板橋の女 藁人形とアヒル(東京都板橋区) | コワイハナシ47

板橋の女 藁人形とアヒル(東京都板橋区)

石神井川まで徒歩で一分の板橋区にあるマンションを借りようと思ったのは、海でも川でも池でも何でもいい、とにかく水のほとりが好きなことと、生まれも育ちも東京で今まで都内を転々と……本当に転々々々としてきたけれど、板橋区にはまだ住んだことがないという、それだけの理由だった。

最寄り駅が都営三田線の板橋区役所前で、港区三田の男の家からも、その勤め先の神保町からも乗り換えなしで来ることができるという点も、一応、考慮の内ではあったが、大きな期待はしていなかった。嘘に聞こえるだろうが、本当だ。どうせ来ない、というのは近頃では確信に近く、自分の方から押しかけなければまず会えない、そういう男に彼はなっていた。

原因は、三度目の堕胎をしたことだ。彼の子を孕んだのは四度。最初の二人をおろして、三人目を育てようとした。親の欲目を抜きにしても、どこへ連れ出しても人目を惹かずにおかないぐらい、顔立ちの整った、可愛い赤ん坊だった。

あの子が満一歳の誕生日直前に死んだのは、浮気相手のせいである。殺されたのだと言ってもいい。赤ん坊は留守番させておけと命令されて、つい従ってしまった。家を空けていたのはほんの二時間だが、赤ん坊が浴槽に落ちて溺死するには充分な時間だった。

八月の昼下がりだった。冷房を切った室内は暑く、浴槽には、朝、一緒にシャワーを浴びるついでに水遊びさせたときのまま、水が溜まっていた。遊ぶときに使っていたビニール製の黄色いアヒルが、うつぶせになった小さな頭のそばに浮かんでいた。子供は裸で、脱ぎ捨てたTシャツとパンツが浴室の前に落ちていた。

四人目を中絶したのは、浮気相手の子に違いなかったからだ。本命ではない二番手のちんぴらとコンドーム無しでやらかしてしまった結果そうなったのは、思い当たるふしが一度や二度ではきかないゆえ、明白だった。

この妊娠が原因で二番手とは縁が切れたが、中絶によって本命とも切れてしまった。

なんで自分の種だと信じられたのかが、むしろ謎だと思うほど、性交の頻度は減っていたのだが、男はあれも我が子と思っていた。

堕胎を知って衝撃を受け、悲嘆に暮れて、三田の家に住む妻とよりを戻した。

風の噂で、出版関係者のパーティに十五年ぶりに妻を伴ってきたと聞かされたから、そう思った。

ちなみに、十五年というのは、そのままそっくり、男と下半身でつながっていた年数なのだった。

もしも違う生き方をしていたら、四人の子の母だったのか……。

石神井川に近いマンションの部屋に引っ越してきてから、しきりと過去が口惜しく、自らを叱責したくなる、そんな心持ちになる。何かあるたび悔やめる性格なら、こういう半生にはなっていない。反省や後悔は体に毒だ。おかげで本当に病気になってしまった。左胸の乳首が腫れて、血の混じった黄色い汁が滲むようにようになったのだ。乳首のすぐ下にパチンコ玉ほどのしこりも見つけた。

早く病院で診てもらわねば、と思いながらぐずぐずと男たちから貰った手切れ金を食いつぶす日々。マンションの部屋で独り昼日中からベッドに横たわっていると、近くを流れる石神井川のせせらぎと、やはりすぐそばの国道五号池袋線を走る車の音とが混ざって伝わってきて、どういうわけか大勢の人々が互いに喋りあっているように聞こえる。

大きなコンサートホールの客席が満席となり、開幕前のひとときに人々がさんざめいている。そんな光景を思い浮かべたくなる、興奮を押し隠したような遠い声の群れ。

そこには幼い子供たちも混ざっている。アヒルのおもちゃと一緒に死んだうちの子を思い出さないわけにはいかなかった。黄色いアヒルはあの子が死んだ直後に捨てたつもりだったのに、どういうわけか、荷ほどきしたら衣類を詰めた箱の底の方から出てきて、再び捨てることにはためらいがあり、浴室の窓辺に飾った。

そのアヒルが、勝手に動いて頻繁に場所を変える。あるときは私のベッドの中、またあるときは食卓の上という具合だ。

頭がおかしくなっているのかもしれないと思う。

板橋を渡る。大昔は木の板で出来ていたというが、現在は鉄筋コンクリートの橋である。

この界隈は江戸時代、板橋宿という宿場町で着飾った飯盛り女たちが通行人の袖を引いていたそうだ。昔は瘡毒と呼ばれた梅毒に罹る遊女が多く、年季が明ける前に死に、死ねば無縁仏として宿場近くの仲宿という地区にあった乗蓮寺に葬られた。

うちのマンションが旧乗蓮寺跡地に建っていることを知ったのは、越してきて間もない頃だ。その頃、ほんの気まぐれで赤塚城址公園の観光ガイドツアーに参加してみて、公園内にある乗蓮寺の東京大仏を見物していたら、ガイドがレクチャーしてくれたのだ。

遊女たちが埋葬された土地に住んでいるから、アヒルが動き回るようになり乳房が病んだのだろうか。水子の霊との縁を切りたくて、週に一度か二度は板橋を渡り、本町商店街を抜けて、縁切り榎神社へ詣でているのだが。

縁切り榎は、文字通り、緑の葉を茂らせた榎の木で、今は菰もを巻いてそういうことが出来ないようにされているが、本来は樹皮を剥き、煎じて飲めば悪縁が切れたのだという。

ここには、江戸時代、夫との縁切りを願う女に人気だったとか、皇室の輿こし入いれのとき花嫁行列がこれの近くを通ることを避けて道を迂回したとか逸話が幾つも遺っているが、見所は奉納された絵馬の数々だ。

ここの絵馬たちにはことごとく、呪詛に近いような文言が書かれている。これらを読むと孤独感を癒されると感じるのだが、それは私の日頃の精神状態が悪いせいで、普通の人なら気が滅入ってしまうのだと思う。

縁切り榎は交差点に立っている。そこから環状七号線方面へ向かう坂町商店街のあたりを歩くと、いつも赤ん坊の泣き声が聞こえ、病んだ乳首が疼うずきはじめる。

声だけでなく赤ちゃんの匂いまで感じたことがあり、いったいなんなのかと思う。

そんなときは、帰宅すると必ず、黄色いアヒルが玄関まで出迎えている。

ああ、また縁切りに失敗したな。そう思って、アヒルを浴室に戻しにいくと、浴槽に子供が入っているような錯覚がして、居もしない子に「ただいま」と言ってしまう。

痛みと腫れが高じて、どうしようもなくなってきたので、ついに病院で胸を診てもらったところ、乳腺炎をこじらせて膿が溜まっていると診断され、さらに、妊娠しているのではないかと医師に疑われた。

四人目を中絶してから、誰とも性交していないから、それはないと医師に言うと、膿を出すために外科手術を勧められた。全身麻酔をかけてもらい、手術は二十分で済んだが、意識を失っている間に大勢の赤ん坊に母乳を与えている夢を見た。

赤ん坊たちが、わらわらと湧き出るように床から這いあがってきて、我も我もと胸にとりすがって乳首を奪い合い、ひっきりなしにじゅうじゅうと吸うのだ。

手術のせいで乳房に醜い傷痕が残ってから、三田の男の妻が憎くてたまらなくなった。

彼らにはそろそろ十六、七になる子供がいるのだ。最後に堕胎してから生理が来ないこともあり、この体はもう女としては使い物にならないと思うと、不公平を突きつけられる心地がした。あちらは産み育てており、こちらには二度と叶わない。

そこで、縁切り榎に、あの女が此の世と縁を切りますようにと願いに行った。

本気で願いが叶えられると思ってはいなかったが、絵馬を奉納した途端、男から電話がかかってきたのは、さらに予想の外だった。

物凄いタイミングで電話をかけてくるものだ。戦慄しながら男の声に聴き入った。

男は単刀直入に「離婚した」といった。そのことにも驚いたが、離婚の理由はさらに想定外で、奥さんが藁わら人形を隠し持っていたというのだった。

藁人形は二体あり、一つは大きく、一つは小さかった。それらには待ち針で写真が留めつけられていたのだという。

誰の写真かは男に訊かずともわかった。

真夜中に車で出かけようとするので不審に思い問い詰めたところ、奥さんが白状したのだそうだ。愛人とその子供を呪っていたのだと。呪いを完成するために藁人形を焼こうと思っていた、と。

その藁人形は、男が神社に持っていき、神主にしかるべき処置をしてもらったそうである。「だからもう大丈夫だ」といわれたけれど……。

「川奈さんは、どう思われますか?」

私は答えあぐね、「あまりお気になさらない方が……」と語尾を濁した。

この女は私と同い年だという。若い頃は水商売や性風俗の世界で働いていたそうだが、五十近くなった今は往時の色気や華やかさを偲ばせるところは微塵もない。

SNSで怖い体験談を募ったところ、メッセージが寄せられ、二〇一六年六月の午後、板橋区役所駅から近い、古びた喫茶店で待ち合わせした。

彼女は先に着いて、奥の壁際の席で私を待っていた。一見して、控えめな女性だという印象を受けた。私の姿を認めると、椅子から腰を浮かせた。そのとき、目を据わらせたまま唇を横に引いてみせたのが、どうやら笑顔のつもりのようだった。咄とっ嗟さに、笑うことが滅多にない淋しい暮らしぶりが思い浮かんだ。

化粧は薄く、外見にはこれと言って目立つところがない。くすんだ色味のズボンを穿き、十年ほど着古したようなカーディガンを羽織っている。雑踏に紛まぎれたら、たちまち見失ってしまうだろう。

自己主張が強いタイプには見えなかったが、語りはじめたら、彼女は思いのほか饒じょう舌ぜつだった。

「あの人が藁人形を持って行った神社が判れば、安心していいのかどうか、神主さんに訊いて確かめられると思うんですけど、教えてもらえませんでした」

「それはいつぐらいの話なんですか?」

「みぃんな、十年ぐらい前のことです」

「そうなんですか?」私は少し驚き、語尾を跳ねあげた。「ええ」と彼女は落ち着いたようすで答えた。

「……私の話はこれでお終しまいです」

「そうですか」

私は、こういう取材のときに必ずいうことにしている口上──貴重な体験をお聞かせいただき、ありがとうございます。今日、お伺いしたお話を、すべて書いても差し支えありませんか。伏せた方がいい部分などがあったら教えてください──を述べた。

充分に怖い話が聞けて、私は満足していた。そこで、メモを取っていたノートを閉じようとしたのだが、彼女が吐いた次の言葉に手を引きとめられ、再びペンを握り直すことになった。

「私以外の関係者は全員、死んでいるか行方不明になりましたから、何を書かれても平気です」

「えっ」

本命、二番手、奥さん……。話に登場した人々を、語られた呼び名のままに思い浮かべていると、彼女は、また唇を横に引いて笑顔らしきものを私に見せた。

「ええ。浮気の相手だった男も、藁人形で呪いをかけていたあの人の奥さんも、その息子も亡くなりました。奥さんと息子さんは、奥さんが運転する車で交通事故で。あの人から、また連絡があって知ったんですけど、二人とも即死だったそうです。うちの子が死ぬ原因になった元愛人の男は病死です。癌がんだったんですね。だいぶ悪くなって入院する前にメールを寄越したので、亡くなったときに彼の兄という人が携帯電話の履歴を調べて、私のメールアドレスに連絡をくれましたが、お葬式には行きませんでした」

まだ、男が一人残っている。「本命」が。

彼女はそこで、話の合間に飲んでいたアイスコーヒーの残りをストローでズズズズズーッと吸いあげた。

「……それから、つい最近、あの人のお母さんから知らせがあって、彼が失踪していることがわかったんです。だからこの話を川奈さんにしようと思ったんですよ。書いてもらったら、みぃんな死んでも、形が残るじゃないですか。理由はないけど、私も長くないと思うんです」

人を呪わば穴二つ、と思った途端、先を越された。

「人を呪わば穴二つって言いますけど、本当ですよぉ」

「でも、お元気そうじゃないですか」

「いいえ。ダメです。藁人形の呪いのせいも少しはあるかもしれませんけど、それだけじゃなくて、毎日、死んだ子供たちにエネルギーを吸い取られてますから。私にはわかるんです。そろそろ逝くんだなって。赤ちゃんは心が綺麗だからすぐに成仏して祟らないとお寺のお坊さんに言われましたけど、嘘ですね。私の子は今でも化けて出るんです。アヒルで遊ぶのが好きなんですよ、今でも。水子の霊も出ます。みぃんな成仏してないですよ」

取材させてもらったその日のうちに、その女はSNSから姿を消して、連絡が取れなくなった。

その後、彼女の話に登場した場所について、手を尽くして調べた。

何度か板橋区を訪ねてみることまでして、人と土地が磁石のN極とS極のように引かれ合う、そんなこともあるのではないか、そう思うに至った。

現在そこで暮らしたり商売をしたりしている人たちのことを考えると番地までは書けないが、彼女が移り住んだ国道五号池袋線と石神井川に近いマンションは実在し、たしかに遊女たちが葬られた旧乗蓮寺跡地に建っていた。性風俗嬢だった彼女の過去との符合を感じる。

また、板橋区赤塚にある今の乗蓮寺の近くには、怪談『乳房の榎』の記念碑があり、乳房に膿が溜まって手術したという話を思い出さずにはいられなかった。明治時代の怪談の大名人、落語家の三遊亭円朝が創作した『乳房の榎』でも、不倫の末に子殺しに手を染める人妻・おきせの乳房に腫れものが生じるのだ。

明治二十一年に出版された原作では、その後の下りはこうなっている──腫れものの治療のため霊験あらたかな赤塚村白山権現の乳房の榎の乳を貰ってきて、乳房につけると、一時は痛みがやわらぐが、その後、夢に今は夫となったかつての間男に殺害された前夫の亡霊が現れて、病状は悪化。おきせは、乳房に溜まった膿を抜くために、夫に小刀で乳房を切らせようとするが、夫は手もとを誤っておきせの心の臓まで刺し貫いてしまう。すると、その傷口から大量の血膿が勢いよく噴き出し、さらに一羽の鳥が飛び出して──。

なんとも凄惨な場面だが、その後に歌舞伎の演目にされたり後世の噺家によって何度となく語り直されたりするうちに、グロテスクの度合いを緩和する措置が取られて、今日では、おきせは狂死するか、あるいは勧善懲悪的な色合いを加味して、前夫の亡霊が怪鳥に化けておきせの乳房を嘴で突いて死に至らしめるのが通例となっている。

さらに符号は続く。そこを訪れるたび、いつも赤ん坊の泣き声が聞こえ、赤ちゃんの匂いまでしたという坂町商店街の辺りは、昭和五年(一九三〇)に発覚し世間を騒がせた、乳幼児大量殺人事件の舞台だった。

後世までも「岩の坂もらい子殺し事件」として語り継がれることになったこの事件については、明治から昭和初期の東京の貧困社会について書いたルポルタージュ、紀田順一郎氏の『東京の下層社会』に詳しい記述が載っているほか、当時の東京朝日新聞のスクープを元にした記述がさまざまな本やウェブサイトに掲載されている。

約一年の間に四十人余りのもらい子(養子)が、都合十二人の岩の坂集落の住民たちによって殺されたのだという(紀田氏の著作では「岩の坂に住む六人の住民が計三十三人の子をもらい、一名を除いて全員が変死」)が、具体的にどういうものだったのかというと、子を育てることが出来ない親を「養い親に斡旋するから」と騙して、当面の養育料と共に乳幼児を預かり、これをただちに殺して、養育料を懐にいれるというもの。

この手口により、犯人グループが騙し取った養育料は合計約一二〇〇円。

現在の価値に換算すると一二〇〇万円以上になるというから、結構な収入で、ひとたび上首尾にいったらやめられなくなったのだろうか。横領した養育料は飲食代に化けたという。昭和五年当時の岩の坂集落は貧民窟で、赤子を手放す方も犯人らも貧しかったのだ。

主犯格と見られた小川きくは、四人の赤ん坊を殺して──あの人の子も四人だった──養育料五〇円を横領しており、内縁の夫の小倉幸次郎と共に起訴されたが、二人ともほんの数年の懲役刑を喰らったのみで、詐欺と赤ん坊殺害に関わった他の住民はお咎めなしだった。現代人の感性からは納得がいかないことではある。

しかし当時は、百人以上の乳幼児が殺されたことで知られる寿産院事件をはじめ東京の他の地域や他県でも、類似のもらい子殺人事件が起き、そしていずれも軽い量刑で済んでいる。昔は赤ん坊の命は軽かったのだ。大人のそれだって、そんなには重くなかったかもしれない。

つい、最近のことだ。

この稿を起こすにあたり、あらためて、かつての名前が封印された元・岩の坂界隈を歩いてみたら、堕胎したことのない私にまで赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

慄いてあたりを見回すと、少し離れた斜め前に、ベビーカーを押している女性の姿を見つけた。

心臓に悪いったらありゃしない。

が、胸を撫でおろした直後、立ち止まった女性がベビーカーの把手にかけていたバッグから取り出した物を見て、私は再び全身を凍りつかせた。

ビニール製の黄色いアヒル!

赤ん坊は泣き続けていた。

偶然だ。だって、よくあるおもちゃなのだから。

心臓が、それこそ烏が飛び出しそうな勢いで激しく暴れていたが、私は必死で理性を保つ努力をしながら、歩を早めて母子の横を通り抜けようとした。

そのとき、母親はアヒルを使ってあやすつもりなのだろう、ベビーカーに向かって腰をかがめ……一瞬、顔がこちらに向いた。

あの女ひとだった。

黄色いアヒルを持った手つきが優しかったことを、今まざまざと思い返し、私は再び総毛立っている。

シェアする

フォローする