常山城跡(岡山県玉野市) | コワイハナシ47

常山城跡(岡山県玉野市)

備中上野氏の居城だった常山城。

一五七五年(天正三年)年に毛利氏が攻め寄せると、当主・上野肥前守隆徳は「腹切り岩」で自害したと言われる。

備中松山城の城主・三村家親の娘、鶴姫が隆徳の妻であり、先に三村元親が毛利家の討伐に遭い、松山城で自害させられていた。

隆徳の妻、鶴姫は侍女三十余名を率いて戦いを挑んだが敵わず、姫は城内に戻り自害した。

その後、宇喜多秀家の家臣である戸川秀安が城主となり、さらに「関ケ原の戦い」の後に宇喜多氏が改易となったため、小早川秀秋の家臣の伊岐真利が城主となった。その後、岡山藩を治めた池田忠継が一六〇三年に常山城を廃城とした。

多くの人々の命が常山城跡で散ったせいか、城跡には独特の荒れた雰囲気がある。

山頂付近には鶴姫らを祀った「女軍の墓」があり、石垣や井戸、空堀などの遺跡も残る。侍女三十四人は敵に討ち取られた悲劇の城としても有名である。

この城山には数々の怪談が残る。

これは城郭城マニアの内野さんの話だ。彼女は現存している城よりも城跡を好み、日本中の城跡や石垣を見てまわるのが好きなのだそうだ。

内野さんがこの常山城跡に行った時のことだ。春先の肌寒い夕方頃、城跡に到着した。

道先を案内してくれた地元の知り合いが、坂道をどんどん上がっていくのだが、その日は空気が薄いというか、歩くだけでもゼイゼイと息が上がるほど疲労していたそうだ。

頂上までの山道は女性には少々辛い。少しずつ日が陰り、足元もおぼつかなくなってきた。

「頂上ですよ」

知り合いの声にほっとして、内野さんは薄暗くなった下界を見渡す。標高が三百メートル以上あるので、それなりに眺めも良い。しかし、追い詰めてきた毛利の軍勢が千人と聞くと、鶴姫たちがここを包囲されたときの恐怖心を想像した。

「北の丸に女軍の墓があるんですが、行きますか?」

辺りはかなり暗くなっており、山を下るのは登るよりも危険だ。そのため、「もう行くのはやめましょう」と言った。だが知り合いは「ここまで来たら行くべきでしょう」と言って、先に歩いて行ってしまった。着いた女軍の墓では、何基もある墓の中に石の机のようなものが置かれていた。

その時内野さんは、ぐぐっと首が閉まるような感覚に陥り、手足がしびれてきた。首のネックレスがやけに重い。厄払いにと、どこかでお払いしてもらった石をペンダントトップにしていたのだ。

「もう遅くなるし、電灯もないから戻りましょう。私はあなたほど体力がないのですみません」

そう言って、この辺りの写真を何枚か撮って、戻る事にした。

家に戻り、鏡で首を見ると、ペンダントトップの石が外れていた。

霊感のある母親にそれを見せると、

「ちょっと、撮った写真見せて」

と言い出した。デジカメを渡すと、母親が言った。

「撮った写真全部に霊が写ってる、あなたの首や肩には白い手がいっぱいかかってるし、特にこの写真、ものすごい顔で睨んでる女性がいる」

女軍の墓の写真だった。霊感のない内野さんにはそれがわからなかったが、どの写真も全体的に霧がかかったように、風景がぼんやりと映っていた。

「あなたが首にかけていた石が、ここに住んでいる人たちには、すごく嫌なものだったと思う。だから首に手をかけて外そうとしたんでしょうね」

そのペンダントは、お寺での厄除けに買った石だった。切れてしまったが、そうした古い怨霊がある場所ではむしろ逆効果であり、ひどい場合は、霊たちに首を絞められて命の危険もあるという。

霊にとって違和感となるパワーストーンは、こうした場所には不向きなものだが、身代わりになったので取れた、とも言えるかもしれない。

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