ふたりのお菊(長野市及び北佐久郡) | コワイハナシ47

ふたりのお菊(長野市及び北佐久郡)

全国に「お菊」という女性の幽霊にまつわる怪談話は多い。その殆どが、播州もしくは番町に代表される、いわゆる皿屋敷の伝承である。

しかし、信州に伝わるふたつの話は、いずれも皿屋敷ものではないので、若干趣が異なるように感じられる。

真田氏の家臣であった上野国の武将、小幡信貞(上総介)は腰元のお菊を寵愛していたが、これを正室が快く思わず、ある日、信貞の食膳に針を混入させて、これをお菊の仕業だと騒いだ。

無実の罪を被ったお菊は必死になって潔白を訴えたが、まったく聞き入れてもらえなかった。それどころか裸にされると、風呂桶に押し込まれ、そのなかに正室が家来に捕らえさせた数十匹の蛇を入れられて蓋をされてしまった。

「これでもまだ白状しないかッ!」

そう責め立てられるが、やっていないことをやったなどといえない。

すると、風呂桶のなかに水を入れられ、釜に火が点けられた。湯が沸き立つと、蛇はところかまわずお菊に絡みついてくる。その悲鳴は蓋越しにはっきりと聞こえてくるので、信貞もさすがにそろそろ拷問をやめようかと思ったが、傍で正室が喜々としているので、なかなかやめられないでいると、

「無実の者を責め殺す悪人どもよ、末代まで必ず祟ってみせる!」

そう恨みの言葉を残し、お菊は悶死した。

すると、その翌日から正室が急な病にかかり、激しい熱でうなされるようになった。どんな夢を見ているのか、

「お菊、わたしが悪かった。どうか、どうか許しておくれ。ああっ、なんて恐ろしい顔……」

正室は一週間ほどそのようなことを叫び続けた後、ついに死んでしまった。

それからというもの、憎悪にみちた表情のお菊の幽霊が、夜な夜な屋敷のなかを徘徊するので、暇を請う家来たちが後を絶たなかったという。

そうこうしているとき、真田藩の転封にともない、信貞は信州松代に移ることになった。

一行が松代に着いたとき、どうしたことか、駕籠がひとつ多く来ており、その分の賃金を要求されたので、

「そんなはずはない。誰が乗っていたのだ?」

そう問うと、年の頃二十を少し越えたばかりのやつれた美しい女だった、というので、信貞をはじめ一行たちは、お菊がここまで付いてきたと戦慄したという。

その後、信貞が死亡し、血縁者たちにも不幸が続いたので、小幡の一族が金を出し合って、屋敷の敷地にお菊大明神の祠を建てて祀ったところ、凶事は鎮まり、お菊の幽霊も出なくなったそうである。

それからしばらくして祠に一匹の黒蛇が棲みついたが、明治の初め頃、ある農民がその近くで黒蛇を誤って殺してしまったところ、たちどころにその者は死んでしまったという。

現在、祠はある民家の庭先にひっそりと建っているそうだ。

これが有名な「番町皿屋敷」のルーツという説もあるようだが、この話は信州松代と群馬県に伝わっており、ともに史跡が残っているので、言い伝え通りではなかったとしても、言い伝えと似たようなことが実際に起きたのではないかと推察される。

また軽井沢にはお菊にまつわる別の話がある。

中山道六十九次のうち江戸から十八番目であった軽井沢宿は、一番盛んだったころは旅籠だけでも百軒近くあり、飯盛女も数百人ほどいたといわれている。

そのなかでも最も繁盛していたのは三度屋という宿で、百万石で知られる加賀藩の藩主が泊まるほどだったという。

その宿にお菊という美しい芸妓がいた。

あるとき、藩主に呼ばれて座敷に入るとき、つい片足に草履をつっかけたまま上がってしまった。それを見た藩主は、「この無礼者がッ!」、と逃げ惑うお菊を追いかけて、無慈悲にも裏の墓地のところで斬り殺してしまった。

不憫に思った宿の主人は、お菊の墓を建てて手厚く葬ったが、その後、墓石にお菊が斬られたときと同じような傷が浮き出して、血のようなものまで流れたという。

ひとびとは気味悪がり、墓を建て直してみたものの、その現象は止まなかったそうだ。

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