夜泣き石(長野県塩尻市及び飯田市) | コワイハナシ47

夜泣き石(長野県塩尻市及び飯田市)

戦国時代、信濃国筑摩郡洗馬の領主である三村長親は、当初、信濃守護(国単位に設置された軍事指揮官及び行政官)の小笠原長時に従って武田信玄に対抗していたが、信濃の要衝である塩尻峠での戦いで武田軍に寝返ると、それ以降は武田側に従属したという。

天文二十四(一五五五)年の一月二十八日の夜、長親は信玄から恩賞を受けるため、二百人あまりの家来たちを意気揚々と連れて、甲府の一蓮寺に泊まっていた。ところが、

「一度主人を裏切った者は、また裏切る心配がある」

信玄はそう言って兵を送ると、寺に火をつけた。長親たちを皆殺しにしたのだ。そのために三村氏一族はほどなく滅亡してしまったそうだ。

長親は洗馬妙義山の城主だったが、山の麓に彼の居館があった。その場所には現在、県史跡に指定されている釜井庵という旧宅が建っているが、この建物自体は十八世紀中頃に建立したといわれている。

その庭に高さ六十センチほどの丸い石がある。

この石に耳を当てると、悲しげにすすり泣くような声が聞こえるという。さらに夜更けになると、その声は一層大きくなるとのこと。

殺された長親や一族の怨念が石に宿ったといわれ、「夜泣き石」と呼ばれるようになったそうだ。

また南信の飯田市には別の「夜泣き石」伝承がある。

正徳五(一七一五)年のこと。

六月十七日から降り始めた雨が、翌日の早朝から豪雨になり、飯田下伊那地方で河川が氾濫し、甚大な災害をもたらした。伊那谷は山からの濁流が流れ込み、まるで湖沼のようになってしまったそうだ。

このとき、野底川上流でも山崩れが起き、土石流が発生した。山崩れ発生地点から松川合流点付近まで、全長七メートルほどの花崗岩の巨石が流れに乗って運ばれてきた。その際にひとりの子どもが巨石の下敷きになり亡くなってしまったという。

十九日の夕方になってようやく天竜川の水が引き始めたが、それ以降、石から子どもの泣き声が聞こえるようになったので、集落の者たちは皆気味悪がった。これは子どもが成仏していないためだろうと、石のうえに地蔵を祀って厚く供養したそうだ。

その年の干支は未だったので、この大洪水は「未の満水」と呼ばれ、三百年経った現在でもこの地方で語り継がれている。

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