あさま山荘 死霊の激突(長野県佐久郡軽井沢町) | コワイハナシ47

あさま山荘 死霊の激突(長野県佐久郡軽井沢町)

一九七二年二月十九日、軽井沢レークタウンに五人の連合赤軍兵士が現れた。かねてより榛名山、妙義山と群馬から長野への県境に移動する情報があった。

群馬県警ではほとんどアジトを押さえられていたため、警備が手薄な長野に移ろうとしていることは明白だったが、

「冬の妙義山越えを素人ができるものではない」と判断していた。

だが猛吹雪と大深雪の中、十~二十代の若き兵士達は越えてきた。

しかし、本来彼らは佐久市が目的で、この軽井沢という目立つ場所に出たかったわけではなかったのだ。道をあやまり、ここに行きついたのだという。

連合赤軍ナンバー三の坂口弘をリーダーとした、吉野雅邦、坂東國男、加藤兄弟の二人、合わせて五人である。

連合赤軍とは、永田洋子率いる「革命左派」と森恒夫率いる「赤軍派」が合併したもので、群馬県の山中にベース(基地)を置いて軍事訓練等、共同生活を行っていた。

しかし、二十代の男女と二つの派閥の統制の中で、共産主義理論にズレが生じ、元々武闘派の二つの組織の共同生活であるため、互いにけん制し、逃げるもの=裏切者とみなして処刑を始めたのだ。

共に戦い、結婚して子供を産み、革命の子として育てようとした楽園の理論は、厳しい雪山での生活の中で、猟奇的に人をいたぶり、殺すことに変化してしまった。

この辺りの心理の変化は、当事者の森は自殺したためわからないが、永田洋子の手記にも綴られている。

連合赤軍の仲間が次々と死亡、脱落、逮捕された後、残った五人が、行きついた先の「あさま山荘」に立てこもり、十日間の死闘が繰り広げられた。

この時は各社テレビ局が生中継し、最高視聴率は九十パーセント近くになった。長野県警はほぼ総出、群馬県警の他に山梨等他の県警も応援し、更に警視庁からのコンバットチームや機動隊が、この凶悪事件に対して真っ向勝負をした。

この時、総指揮を執ったのが、佐々淳行警視正である。東大安田講堂の籠城事件や学生運動から爆弾テロやハイジャックに暴走化していく連中を捕まえるのが特命の日本式FBI捜査官でもあった。だが、地域の警察との連携もまだまだの時代で、うまく命令系統がいかない場合の方が多かったようだ。

こっちは毎回爆弾テロと戦っているが、長野に初めて現れたテロ集団。県警も最初は単なる逃亡者の山狩り程度に思っていて、警視庁の協力を拒んでいたそうだ。警察特別車両と警察犬だけでいい、と言われる一幕もあった。

だがその考えはすぐに打ち破られる。

県警の警官が二名狙撃されてしまったからだ。

連合赤軍五名は、あさま山荘に立てこもり、その管理人の牟田さんの奥さんを人質に取った。五名はライフルや散弾銃を所持しており、爆弾も持っていた。

親や関係者が説得しても、ライフルを打ち込むだけで全く攻撃を止めない。しかし、当時の後藤田長官の至上命令で「警察は武器を使うな」であり、「犯人を打つな、生け捕りにせよ」が基本にあるため、手も足も出ない。

その間に民間人一名と警官一名が死亡、大けがを負う人や失明者も続出した。犯人たちは銃を打ち放題に打つのだが、しっかりと顔を狙って打って命中させる。

銃の腕前は、兵として鍛えられたためか、異様に上手い。

二月二十六日。報道協定が軽井沢のますや旅館で行われた。

いよいよ犯人を追い詰めて、銃使用の許可を出して戦うXデーに向け、記者会見が行われた。それまで犯人たちはテレビの生放送を見ていたので、警察の動きもまた逆に見図られていたのだ。

人質救出作戦、それは絶対に失敗できない戦いだった。

Ⅹデーは二月二十八日。

二十九日の方が、天候がいいから。という理由で、日にちの変更も考えられたが、

「二十九日に殉死したら、四年に一度のうるう年にしか拝めなくなるだろ!」

という決死の思いと、人質の体力の限界もあった。

前日、決死隊が組まれた。警視庁の機動隊、県警から派遣された手を挙げる警官たちの面立ちは、まるで戦場に向かう兵のようであった。

警察は、それまで零下十五度の寒さの中、何日間もトラブルやミスに見舞われた。佐々氏も寒さと銃の恐怖に怯えながら、指令を待っていた。

ずっと重圧のようなものが佐々氏を取り囲むと同時に、奇妙な空気の重さが縛り付ける。どんなに警察や親が説得しても、ライフルを乱射するのみ。

(なぜこいつらはこんなにも狂気にかられているのだ……簡単に人を撃ち、話も聞かない)

立てこもっている連合赤軍兵士の人数の把握ができなかった。

もちろん窓から顔を出すのは二名のライフル射撃手。

一味が五人らしいということはわかっていたが、狙撃主が誰かがわからない。

寺岡恒一。連合赤軍(革命左派側)の兵士。

その人物が中に必ずいると思い込み、寺岡の親が呼びかけに協力をした。

だが、寺岡はもうすでに群馬県のベースで「処刑」されていたのだ。

寺岡の腕を縛り、胸を開かせて、みんなで心臓を狙いアイスピックで刺したが、苦しむだけでなかなか死なない。最後はみんなで綱引きの様に首にひもを巻き付けて引っ張って窒息死させた。そして、裸にして土に埋めた。

「こんな死に方したくない、戦って死にたかった」

と最後に言ったという。

しかし、この事実は事件後に発覚することであり、なぜか寺岡があさま山荘にいると警察全部が思い込んでいたのだ。

これは、とても不思議なことである。

死んでいるはずの人間が戦っているように思われていたのだ。

二十八日、午前十時。ここから全国に向けた生放送がまた開始された。国民の約九割近くが実況中継を見ていた。五分前の最後の通告も、やはり犯人は聞かなかった。彼らの答えは、警察に向けての銃の乱射だった。

「各部隊は現時点をもって、既定の方針通り行動を開始し、所定の警備に当たれ」

銃撃戦の中、隠しておいたクレーンを動かす。クレーンはその切っ先を伸ばし、吊るされた鉄球が大きくテイクバックする。

眠っていた巨人兵器が、大きく手を伸ばした瞬間だ。

誰もがその動向に息を飲む。

犯人らがいると思われる三階部分にドカーン!! と命中する。

中にいた犯人らは相当に動揺した。一体何だと思っていると、二発目がぶちこまれる。これが続き、山荘の壁は次々と鉄球によってぶち抜かれていく。

「あともう一回、行け!」

鉄球は思い切りぶち抜き、山荘の壁を三分の一ほど壊した。ついに銃眼を捉えた。むき出しになった三階内部。そして次は屋根に鉄球を落とす。屋根が裂ければ、鉄の爪に付け替えて建物を破壊し、丸出しにしていく。

元々東大安田講堂の時も佐々氏はこのアイデアを持っていたが、安田講堂が歴史文化財だったため、破壊できなかった。あさま山荘は河合楽器の保養所だったため、了解を得て、このクレーン鉄球作戦を決行したのだ。

この後に決死隊が一階と屋根裏から入り込む予定だった。ところが、このクレーン車の操縦部分に居た高見警部に犯人の弾が命中。この間も乱射が止まらない。

「なんて奴らだ。ここまできて、どうして撃つのをやめない……」

赤軍兵士たちは白旗を上げる気は一切ない。むしろ赤旗を掲げたいのだろう。

高見警部は顔を撃たれて死んだ。

その後、内田隊長もバリケードの横で狙われ、ほぼ即死。

士気が下がる中、なんと今度はクレーンがエンストし、鉄球がだらんと止まった。もう一刻の猶予もなく、遂に警察側の銃の許可が出た。侵入した決死隊に連絡を入れたが、銃声が一切響かない。

最前線に出た佐々氏は、中で言い争う部隊に出くわす。

催涙弾を投げ込んだために、犯人へのダメージはあったが、同様に同じ人間である機動隊にもダメージがあったのだ。放水とガス、どちらを使うかでもめていたが、何とか水を確保し放水延長に切り替えた。相当な水圧がかかるので、ホースを持つのも数人がかりだ。放水している最中を狙い撃ちされる可能性もある。

壁が破壊されても、犯人はまだ布団などを置いて乱射が続く。隣のベランダから大楯で機動隊が集結しているが、撃たれっぱなしだ。

内側から三階入り口まで詰めかけたところに犯人は鉄パイプ爆弾を投げた。

機動隊員たちは重症を負い、一時戦闘意欲を無くし、動きが全く取れなくなった。

時刻は夕刻に迫っている。日暮れになってしまえばまた視界を見失い、寒さが襲う。人質も体力の限界だろう。

目の前に敵が迫っている、味方が何人いても、説得も何も容赦しない狂気の軍団を目前にするほど危険なものはないだろう。

一体、奴らはいくつ爆弾を持っているのだ? とにかく放水に放水を重ねた。爆発物に着火できないようにするためだ。

この時、気温は昼間でも零下十度以下。水と雪と氷の中での死闘。

山荘内はさらに悲惨な状況だった。

十三気圧の延長放水が功を奏し、見事に壁を打ち破り始めた。

山荘内部もついに、三階バリケードを崩し、大楯のみで犯人を追い詰めた。最後までライフルを撃ち続け、大楯を抜けて目を打ち抜かれた警官もいた。

佐々氏はこの十日間、ただライフルを乱射し続け、何の要求もなく、人質は返さず、親の言葉も聞かない犯人たちに、自然の要塞のように崖にそびえ立つ、あさま山荘の雰囲気に底知れぬ重い空気を感じていた。

(この重い空気感は何だろう?)

その時は、まだ理由はわからなかった。

時刻は十七時三十七分。すっかり夕闇が迫る時刻。

ついに機動隊は犯人たちを捕らえた。そこには、獣のように悪臭を放つ垢だらけで真っ黒の五人の若者がいた。

顔を見せたがらずにうつむく犯人たちは「顔をしっかり見せるんだ」という号令により、髪を引っ張られ、軽井沢を、そして日本を騒がせた凶悪犯の顔を九割の国民がテレビでしっかりと見ることになった。

その時初めて、犯人は五人であり、寺岡はいなかったとわかった。

そしてすでに殺されていたことも、この後に知ることになる。

その後、前に逮捕された連合赤軍リーダーで、リンチを命令した森恒夫の自供やあさま山荘事件の犯人五人のうち一番若い十六歳の加藤が口を割り、

「ベースでは総括の名の元に、同志を殺し、山に埋めました」

と白状したことから、十四名の死が発覚。

殴る蹴るの暴行に食事を与えず 極寒の外につなぎ、死んだら裸にして穴に埋めた。掘り出された遺体の中には妊娠八か月の妊婦と胎児もいた。

佐々氏はそのリンチ発覚の後に、この事件での一連の重苦しい空気感は、そこで無念に死んだ仲間が怨霊となっていたのではないかと告白している。

また、なぜか軽井沢に迷い込んだのも、最初に都内のアパートで殺され印旛沼に捨てられた向山茂徳が長野の生まれ育ちだったことに関係しているのかもしれない。

導かれるようにこの軽井沢に入り込み、一網打尽になった経緯には、向山の恨みがあったかもしれない。

死んだ仲間の為に戦う、という意識があったというが、その無念の魂が憑りつき、彼らが二度と英雄化されないように取り返しのつかない狂気を残った者達に与えた、そんな気がしてならない。

なぜそんなことをしたのか? という問いに、事件の犯人たちは明確な答えを出していない。霊に操られたと言うべきか。

リーダーの森は拘置所で自殺、永田洋子も脳腫瘍で亡くなった。

仲間を殺した罪の意識と、その怨念に耐えきれなかったのかもしれない。

神は、凶悪な人間にわざわざ沙汰は下さないが、悪魔を派遣するともいう。

そしてその悪魔は死神に変わり、殺し合いをさせるという。

筆者は、あさま山荘の現地に赴き、現状を見てきた。

この辺りは別荘地であり、関係者でないと立ち入ることができない。筆者はこの一帯の別荘関係者とその道筋をたどった。

四十五年前にこの事件が起きた頃よりも、鬱蒼うっそうとした森になっている。レイクタウンといわれているが、湖というより、山奥というイメージが強い。

急勾配を上がった先に山荘はあった。

近くに住んでいても、たどり着けないような迷宮の中にある。

私達も道を間違えたりはした。広い山奥のような立地の別荘地は、地図に載っていないのだ。関係者でさえ迷うと言う。

その時、筆者が乗っていた車の運転手さんが言った。

ドライバーとしては一流の腕前の人だ。

「今だから言いますけどね、最初、道を間違えて進んだとき、あなたが『あっ』と言ったでしょう? あの時異様にドキッとしてね。そしたら、初めてですよ。このオートマ車が止まったんです。エンストする!って思ったんでね、驚きましたよ。今までエンストなんて起こしたことないですから。しかも坂道って場所でもないでしょう?」

その道は間違いだった。そこでUターンすることになったが、エンストしかけなければ、間違って進んでしまい、山荘にはたどり着くことはできなかっただろう。筆者もなぜ「あっ」と言ったのか覚えていない。

筆者がこの森に入ったとき、幾つもの道と同じような木々を見上げ、富士の樹海を感じた。どこへ行っても同じ景色が広がり、小さな看板すら「○○通り」としか記載がない。

筆者がここだと思った道があり、そこを進んだ先にあった。

どんな地図があってもたどり着くのが難しい。木々がなかった頃でも、雪の中にここへとたどり着いた苦労がしのばれる。

カーブを越えた辺りに小さなスペースがあり、そこに慰霊碑があった。

これが当時殉職した警官たちの慰霊の塔だと、見たこともなかったのに感じた。

それが決め手で、その先に見えたのは、あのあさま山荘の屋根と壮絶な戦いが行われた三階部分だった。

「ここだ!」

思わず声をあげた。

別荘地はほとんど人を見かけない。関係者以外が入れない山といった趣で、一つの「誰も知らない村」のような、山の闇のような雰囲気があった。

群馬の妙義山を越えるルートをイメージし、車でここまでたどり着いたときには、当時の連合赤軍五人の気持ちが少しわかったような気がした。

筆者が訪れた時は、台風の接近中であり、初夏でありながらも雨と寒さと濃霧で視界が阻まれていた。

ただ、不思議な事に台風が接近していながら、高速道路から長野に至るまで無風状態だったのだ。

だから行くことができた。

銃撃戦のあったあさま山荘の壁や屋根は、今はきれいに修復されて以前とは別のオーナーが所有している。

その場所に立ち、写真を撮りだすと急に霧が立ち込めてきた。それまでも濃霧で峠やバイパスを越えるのが危険な最中を越えてきた。

写真を撮影するのもそこそこに、目印となった慰霊の塔に向かって敬礼をした。

しかし、その黒御影石の慰霊の碑やお地蔵様のようなものも、一体だれがだれのために祀っているのか不明だ。

石には『祷る』と彫ってあった。

殉職した警官がいた場所、そして鉄球が打ち込まれた山荘の三階部分の前で撮った写真を見ると、筆者の顔が大きく曲がって写っていた。

その場に立った時に感じた立ち眩みのような頭痛も忘れられない。霊気は体を襲うように、しばらく頭痛が止まなかった。

「ここに来い」

というメッセージは確かに感じた。

それがどういう意味なのか、いつかわかる日がくるだろう。

あの日、九十パーセント近くの日本国民が息を飲んで見つめていたこの場所は、長野の迷宮であり、簡単に人を近づけない空気が漂っている。

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