと白の花模様の飴だった。

「お花の、いっとう好きでしょう?あげるから、一緒に公園に行きましょう」

祖母が心配して、奥の間から声をあげた。

「大丈夫かい?」

振り向くと、祖母は針を操る手を止めていた。祖母は有名な呉服店の下請け職人であり、プロの着物の縫い子だった。このときも膝の上に目も綾な金箔や刺繍入りの友禅を広げていたはずだ。この世田谷区下馬のアパートの、しょっぱいような六畳間には似つかわしくない豪奢な衣装を、呉服店に内緒で、祖母はこっそり叔母に着せてみることがあった。

──彩が着ていたような振袖を。そういえば、あのアパートと座敷牢の屋敷は、私の心の中でも地図上においても、ずいぶんと近い──。

叔母に連れられて公園に行ったことは、よく憶えている。たぶん、あの一回きりだ。なぜなら私は、片一方の二の腕の内側に火傷を負って、泣きながら帰るはめになったから。

ゾウリムシのような形をした幼児の掌ぐらいの大きな水ぶくれが出来て、臭い軟膏を塗りたくられ、ガーゼをあてた上から包帯をぐるぐると巻かれ、最初のうちは痛く、後には痒くてたまらなくなり、ずいぶん長いこと苦しめられた。

叔母は、コンクリート製の滑り台が日光で熱くなっていて、そこに私が腕をつけたために火傷をしたのだと祖母に説明した。

それは本当だったのだろうか。

もうわからない。火傷をしたときのことだけ、記憶からすっぽり抜け落ちている。

憶えているのは叔母の顔。叔母は、べそをかいている私を覗き込んだときも、その後、祖母に説明していたときも、同じ表情をしていた。

微笑が貼りついた仮面を、この叔母は外したためしがなかったのだ。

我が子を包丁で刺そうとしたときも、そうだったろうと思う。

座敷牢のあるハウススタジオは、夜が更ふけるにつれ家鳴りが酷くなった。

「ラップ音じゃない?」と誰かが屁っ放り腰になってつぶやいた。

「騒ぎすぎだろう、この家。マイクに音が入っちゃうよ。幽霊さん、お手柔らかにお願いしますよ」音声マンは、そうぼやいた。

しかし、絡みのシーンになると、不思議と家鳴りはなりをひそめた。静寂に、芝居の喘ぎ声や衣擦れが響く。何者かが、息をつめて私たちに注視している。そんな感じを覚えた。

私の裡には、日暮れからこの方、誰にも聴こえはしないが低い音で恐怖が鳴り続けていた。座敷牢の娘、彩に餌を与える場面で、それは一気に高まった。

格子をはさんで若い娘と対峙する。と、そのうつろな顔と華麗な友禅の着物に、間違いなく見覚えがあったのだ。

「おまえなんか、死ねばいいのに」

私の口をついて出た台詞は、本心からのものだった。正しく殺さねばならぬ。

「お母さん、私をここから出して」

棒読みの台詞は、この場合、真に迫っていた。常に微笑しているような美貌も。

うん、やはり殺そう。やらねばやられる。だから、どうしても殺す必要がある。

第二の叔母を目の前にして、精神病院にいる叔母の気持ちが理解できた。

全身の毛穴が開き、ぷちぷちと湧き出してきた汗は、かつて感じたことのない冷たさで、ともすれば膝ひざが笑いそうになりながら、私は餌の皿を格子の隙間に乱暴に突っ込んだ。

殺意を押し殺すための途方もない努力のせいで全身を小刻みに震わせながら、なんとか台本に書かれているとおり一歩後ろに下がる。するとすぐに、振袖を着た娘が、手も使わず、獣のように皿に顔を伏せて餌を貪むさぼりはじめた。

すぐにカットが掛かったからよかったようなもので、もう少しあの場面が長かったら、私が檻に入るようなことになっていたかもしれない。

ギシギシキッキと軋む屋敷での撮影が終わり、私と溜さんは家路につこうとしていた。

制作スタッフにタクシーを呼んでもらい、二人で屋敷の前から乗り込もうとするとき、名前を呼ばれた気がして振り返ると、明かりを背負ってシルエットになりながら女性が一人、縁側に立ってこちらを見ている。

娘の彩、もとい、共演したAV女優さんではないようだ。彩は市松人形のように髪をおろしていた。縁側の人影は、着物姿で髪を結い上げており、肩幅が狭く、年輩の女性のように思われた。

逆光になっていて、距離もあるため顔などはわからないが、強いていえば、久保家の悪妻に扮した私に背格好や髪型が似ているようだ。

誰だろうと思ったが、溜さんに強く促されてタクシーの後部座席におさまって、もういちどそちらを見たときには、そこに立っていたのは束髪の着物姿の女性ではなく、普段から霊感があると自称している大阪出身の男性スタッフだった。

彼は縁側から私に向けて右手をブンブンと振って見せながら、大きな声を発した。

「ねえさぁん、気ぃつけてやぁ!」

溜さんは「なんだあいつ」と呆れてから、私に訊ねた。

「川奈、何か見たのか?」

何も、と私は嘘をついた。ここは「出る」という噂があるのだと溜さんは教えてくれて、それは私も知っていたけれど黙っていたら、彼は「座敷牢があるからなぁ」と呟いたきり黙った。なんだろうと思えば眠っていて、麻あざ布ぶ十じゅう番ばんのマンションに帰るまで私の男は目を覚まさなかった。

それから四年ぐらいして、私はインターネット上に興味深いウェブサイトを見つけた。

『少年犯罪データベース』という、日本で起きた少年犯罪の記録集のサイトである。

その主宰者、管賀江留郎氏は、のちに、『戦前の少年犯罪』と『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』という素晴らしい著作を為すのだが、それはさておき、私はまずはウェブサイト『少年犯罪データベース』の愛読者になった。

その後、また三年ばかり経過して、たぶん二〇〇七年頃だと思うが、同サイトで私は、とある事件の記録を見て、何事かを思い出しかけた。

二〇〇八年頃だったろうか。AV女優を辞めて四年ばかり経過しており、私は溜さんとの間に生まれた息子を育てながら、小説教室に通っていた。

もしかしたら二〇〇九年だったかもしれないが、初めて長編小説を上じょう梓ししたのが二〇一一年だから、それより前であることは確かだ。もしもプロの作家の自覚が当時からあったら、「とある事件の記録を見て、何事かを思い出しかけた」挙句、裏取りもせずメモも残さず、すっかり忘れるような間抜けな真似はしなかったのだが。

しかし、その頃の私はのんびりしていて、蘇りかけた記憶の正体を突きとめることはせず、まだ幼児だった息子がピャーと泣いた途端、ただちに忘れた。

それが、今回、実話怪談を書くことを依頼されて、なんとなく『淫母』に出演したときのことを思い出し、当時の資料を引っ張り出して見ていたら、ふいにその記憶も蘇った。

まさかと思い、『少年犯罪データベース』を当たってみたら、間違いなかった。

二〇〇八、九年頃、ここで見つけた世田谷の資産家女性殺人事件の記録から、私は、二〇〇一年に訪れた座敷牢のある屋敷と、そして叔母のことを想起したのだった。

昭和三年(一九二八)六月二十七日、東京市世田谷区松沢町上北沢の屋敷に、東京美術学校彫刻科に通っていた二十歳の学生、谷口富士郎と、その次弟で、日大第二中学四年生の省二郎・十八歳が押し入り、その家の当主である資産家の女性・六十六歳を用意していた石彫用の金鎚で殴打したのち、電線を使って首を絞めて殺害し、二円三十銭と懐中時計などを盗んで逃走した。

当時の一円は今の二千五百円から三千円程度だというから、二円三十銭は六千円弱ということになる。懐中時計が値打ちものだったとしても、強盗殺人の代価としては安い。

たったそれだけを強奪するために殺人者となった谷口富士郎は、事件を隠いん蔽ぺいするために、それから三ヶ月と少しして共犯で弟の省二郎も金鎚で殴殺してしまい、さらに、その下の弟である十七歳の三男に死体の処理を手伝わせた挙句、殺害しようとした。

からくも三男は命は助かったものの、富士郎によって精神異常者の烙印を押されたうえ、精神科専門の医療施設である東京府松沢病院に放り込まれた。

東京府松沢病院は、都制に移行すると同時に東京都立松沢病院と名を改め、現在では最新医療を行うことで知られるが、戦前までは、明治時代の精神病院の呼称「癲てん狂きょう院いん」と呼ばれることもあったという。「世田谷の癲狂院」といえば松沢病院だったそうだ。

この一連の事件が発覚したのは、昭和五年、中耳炎をこじらせた三男が、死期が近いことを悟って、松沢病院の医師に罪を告白したことによる。

警察の捜査が再開され、主犯の長男、富士郎が逮捕され、住んでいた家の玄関から省二郎の遺体が発見され、資産家女性殺人事件の謎も解けた。

三兄弟は医者の息子で、実家は裕福であり、勉学のために三人そろって上京していたが、富次郎の浪費癖がたたって金に困り、知り合いの資産家女性を襲うことになったのだった。

富士郎も逮捕後に精神を病んで松沢病院に入った。

殺された資産家女性の屋敷と松沢病院は、同じ世田谷区松沢町上北沢にあり、女性の怨念が殺人者を逃すまいとして引き留めたようにも感じられる。

もっとも、富士郎は刑罰を逃れるための方策で、詐病を使って入院したのかもしれないとも思う。しかし結局は、昭和十年に無期懲役の判決を受けたそうだ。当時、獄中の刑事犯は過酷な強制労働に就かされることが多かったという。富士郎のその後の消息は不明である。

座敷牢のあったハウススタジオは、もしかすると三軒茶屋というのは私の記憶違いで、本当は上北沢にあったのだろうか。私が見た、縁側に立つ年輩の女性のシルエットは、昔々に殺された資産家女性の霊だったのか……。

……あまり妄想に深入りしない方がいい。叔母の方に吸い寄せられてしまうから。

私が世田谷区のアパートに暮らしていたのは、幼稚園を卒園するまでの五年余りのことだった。叔母は私が年少組の頃に、勤めていた会社を辞め、ずっと家にいるようになった。

叔母の顔は陽にあたらないせいで肌の色が蚕のように真っ白になり、次第に仮面じみてきて、やがて幼心にも、そこはかとなく尋常ではない気配を叔母が発していることが感じ取れるようになった。

火傷の一件からだいぶ経ったあるとき、私が下の階の部屋へ祖母を訪ねていくと、祖母は留守で、友禅や金きん襴らん緞どん子すの帯地が畳が見えないほどにおびただしく乱れ広がった中から、寝そべった叔母が顔だけ覗かせていた。

「あら、いらっしゃい」

仰向けに横たわったまま首をこちらに巡らせて、叔母は私を迎えた。

今、思い浮かべるその光景の中では、叔母はオフィーリアだ。

絢けん爛らん華か麗れいな反物の川に浮かんでいるオフィーリア。皮膚ごと心までも文字通り白紙化された顔に、永遠の微笑ほほえみが刻印されている。

今、私は惑まどう。万が一、オフィーリアが精神病院から退院することになったらどうしようかと。縫い子だった祖母は何十年も前に死に、両親は年寄で、妹は子持ちのシングルマザーだ。必然的に、私にお鉢がまわってくるにちがいない。

やらねばやられる。

どうしたら、と途方に暮れる私もまた、いつのまにか檻に閉じ込められている。

思うに、私の精神というものは、きらびやかな友禅と花模様のノース・キャロライナの指籠である。おつむがこの調子では、死ぬまで、いいえ、死んでも檻から出すわけにはまいりません。

シェアする

フォローする