父の長兄が話してくれた。
つまり、僕の伯父だ。
秋田県に住んでいる。父の実家が秋田なのだ。
この伯父、長男なのだが、定職についたことがない。
「釣りに狂った」
としか言いようがないほど、若い時から入れ込んでいた。
川釣りの人だった。源流に分け入って、ヤマメを狙った。一度、山に入ると何日も帰って来なかったそうだ。
周りも呆れてはいたのだ。
しかし、そのうち目が覚めるだろうと思っていた。
その年代では田舎には珍しい大学出、学士様だった。
しかし、さっぱり熱が冷めない。
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すみません、ここから長い説明です(汗)
伯父のバックボーンを説明しときます。
カツマタ家というのは盛岡藩創立以来の藩士だった。地方公務員のようなものだ。もともとは百二十石というまあまあの家だった。しかし、いろいろあって徐々に減給され、しまいには三十石三人扶持という貧乏ファミリーに転落してしまったのであった。日本三大ガッカリ(カツマタ家編)その一である。
浅田次郎先生の名作の一つ『壬生義士伝』の主人公、吉村貫一郎も同じ南部藩士だが、あまりに暮らしが苦しいため、脱藩して新撰組に入隊する。まさに食うや食わず。向こうは三十石一人扶持、こっちは三十石三人扶持。同じくらい貧乏。(まあ一日に玄米を一升多くいただけるけれどもだ)
そもそも盛岡の郷土料理からして、どうにも貧乏くさい。基本的に、「落ちてるもの」を拾ってきたのが材料なんだから。←言い過ぎ
そして、御一新。
カツマタ家は、たまたま家長が早世して、嫡男(僕の曽祖父)は家督前。ほんの子供だったのが幸いして、お咎めなし。それどころか、新県庁に給仕(使いっ走り的な)として召し出され、仕事までもらえたのだった。
働いてるうちに
「なかなか使えるタイ」
「気が利くでごわす」
「だんご買ってきたから食いなはれ」
「給金上げてやるぞなもし」
などと上役に認められ、なんとなく公務員的に働いたり、駅の助役さんやってみたり、不動産に手を出してみたり……。晩年までにはなかなかの成功を収めて、二百年なじんだ貧乏暮らしから、どうにかこうにか別れを告げることができたそうだ。
その長男だった祖父は歯医者の修行をして、秋田(南部藩の支城があったところ)で開業することにしたそうだ。そして、地元の大きな呉服屋の次女を嫁にもらうことになった。開業にあたっては、祖母の実家からかなり援助してもらったらしい。
余談だが、祖父母の結婚が決まっていた時期に関東大震災が起きて、祖父はとんでもなく混雑した電車に文字通りぶら下がって、秋田から祖母家の葉山の別荘(!)まで御見舞に伺ったそうだ。当時の祖母は東京の**学園の女学生。明治生まれの女性で東京で高等教育を受けているってのは、相当に希少種である。
その秋田の家は、田舎とはいえ駅から徒歩6分。
渡り廊下で行く離れには祖父の診察室があった。居間と台所だけでも、僕が借りてる安アパートより広かった。そりゃそうだ、建坪が一階だけで八十坪(約250平米)ある、お屋敷だった。
子供時代の思い出は、重力利用式のトイレ(ザ・便所と呼ぶのがふさわしい)までが、おそろしく遠かったこと。特に寝る前の夜のおしっこ。二階から暗い階段を降り、長い廊下を歩き、角を曲がって突き当りのしんとした便所で用を足すのは、富士Qの戦慄迷宮より恐怖を感じた。おかげで小学校の四年まで、父の実家に泊まった時だけ、たまに寝小便をしていた。
そんな家で伯父は長男として生まれ、たぶん甘やかされて育ったのだった。
ろくな人間に育つわけがない。
まあ、僕なら、まちがいなくドラ息子一直線だ。
伯父は学校を出ても、働かない。働いても、続かない。
釣りにばっかり行ってた。
幸か不幸か、家はそこそこ裕福だった。
食うには困らない。だから、働かない。
釣りにばっかり行ってた。
周りの口利きと圧力で、なんとなく結婚した。
嫁がいれば、食わせるために働くだろうと思われたのだ。
僕に言わせれば、考えが甘い。
甘い甘い甘い甘い。甘いったら、甘い。
あのなあ、釣りキチガイってのは、そういうもんじゃないんだよ。
女には飽きることがあるし、疲れることがある。酒みたいなものだ。
でも、釣りには飽きないし、疲れることはない。水みたいなものだ。
俺も釣りキチガイのクズ人間だから、わかるんだよ。
うん、よ~くわかる。
↑いや、断言できちゃダメだろ。
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伯父の話だ。
新婚半年を過ぎたら、もう釣り。
何日も帰らない。
二年も経たないうちに、お嫁さんは出て行った。
困ったのは、僕の祖父母。長男の嫁が出ていったということは、跡取りが出来ないということだ。
次男は夭逝している。
このままでは、家が絶えるかもしれない。
そりゃまずい。
聞かれませい。このカツマタの家と申すは畏れ多くも桓武天皇に源を発します平氏の門にてそうろう。平氏多しと言えども、逆賊平将門(あえて「へいしょうもん」と読ませるのです)と干戈を交えし村岡の六郎こと良文、名高き武門のその家の裔にてそうろう。名を惜しみ命を惜しまぬ武士なりとて名を上げ候(中略)奥州惣奉行葛西清重が八男よりいでし、歴とした弓矢の家がこの家にてそうろう。代々葛西の家に仕え、奥州仕置にて晴信さまおん没落、加賀に落ちなされし折にも従いまいらせた誠は日の本の侍の鑑ぞ。晴信さま亡き後に浄法寺衆おん口利きによりて南部の家に従いまいらせそうろう。俚諺にも、花は桜木、人は武士、柱は檜、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしのとやら申しそうろう。武門の家に生まれし健児が跡を残さず、御陵、狐狸野干の栖とならば、御先祖様にいかように申し開きをなすべきや。いざ、いざ、こたえられませい。
※読めない漢字はスルーの方向で
じじいやばばあが擬古文そうろう調で頭をかきむしっても、嫁がいなけりゃ子供は出来ぬ。ハァコリャコリャ、困った困った。
やきもきしているうちに、三男から
「付き合ってる女に子供が出来ちゃったのでデキ婚します」
と報告を受けたのだった。
え?マジ?アホか。勘当じゃ!
しかし、落ち着いて考えてみれば、そうか、その手があったか。
それでは、子供が男だったら家(墓)を継がせよう、勘当許す、結婚せいということに。
でも生まれたのは娘。それが僕の姉。
次に生まれたのが僕。
ハイ、墓守り決定。Ω\ζ°)チーン
僕には選択権はなかった。ちなみに金も力もない。
いい年して、ろくな仕事もない。
ないないづくし、ないづくし~♪
だけど、田舎に200年分の墓はある(別に嬉しくない)。
しかし結婚も出来ない、人生の負け組。
やはり墓は、狐狸野干の栖になる宿命だったらしい。
じいちゃん、ばあちゃん、ご先祖さま、ごめんなさい…。
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僕が中学生の時に祖父は死に、一年も経たないうちに祖母が死んだ。
それでも、やっぱり伯父は働かなかった。家の一部を人に貸したり、遺産らしいものを売り払ったり……。竹の子みたいに、周りのものを売って暮らしていた。
ここまで徹底していると、一種、仙人めいた風格が出てくるらしい。だからか、不思議に女性には人気があったという。たしかに大柄で、なかなか立派な顔をしていて、鷹揚なふうがあって……。
田舎の県会議員みたいな人だった。
僕の父とは仲が悪い。昔っから仲が悪いのだ。
父は**高校に通わせてもらえなかったことをいまだに恨んでいる。その高校は実家から遠いので、下宿が必須。しかし、上の兄二人を通わせたため、三男からは、もういいだろう…と、地元の高校に進学さえられたという。それは伯父さんのせいじゃないでしょう。
それに伯父になにかあった時には、けっきょく尻拭いを全部させられてるからだ。最近入院した時の費用も全部父が払ったそうだ。
しかし伯父からすれば
「家の子郎党が氏の長者の面倒を見るのはあたりまえ」
という封建思想が根底にある。
仲が悪いというよりは、思想の違いなのかなあ。近世封建思想VS昭和戦後教育思想との対立と言うべきか。
僕にとっては、カジカ釣りや虫取り、川遊びに連れて行ってくれたりした、大好きなおじさん。
盛岡城の石垣をチョロチョロしてるトカゲを捕まえて
「のん坊、ほら」
と、退屈してた僕にくれたりして、その時には嬉しかったのだが。
でも、それは祖父母のお葬式の時のこと……。
伯父さんにとっては、自分の親の葬式の時で、つまり喪主。
周りの人には
「自分の親の葬式に、殺生(みたいなこと)して」
と眉をひそめられていた。
今にして思うと、ちょっと変わった人だったのかな、と。
ひょっとしたら葬式という固陋な習慣に対して、アンチテーゼ的な行動を敢えて示すことで、大衆を啓蒙する目的があったのかもしれない。いや、ないだろうけど。
前置きが長くなってしまい、申し訳ありません。
やっと本文です。
すぐ終わります。←え?Σ(゚Д゚)
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さて、数十年前のこと。
僕は生まれていたか生まれていなかったのやら。
伯父が釣行のために山に入って三日目。
ちなみに秋田と岩手の県境の辺りだったという。
ちなみにそこはじいさまの所有地で、三万坪ある。
ちなみにクマが出る。がおー。
伯父の釣りはいつも単独。
人里から離れた山の中を川沿いに釣り上がっていったそうだ。
夏を過ぎて、もうすぐ秋になるという季節だった。
ヤマメ釣りのシーズンは、そろそろ終盤にさしかかろうとしていた。
深い森の中、熊が怖い。わざと熊よけの鈴の音を立てて歩いていった。
蛇行した川を回りこんだ。
大きな岩の向こうに、もっと大きな何かがいた、という。
大きい動物。
見慣れない体の模様。
キリンだった。
キリンが首を伸ばして草を食べていた。
幽霊のような女や妖怪じみたものならとにかく……。
身長が三メートルを超えるキリンを、秋田の山の中で見たという。
唖然として動けない伯父に気がつかなかったらしく、キリンは歩き去っていった。
ごろごろと岩が転がる足場の悪い林の中を、キリンは悠々と歩いていき、丘のむこうに消えた。
動物園で見たことのあるキリンに違いなかった、という。
ぽかんとしている僕を横目で見て、
「いくらなんでもね、鹿やカモシカと見間違うわけがないからね」
「その時は飲んでなんかないんだから」
山深い陸中の人とは思えないような、きれいな標準語で喋る人だった。
伯父はぬるくなった燗酒を、大きな手に持った小さな盃で煽った。
「のん坊も、あの山行ったら見るかもな」
うんうん、と一人でうなずいてから、伯父は
「あとね、釣りは程々にしとくんだよ」
と僕に言った。
「うん、でも程々ならいいんだね」
そう答えた僕だったが、まさかに自分がこんなに釣りにハマるとは夢にも思っていなかった。
伯父は、2012年の1月に死んだ。
僕がその山に行った時には、キリンは見なかった。
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■ちなみに「日本三大ガッカリカツマタ家編」とは
1)南部藩で四分の一に減給されてクソ貧乏でガッカリ
2)明治の水害で、重代の刀や道具が紛失してガッカリ
3)俺の現状、マジでガッカリ