怨みの首塚(長野県佐久市) | コワイハナシ47

怨みの首塚(長野県佐久市)

上信越道を佐久インターチェンジで降りて、県道四十四号を東の方角に進むと、群馬との県境に近い旧志賀村(現・佐久市)に到着する。その県道沿いにある雲興寺の裏山に、笠原清繁が城主だった志賀城が戦国時代にあったが、武田軍によって落城され、現在は遺構だけが残っている。

天文一六(一五四七)年、武田信玄の信濃攻略は勢いを増し、諏訪、伊那を制圧した後、東信濃の佐久郡に兵を送り、志賀城を攻めた。

そのとき、上野国の高田憲頼が援軍として入城していた。また関東管領である上杉憲政の援軍も頼みにしていたが、上杉軍が碓氷峠を越えて城に向かう途中、信玄が送った兵により小田井原で援軍は壊滅してしまった。

信玄は笠原たちの士気低下を狙い、自陣に持ち帰った三千の首級(打ち首)を城から見える場所に並べたてたという。

もはや援軍が来ないことを悟った笠原たちであったが、降伏せず武田軍の攻撃を受け続けた。その二日後、志賀城は落城し、笠原軍、高田軍の城兵三百人余りが討ち死にした。

生け捕りとなった者たちは甲府に連行され、奴隷労働者として黒川金山などへ身売りされた。また美しいと評判だった清繁の若い妻は、戦で活躍した小山田信有に褒美として与えられたそうだ。

その後、城下には笠原清繁の首塚が造られたが、現在は水田の真ん中に取り残されたように所在し、その奇観は見る者を驚かせる。

過去に何度か首塚を移転させるという話も持ち上がったが、言い出した者たちに病気やけがなど、よからぬ出来事が頻発し、結局、現在でもそのままになっているとのこと。

城を落とされ、愛する妻をも失った清繁の怨みや深し、ということだろうか。

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