いつの頃か、北アルプスの麓の松川村に若い夫婦が住んでいたという。
ふたりは仲むつまじく幸せな毎日を送っていたが、ある日に夫が風邪に罹ると、ひどくこじらせてしまい、ついには亡くなってしまった。
妻の嘆き悲しみは深く、周囲の者は声も掛けられないほどだった。
その後も妻は悲嘆に暮れる日々を送っていたが、ある日、彼女は立山の地獄谷の言い伝えを卒然と思い出した。
太古の昔から、地獄谷には死者の魂が集まり、近親者が訪れると、生きていた頃の姿のままで現れるという伝説を。
幽霊でもいいから、あのひとに逢いたい。
再び夫に逢えるのなら、峠の難所など苦でもなんでもない。もう一度だけでも、あのひとの姿をこの眼で見たい─。
その一念だけで、妻は山に向かってひとり歩き出した。
どこまで進んでも道は険しかった。
しかし、彼女を突き動かしている夫への深い想いは、その障害に負けることはなかった。
気がつくと、妻は佐々良峠にたどり着いていた。
季節は秋も過ぎ、辺りはすっかり深い雪に覆われていた。あたりは一面の雪原。
──と、そのとき、猛烈な吹雪が彼女を襲った。なすすべもなく、その小さな体は暴風雪にひと呑みにされてしまった。
亡骸はその後も見つかることはなかったが、多々良峠では烈はげしい吹雪の夜になると、夫を慕って泣き叫ぶ妻の声が聞こえるという。