ぼくはどうしてもやめられないんです 小塚原刑場 高橋お伝(東京都) | コワイハナシ47

ぼくはどうしてもやめられないんです 小塚原刑場 高橋お伝(東京都)

せんだって本棚を整理していたら、荒川区南千住のスタジオで撮られた週刊誌のグラビア写真が現れた。約十七年ぶりの再会である。三十一になって間もない私の肉体は瑞々しく、最近のそれとは艶も張りもまるで違う。全裸にエプロンという阿呆みたいな格好ですらさまになっているのだから呆れた。

この撮影が、私にとって初めてのグラビア撮影だった。ヌードや水着の写真集を何冊も出したことがあるというカメラマンは歴二十余年のベテランで、私の緊張を解きほぐそうと思ってか、会話の糸口を見つけようと懸命だった。

彼に問われるまま、私はここに至った経緯を話した。離婚したこと。男たちのこと。騙されたこと。最近つきあいはじめた男のこと。

私はそのとき、性欲に手綱を取られ、市中引き回しの刑よろしく、乱暴に引きずり回されている只中にあった。このカメラマンも南千住のスタジオも、私の性欲が迷走する地図上の一点にすぎない──というようなことが伝わったようで、カメラマンは突然、日本最後の斬首刑に処された女性、高橋お伝の話をしはじめた。

ここ南千住には高橋お伝の墓所がある小塚原回向院という寺があり、お伝は明治時代、稀代の毒婦と謳われたとのこと。最初の夫を毒殺し、妾や街娼として男から男へ渡り歩き、ヤクザの情婦となり、金のために別の男に抱かれ、そいつに騙されたとみるや殺害した、と、彼は見てきたように語った。とりあえず、博識ぶりを私は褒めた。すると彼は、焼きたてのパンにのっけたバターみたいにでれでれと照れた。

「いや、それほどでもないけどね。お伝っていうのは凄い美人だったらしいよ。それで、性器はホルマリン漬けの標本にされて、髑髏どくろも取っておかれたんだって」

のちに、カメラマンの話はところどころ間違っていたことがわかったが、そのときの私は高橋お伝にシンパシーを感じた。

数ヶ月前に離婚して、「高橋」という旧姓に戻っていたせいかもしれない。

また、私を騙した男への殺意が、まだ完全には消えていなかったからかもしれない。

お伝への親近感は今も持ち続けていて、このときのグラビア写真を見つけた瞬間も、私のセックスもお伝の性器のように標本にされたのとさして変わらないと思ったものだ。

ともあれ私は、そのときの撮影後に、小塚原回向院のお伝の墓に行ってみたのだった。

そして小塚原回向院というお寺や、南千住という土地に関心を持つようにもなり、お伝だけでなく、暇をみては少しずつ南千住界隈の奇譚を集めはじめて、今に至っている。

カメラマンの話がところどころ間違っていたと書いたきり放っておくのも無責任なので、まずは、高橋お伝について正しいことを記しておく。

嘉永三年(一八五〇)、当時は上野国(こうずけのくに)と呼ばれた群馬県生まれのお伝は、生後すぐに養子に出され不遇な子供時代を送ったのち、慶応二年(一八六七)高橋浪之助と結婚。ようやく幸せになれるかと思いきや、浪之助は癩病に罹り、名医を求めて夫婦で横浜に転居し、治療費を稼ぐためにお伝は娼婦になった。そんなお伝の苦労もむなしく、結婚五年目にして浪之助は死去。やがてお伝は小川市太郎という男と同棲するようになり、二人で商売を始めたが失敗、借金を抱えてしまう。悩んだお伝は異母姉の夫、後藤吉蔵に金を貸してくれるよう頼んだが、吉蔵は、代償として夜伽一回を申し付けた。お伝はこれを了承、浅草の旅籠屋で吉蔵と一晩同衾したが、吉蔵は約束をたがえて金を寄越さない。そこで寝ている吉蔵の喉を剃刀で切り裂いて殺害したのち逃走。

お伝が吉蔵を殺したのが明治九年(一八七六)八月のこと。逮捕は翌月だった。

現在の新宿区富久町にあった市ヶ谷監獄で斬首刑が行われたのは明治十二年(一八七九)。お伝は享年二十九、美貌が衰えぬまま此の世を去った。この年、岡本勘造の『其名も高橋毒婦の小伝・東京奇聞』と仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚』が出版され、また、黙阿弥の脚色による新狂言『綴じ合わせ於伝の仮名書き』が上演され、いずれも大ヒット、空前の「毒婦お伝」ブームが来たという。

これらのストーリーは多分に脚色されていたことが、今日ではわかっている。お伝の短い一生は、乱暴に暴かれたうえ、戯作者たちによって装飾され捻じ曲げられ、世間はそれを歓迎した。

そして一方、生前、娼婦として数々の男たちに向けて開陳されてきたお伝の肉体の方はというと、こちらもまた、斬首後、警視庁第五病院で腑分けされ、内臓までもくまなく白日のもとに晒された。

性器は切り取られて、ホルマリンではなく、アルコール漬けの標本にされ、頭蓋骨は洗われて、別々の場所で保存されることになった。

お伝の性器は東京大学医学部で保管されているといわれていたが、二〇一三年に出版された大橋義輝氏によるルポルタージュ『毒婦伝説─高橋お伝とエリート軍医たち』によれば、昭和三十年代に東大医学部でそれを見たという目撃談はあるものの、今日の東大医学部標本室では見つけられなかったという。

明治三十五年頃から報知新聞にコラムを連載していた篠田鉱造が著した『明治開化綺談』(一九七五年角川選書(絶版))によれば、お伝の性器が保存された理由は、「別段学術上資料といつた意義のあることではなく、多情の女ゆゑポツプがあるかどうかといつた位の意味で、序に演つたに過ぎず」と昭和十一年に元軍医・高田忠良が語ったとある。

お伝のアルコール漬け性器というのは、外性器のみならず子宮や膣までもスッポリと抉りとったものがブヨブヨとふやけている、腐った蛸と鮑の合体物みたいな代物だったが、高橋お伝の名が冠されているがゆえに「ポツプ」があった。太平洋戦争直後に浅草の松屋デパートで公開されたのも大衆ウケが期待できたからだろう。

お伝の生首の方も、長期保存可能な乾いた髑髏にされ、浅草の宮田という漢方医の所有となった。こちらも、性器と同様、今どこに在るのか不明である。

お伝は首を落とされる前に、市太郎に一目会うまでは死ねないと訴えて暴れたせいで、首斬り役人の刃先が狂い、後頭部と顎に無駄に深手を負って、傷口から流血し、苦痛にのたうちながら首を落とされたそうだ。

宮田家所蔵の髑髏の後頭部にも刀傷が刻まれていたという。

斬首から十年後の三月、夢幻法師という旅の僧侶が宮田のもとを訪れ、「拙僧は俗名小川市太郎といい、高橋お伝が情夫のなれの果てである」と名乗った。彼は頭蓋骨を撫でて刀傷を確認し、まさしくお伝の首であるといって涙したそうだ。

そういうわけで、高橋お伝の遺体については、小塚原回向院に埋葬されているのは、美しかった顔も、多くの男たちと交合してきた性器も喪失した、虚しい残骸だ。

つまり「ポツプ」な部分は剥ぎ取られ、それ以外のところは、他の罪人の亡骸と同じように自動的に小塚原回向院に送り込まれたわけである。

小塚原回向院は寛文七年(一六六七)に建立されてからというもの、刑死や獄死した者を弔ってきた。よそで処刑されても、罪人であれば、江戸では小塚原回向院に葬られることが多かった。

そこにはこんな経緯がある。

もともとこの一帯には、江戸三大刑場のうちで最も規模が大きいことで知られる小塚原刑場があった。慶安四年(一六五一)に完成した処刑場で、その広さはざっと一七六四坪(間口約一〇八メートル、奥行約五十四メートル。五八四四平方メートル)。アメリカンフットボールのコート(五四〇〇平方メートル)とジュンク堂書店池袋本店(六六一四平方メートル)の間ぐらいの広さといえば、想像できるだろうか。

広いから、という単純な理由だけとは思えないが、現在の日本橋小伝馬町にあった伝馬町牢屋敷で処刑された遺体も、どういうわけか小塚原に放り込まれていたそうなのだ。高橋お伝はじめ、他所で処刑された亡骸であっても小塚原回向院で葬ったのは、この流れを汲んだものだろう。

小塚原でも当然、磔刑・火刑・梟首(獄門とも言われる。いわゆる晒し首)を執行した。けれども、他所からも罪人の遺体を引き受ける、そういう役割を請け負った。その結果、集まる遺体の数、およそ年間一千体。明治初年に廃止されるまでの約二二〇年間で延べ二十万人余り。

埋葬は上に土をかぶせる程度のずさんなもので、夜ともなれば屍肉を食む獣たちが群がって掘り起こし、散々に貪ったという。辺り一帯には腐臭が漂い、その無残きわまる光景から、江戸の人々は小塚原をもじって「骨ヶ原」と呼んで恐れたそうである。

ちなみに三大刑場の他の二つは鈴ヶ森刑場と大和田刑場で、それぞれ江戸の南の端の東海道沿いと西の甲州街道沿いに位置していた。小塚原刑場は北の端、奥州街道と日光街道が宇都宮まで重なる途次にある宿場町・千住宿のはずれにあった。

民俗学者で写真家の内藤正敏氏が著した『江戸・王権のコスモロジー』などによれば、江戸は古代中国の陰陽道「四神相応」の思想をベースに都市計画が立てられたという。

北へ行く奥州街道と南へ向かう東海道を一直線上に配してとらえ、その中心に江戸城を置くものとして俯瞰する。そして街道沿いの二つの江戸の境界に、穢れを清めると同時に穢れの侵入をも防御する一種の「ろ過装置」を設けることで、江戸城つまり徳川家を宗教的に守らんとした。

この二つの「ろ過装置」を、内藤氏は「徳川王権を守護する二大他界ゾーン」と呼んでいる。

南北の「他界ゾーン」には共通する特徴がある。北(浅草・千住)にも南(品川)にも、寺社と処刑場、そして遊里と被差別部落が密集しているのだ。

死・性・賤を江戸城から遠ざけながら、外部に対しては、死と聖で畏怖させることと性で懐柔することを期待した。

エロスとタナトスの双璧の一つが、小塚原だったのだ。

小塚原回向院には、お伝の他にも桜田門外の変で大老・井伊直弼を暗殺した「桜田十八烈士」や吉田松陰といった歴史に名を残す人々の墓碑があり、蘭学者・杉田玄白らが『解体新書』の翻訳のきっかけとなる腑分けを記念した「観臓記念碑」などもあって、見所が多い。回向院は常磐線建設の際に敷地を分断され、線路の南側は延命寺として独立、現在、刑場跡は延命寺内にあることも付記すべきだろう。

また、周囲の寺院にも「首切り地蔵」はじめ、人が多く訪れる場所が数々ある。昭和を代表するテレビアニメのひとつ『明日のジョー』にも登場した「泪なみだ橋ばし」も、今は橋の面影はなく交差点になっているが有名だし、「コツ通り」という通りもまさか「お骨」のコツなのかしら……と心惹かれるし、山谷地区も近い。

しかし、ここではそういう観光ガイド的な記述は止して、再び私の経験談に戻ることにする。

高橋お伝──繰り返すが当時は私の名字も高橋だった──に導かれて旧・小塚原刑場界隈を探索するうち、強い線香の匂いが流れてきて、私は足を止めた。

寺社仏閣が多い土地柄なので、線香が匂ってきてもさして不思議はないようだが、そこは一棟のマンションの前で、道路の向かい側には彰義隊士の墓のある円通寺というお寺があるが、そことは五車線もある太い国道四号線で隔てられており、寺の境内はさらに参道のその奥だった。

円通寺は、寺院の屋根の上に大きな黄金色の聖観音菩薩像が立っているのが特徴的で、このときもあたりを見回して真っ先にそれに目を奪われた。

聖観音菩薩像からマンションに目を戻せば、ごく普通の、茶色い外壁のマンションだ。階数を数えてみると十二階あった。

マンションのエントランスに近づいてみると、線香の匂いが強まった。

煙や香立てが見えるわけではなく、ただ、匂いだけがぷんぷんしている。奇妙なことだと思ったが、住人でもないのにいつまでも出入り口でうろついていたら怪しまれる。気にしながら行き過ぎることにした。再び歩き出したそのとき、背中をかすめて何かが落ちてきて、地響きを立てて舗道に激突した。

咄っ嗟に私は悲鳴をあげて首を縮め、次いで、おそるおそる振り返った。

そのときは、てっきり、誰かがこのマンションから飛び降りたのだと思っていた。なんとも厭な、水気を含んだ衝突音まで耳にしており、無残な墜死体以外は何も思い浮かばなかったのだ。

ところが振り向いてみると、何も無い。舗道は薄く土埃りを乗せて乾いていた。たしかに大きな塊が墜落してきて地面に当たったと思ったのに……。

呆然とし、いったいどういう種類の錯覚だろうと胸の底をさらいつつ立ち竦くんでいると、道路の向かいの円通寺の方から黒衣の人々がそぞろ出てきた。

二十人以上の集団で、中に何人か似通った面差しの人々がいるところを見ると、親戚同士のようだった。遺影を胸に抱いた人がいる。葬儀が終わり、焼き場に向かうところなのだろう。やがて霊柩車が国道に出てきて、次々に普通車が後に続いて、去っていった。

線香の匂い、たぶん人が落ちたと思ったのに何も無かったこと、そしてこのタイミングで葬列を見たことが偶然とも思えず、導かれたように感じて、私は円通寺境内に向かった。

遺骸二六六体が埋葬されているとする彰義隊士の墓に参じたのちに、「よしのぶ地蔵」というものが敷地内にあることを知り、それも見に行ってみた。

よしのぶ地蔵とは、昭和三十八年(一九六三)に起きた村越吉展ちゃん(当時四歳)を供養する地蔵像だった。

村越吉展ちゃんは事件発生から二年後、円通寺の墓地から白骨死体となって見つかったそうだ。同寺の境内で殺害され、墓所の土の下に埋められていたものを、逮捕された犯人の自供によって発見に至ったということだ。

犯人が吉展ちゃんをさらったのは台東区入谷。ということは、わざわざ小塚原刑場がかつて在った界隈まで来て、殺人と死体遺棄を行ったわけだ。まさか磁石のように「骨ヶ原」に吸い寄せられたわけでもあるまいが、うそ寒い偶然である。

小塚原刑場があった付近では、昭和時代はもとより平成に入ってからまでも、線路敷設やトンネル建設、道路の拡張など大規模工事で地面が掘り起こされるたびに、大量の人骨が出土してきたそうだ。

平成十年(一九九八)からの常磐新線つくばエキスプレスの地下トンネル工事のときは、二〇〇個の頭蓋骨と四肢の骨一七〇〇本が出てきたという。

骨ヶ原の異名を取るわけだが、遺骨が掘り起こされ、あらためて供養されることで、他界ゾーンとしての祟り力のようなものが鎮まることを祈るばかりだ。屍が散乱するような酸鼻きわまる景色のため人心が荒廃したせいではないかと思うが、江戸時代には辻斬りや犬猫が斬り殺されるなどの異常な事件も多発し、幽霊が出るとも言われ、「雲助も避けて通れぬ小塚原」という川柳が詠まれた。

異常な事件は、昭和に入ってからも起きた。昭和十年(一九九五)四月十三日の事件の記録が『少年犯罪データベース』にある。

《東京市荒川区南千住の路上で深夜、工員(一七)が女工(二〇)を襲ったが大声を出されたので逃走、女工は追い掛け、通行人とともに捕まえた。工員は一月九日にも深夜の路上で女性(二一)の耳たぶを切るなど、女性ばかり一〇人以上をナイフやキリで襲っていた》

三月前の凶行を自白した少年は、自らについて、こう語った。

「ぼくはどうしてもやめられないんです」

思えば、私の小塚原への執着も度を越しているかもしれない。土地にかけられた呪詛によって衝き動かされているのではないと、どうして言えようか。

そうそう、本稿で私は、お伝、お伝と、彼女を記すときの慣例に従って繰り返し「お」を付けて書いてきたが、正確には彼女の名は「伝」である。姓を合わせれば「高橋伝」が正しい。

父方の私の祖母は、生前、自分の名前も漢字で一文字、音で二文字だったことから、あえて「子」を付けて書いたり、「お」を付けられると嫌がったりした。高橋お伝に似てしまうから、というのだった。つつましやかな女性に見られたかったのかもしれない。

不肖の孫は、思わずお伝に親近感を抱いてしまうような生き方をして、今はまた高橋ではない別の苗字に変わっている。そしてエロスの方は十何年か前に卒業し、それからはタナトス方面に強く心惹かれて、前を通りかかったとき線香の匂いがきつかったり人が落ちてきたかと思ったりした例のマンションに忌いみ事が在ったか無かったか、根掘り葉掘り調べるといった、不謹慎きわまりない作業に頻繁に没入するようになった。

──昭和六二年(一九八七)、平成七年(一九九五)、平成二十二年(二〇一〇)。

あのマンションでは、今までに都合三回、飛び降り自殺が起きていた。疑う人は、私がしたのと同じように、ウェブサイト『大島てる』を見ればよい。

怪異と照応する事実を突きとめると、「ああ、やっぱり」と腑に落ちると同時に、肌が粟立だつ。この瞬間が私は好きだ。完全に癖になってしまっている。

あたしもどうしてもやめられないんです。

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