A子さんは、幼少の頃渋谷区のかなり大きな家に住んでいた。その庭に一本の大きな八重桜があったという。
あんまり立派な桜なので、花見の頃になると家の者は親戚の者や知人を呼んで、その樹の下に茣蓙を敷いて宴を開いたりした。
A子さんは、とりわけこの樹に愛着を持ち、ことあるごとにその下でママゴトをしたり、悲しいことがあると、その樹に背をもたれかけて樹に慰めてもらったりしていたという。その後、A子さんはそこを引っ越したが、そこに引き継いで住んだのが伯父おじ夫婦だったので、春になると毎年その桜の樹を見に帰ることを習慣としていたのである。
A子さんが大学に通うようになった春、渋谷で友だちと会うため東横線に乗った。
ちょうど桜が盛りで、車窓にすでに散りかけた桜並木が流れていく。
そういえば、今年はあの桜のある家には帰っていないことに気がついて、
(あの桜もきっと綺麗に咲いてるだろうな……)
と思い巡らせながら、ドアにもたれて桜並木を眺めていると、
(モウ、アエナイヨ)
という声が聞こえたのである。
(えっ、誰?)
とあたりを見回すが、それらしき人はまわりにいない。
だが、確かに聞こえた、というより頭の中にまさにカタカナのイメージで、それが響いたのである。
(これは、いったいなにかしら……)
と、その言葉が気になったが、結局その春はそのまま忘れてしまっていた。
それから四カ月たって、A子さんは姉から八重桜が切り倒されたことを聞かされた。
切り倒されたのは五月頃のことらしいが、ちょうど花の盛りの時期に、駐車場を増設するために伯父夫婦が決定したらしい。
「A子には気の毒だから、言えなかった」と姉が言う。
A子さんは、泣いた。
ただ唯一の慰めは、庭に残った切り株から数本の若葉が芽を出したことであった。