目次
背中の赤い跡
「どうしたの?この跡」
小学校二年生のころ、まだ母親と一緒にお風呂に入っていた僕の背中を見るなり、母はそう言いました。
お風呂からあがり、なんだろうと、部屋に戻ってあらためて鏡で背中を見ると、なんと背中一面に真っ赤な跡がついている。しかもよく見ると、その跡は大きな手の形をしているんです。
ちょうど腰あたりから肩にかけて一面に、大きな手の跡がガチッとついているのです。
どう思い返してもけがをした覚えもまったくなく、しかもその赤い跡は痛くもかゆくもなかったので、そのまま放っておきました。
すると髪もまだ乾かないままの母親が、
「今日、O君が亡くなったって。O君のお母さんからいま連絡があった」
O君とは小学校の同級生。近所に住んでいて、二、三歳のころから一緒に遊んでいる大の仲良し。
そのO君がトラックに轢ひかれ、数週間前から入院。病院で亡くなったとのこと。幼おさな心ごころにもショックが大きく、それでいて亡くなったことが信じられないような、複雑な気持ちになったのを、いまでも覚えています。
話は少し飛びますけど、子供って、いま思うと何がそんなに楽しいのかわからないような遊びで、楽しむことができますよね。
僕とO君も、このふたりにしか分からない、くだらない遊びをよくしていました。
学校の休み時間といえば、野球、鬼ごっこ、鉄棒、なわとびなどで遊ぶのが待ち遠しい元気な子が多く、授業の終了のチャイムが鳴ると、バサバサと教科書を机の中にしまい、ドドドドドーッと教室を飛び出して廊下を走るので、先生に、
「廊下を走るな!」
と、どなられる子も時折いました。
ところが、僕とO君は、教室から廊下に出るまでは、ほかの子と同じように飛び出して行くのですが、校庭に出るまでの間に、ふたりだけの遊びというか、いたずらをするのが習慣になっていました。
その遊びというのは、まず僕かO君のどちらかが隙をみせた瞬間、つまりぼーっとしていたり、相手の存在に気づかない瞬間に、見つけた方が、ぼーっとしている人の背中をぐいぐい壁まで押して行き、首と背中を手でぐっと押さえつけます。そして一〇秒経ったら放す、という、実にくだらない遊びを喜んでしていたのです。
ホント、いま思い出しても笑っちゃうくらい。
なので、気づくとほかの友達は先に野球や鬼ごっこをしているので、いつも途中から仲間に入れてもらって遊んでいました。
ある日、いつも通りに学校に行き、二時間目の授業が終わり、休み時間になったので廊下に出ると、思いっきり僕の首と背中を、いつものようにO君が壁に向かってぐいぐい押しつけるのです。
「くっ、くっ、苦し~、もー、O君。……八、九」
手が離れる10秒が経とうとした時、
(ん?この手はO君じゃない。だってO君は事故で入院中だ)
と頭に過ぎったのです。
そう思った瞬間、力強く背中を押す手がすーっと離れ、
(いまのは一体なんだったんだろう?)
一瞬、不気味に思ったものの、
(ま、いいか)
と、ほかの友達が校庭に走っていくのを追い越すようにサササーッと走って、階段も二段跳びして、はねるように外に出ました。
高学年のお兄さんたちにまじって野球をして、汗でシャツがぬれるまで走って、土ぼこりで顔が真っ黒になるまで、短い時間を遊んでいました。
休み時間が終わり、残り二時間の授業の後は、給食を食べて、掃除をしてから家に帰ることができます。
学校を一時半ごろ出ると、休み時間のことがあったので、O君のことが気になり、学校の帰りにO君の家に直接寄ってみることにしました。O君の家のドアを何度も叩いたのですが、中には誰もいませんでした。
その時点で、彼はもう亡くなっていたのです。
僕はその晩、母と風呂に入って、出てから知らされることになるのですが。母親は僕に、「O君はトラックに両手首を切断されるほど、痛ましい事故だった」と説明しました。
O君の死の知らせを受けた時と、背中の赤い跡に気づいたのはほぼ同じころ。どうしてもこのふたつを切っても切りはなせないような気がしたのです。
そう結びつければ、背中の手の跡のことを、いやでも納得できる。ところが、その跡の大きさはO君の手のひらでもなければ、大人の手の大きさでもない、はるかに大きなものでした。
その跡は、日が経つごとにどんどん赤みを増していき、三日経っても消えないので、母親と病院に行きました。
原因はわからないまま、とりあえず湿布と塗り薬をもらい、二日続けて様子をみましたが、今度は内出血をしているみたいに紫がかった赤い跡になってきて、かえってひどくなってしまったのです。
学校で体育の時に着替えていると、後ろの席の子が不気味そうな顔をしてるんですよ。子供ってそういう表情が露骨に出るでしょ。
僕はこのまま一生消えなかったらどうしようと、真剣に悩みました。
その夜、母親に背中に薬を塗ってもらい、布団に入って寝ると、次の朝、O君の夢で目が覚めました。
O君は白っぽいまぶしい光に包まれていて、その周りには赤や黄色、白のきれいな花が咲き乱れています。
僕は、
(O君は花園にいるんだあ)
そう思っていると、O君はだまったままにっこり笑って、光の中に静かに消えて行った……。
そんな夢を見ました。
朝、母親に学校に行く前に背中に薬を塗ってもらおうとすると、
「治ってる」
と母親が言うのです。
鏡で見ると、きれいに赤い跡が消えていたのです。
O君が亡くなってちょうど一週間が経った時でした。
その跡は信じられないほどきれいに、スッと消えていました。
やはり最後、僕のところにO君が遊びに来たのではないか、と考えてしまいます。
O君の事故で、ただひとつ、わからないことがあります。
それはなぜ両手首を切断したのか、という事故の状況のことです。
想像しただけでも、信じられないと思いませんか?
そんな轢かれ方があるのかということを。
ただ、僕が大人になって、交通事故に巻き込まれた時、警察の人が、
「どうしたら、こんな事故になるんだろう、どうしてこんなけがをしたんだろうと、納得のいかない原因不明の事故は、たくさんあるんです」
と言ったことがあります。その言葉が、まさに真相だと思いました。
小坪トンネル(東京都)
幽霊を見たとか、人影を見たという目撃証言が、異常に多いことで有名な小坪トンネルが、東京から湘南方面に向かう途中にあります。交通事故が多発するため、そこで死んだ人の幽霊がよく出るというのです。
僕は胸騒ぎというか、どうしてその場所にいろいろな現象が起きるのか気になって、僕がちょうど二四歳の時、僕を含む男四人で、ドライブをかねて、実際にトンネルを通って探検したことがあるんです。
このトンネルで起きる事故には、車が壁に激突するか、正面衝突するという、ふたつのパターンがあることがわかりました。
さらに異様な雰囲気を感じたのは、トンネルの上に古い井戸があって、そこが何か霊気を漂わせているように思えてなりませんでした。
なぜなら、少し近寄っただけで、気持ちが悪くなり、とてもその先まで進むことができず、引き返したくらいなんですから。
ついこの間、久々に仕事で湘南に行ったんですが、いまはその井戸の辺りは、完全に立入禁止になっていました。
話は僕が二四歳の時にさかのぼります。
トンネルの探検から約二週間後。
今度は先ほどの僕を含む男四人、プラスひとりで、再び湘南にドライブに行った時のことです。
その時は探検ではなく、夜の海を満喫するという目的で。
僕はドライバーの真後ろに座り、小坪トンネルに入ろうとした瞬間、ものすごいスピードで、フロントガラスを突き抜けて行く白い光を見たのです。その光を目撃したのは、ドライバーのA君と、助手席に座っていたB君と、僕の三人。
「なんだ?いまのまぶしい光は」
目撃した三人は、その光がどんなものだったのか、光の特徴について話しているうちに、助手席に座っていたB君が、
「あれは光ではなく、手だよ。それも人間ではなくって、まるで鬼の手みたい。手そのものは白っぽい光を発していたけど、手の甲には毛が生えていた。爪の形は熊みたいだったよ」
と、細部にわたって説明を始めたのです。
B君は怖くなったのか、顔がだんだん青白くなって、吐き気をこらえるように手で口を押さえながら、
「もう、帰ろうよ」
と言います。僕の隣にいたC君と、その隣のD君は、
「光も手も見なかったし、そんな話は嘘だ。何かの間違いだよ。いまさら戻るなんて、面倒臭い。もうすぐ湘南に着くよ。せっかく来たんだから行こうよ」
と、まったく動じる様子はなく、ドライバーのA君もそのまま車を走らせました。
無事に湘南に着き、夜の海でそこそこ遊びました。だんだんと空の遠くの方に少し紫色の朝の光が差してきた明け方四時ごろ。
そろそろ帰ろうと、砂浜から車を止めていた駐車場まで戻り、足の砂を払って車に乗りました。
帰りのドライバーは行きに助手席に座っていたB君になり、もと来た道を通ろうと、再び小坪トンネルに入りました。するともうすぐトンネルを抜ける辺りで、車の天井を、人の握りこぶしで強く叩くような、ドンドンという音がしたです。
今度は五人全員、その音を不審に思ったその瞬間、車の天井からフロントガラスにかけて、人の手がヌーッと出てきたんです。
ほとんど五人、一斉に、
「うわー」
と叫び声を上げると、ドライバーのB君は急ブレーキをかけて車を止めました。とっさに、
(ここから逃げなければ)
と思った助手席のAさん、後部座席のC君、D君、そして僕は、車のドアを思い切って開けて、そのまま閉めずに全力で飛び出して、無我夢中でトンネルを抜けて、外に逃げました。走り疲れて放心状態で道路に寝転び、息をハアハアさせていると、ひとりいないことに気づきました。
おそらく車を飛び出してから、五分ぐらい経ってからのことだったと思います。
姿が見えないひとりとは、行きに、
「もう、行くのやめようよ」
と言った、帰りに車を運転していたB君だったのです。
僕たちのいるところから、五〇メートル先のところ辺りに、車のハザードランプが点滅しているのをC君が発見。
四人で近寄ってみると、その車は僕たちが乗っていた車に間違いはなく、しかもきちっと道路の左側に寄せているんです。
「おーい」
と呼んでみましたが、まったく反応なし。
近づいて車をドンドンとノックすると、じーっと動かないB君が。
人が驚いた時の顔の表情を基準にするなら、その三倍、目を見開いて、というより、まぶたから眼球が三分の一ぐらい、ぐりっと飛び出ている状態。驚いた状態が、止まったままになった顔で座っているのです。
そのままB君は病院に運ばれ、一五年近く入院。
ようやく最近になって退院し、いまだに通院生活を送っています。
一体、何が彼をそこまで驚かせたのか。B君だけが、僕たち四人が見た、手以外のものを、見てしまったに違いない、ということだったと思うんです。
ショック死
B君の顔から、人間が異常なショックを受けた時の表情とは、眼球がぐりっと出てしまうほど、えぐい姿になってしまうんだということを知らされました。
B君はおかしくなってしまいましたが、一命は取りとめました。
ところが、死んでしまった人がいるという痛ましい話を、つい二週間ほど前、現在N大学三年生のW君から聞かされたんです。
N大学のラグビー部の合宿にバスで行く途中、パーキングエリアでトイレ休憩があった時のことです。
いくら待っても一年後輩のE君がバスに戻って来ないので、W君ともうひとりでトイレに捜しに行きました。
E君がトイレに入ったのを見た部員がいたので、必ずいるはず、そう思ってトイレの入り口を入ると、いくら経ってもひとつだけ閉まったままのドアがあるのです。
W君ともうひとりで名前を呼んでみましたが、まったく反応なし。
いくら呼んでも、E君は出てこなかった。
ひとつだけ閉まっているドアの下の隙間から覗いてみると、確かに人がいます。
「やっぱりここだよ」
W君は握りこぶしで力強くドンドンとドアを叩いたものの、うんともすんともいいません。
思い切ってドアを蹴って勢いをつけ、ドアの上に手をかけて必死にしがみついて、上から中をぱっと見下ろすと、狭いトイレの中で体をふたつに折り曲げて意識を失い、ぐったりとしているE君の姿が、W君の目に一瞬飛び込んできたのです。
びっくりして急いで手を放し、バスに戻って、W君がコーチに伝えると、すぐにパーキングエリアは、真っ赤なライトが点滅するパトカーで騒然となりました。
警察の人がトイレのドアをこじ開けると、E君は死んでいました。
爪がはがれたらしく、手が血だらけになってとても無残な姿でした。
壁には思いっきり爪を立て、爪がはがれるまで逃げようとした跡が、血だらけになってついているのをW君は見たそうです。
しかもE君は、まぶたから眼球が半分出ていて、いわゆるショック死と判断されたと、その時の現場についてW君は話してくれました。
ところが、どうしても納得できないことがあるのです。
例えば具合が悪くなって、誰かに助けを求めようとするなら、ドアを叩くなり、よじ登ろうとするはず。それなのに、E君はドアとは正反対の壁に向かって逃げようとしているのです。
僕は小坪トンネルで何ものかを見た友人とE君は、同じ表情だったのではと思いました。僕が見た、友人の目がとび出ている状態の記憶がよみがえり、しばらくの間、食事ものどに通りませんでした。
E君はいったい、何によって死の世界に追いやられてしまったのか、不思議でなりません。
サイパンにて
仕事でサイパンに行ったんだけど、その時泊まったホテルも気持ちが悪い部屋だったな。
僕がね、バスタブでお湯につかりながら、新聞を読んでるんですよ。ちょうど僕の後ろ辺りにドアがあって、読み終わった新聞を放り投げようとすると、誰かがその新聞をパッと受け取ったんです。
部屋は僕しかいないし、おかしいなあ……。
振り向くと、新聞を持った手が一瞬見えたんです!
引っ張られる感覚はいまでもはっきり覚えているくらい、それはそれは不気味。
あれはきっと女の人の手だったと思います。
お風呂から出た後、なんかいやだなあと思いながらも、次の日はロケで朝早いので、
(えーい、寝ちゃえ!)
と、すぐにベッドに入りました。
もうすぐ眠れそう……。
すると僕の両方の太ももを下から上に向けて、ぐんっ、ぐんっと両手でマッサージするように押す人がいる。
しかも布団の上から。
怖くなって頭から布団をかぶると、今度はね、布団の中に手が入ってきて、指先を踊らせているんですよ。まるで子供がお遊戯で手を振りながら遊んでいるみたいに。それがすごく小さい手なんです。
というのも、怖くなって布団をかぶった時、すっぽりかぶったので、とても手が入れるような隙間なんてないんです。
ホテルのベッドメイキングって、布団がぴっちりマットの下に覆いかぶさっているでしょ。僕はそのままのタイトな掛け布団をかけて、首から上だけ出ている状態で寝ていたので、その隙間に入って来るのは、よっぽど小さい手なんですよね。というより、入らないのが現実。
(参ったなあ、また変な体験しちゃったなあ)
と思って、じっとしていたら、すーっとその手は消えてなくなりました。
完全に目が覚めてしまい、部屋の電気をつけて、カーテンを開け、気分を落ち着かせようとバルコニーに出ました。
ちなみに僕の部屋は二三階。
外はまだ真っ暗。バルコニーに手をかけて、僕の部屋からは左右両側に湾曲して建っているほかのホテルが見えます。そこの窓の明かりを見ては、
(こんな時間にまだ起きてる人がいるんだなあ)
と、妙に安心感を覚えたり、海を眺めて波の音を聞いているうちに、だいぶ気持ちも落ち着いてきました。
そろそろ戻ろうかなあ、と思いながらも、湿気のない外の空気が心地よくなり、何気なくバルコニーの下を覗いてみました。
すると、下を向いた瞬間、僕の両耳を誰かがギュッとつかんだのです。それは明らかに女性の手でした。
姿は見えないんですよ。
突然僕の真正面に現れて、耳がちぎれそうになるくらい強く、抵抗しようとするとそのままぐいぐい僕の頭を下げて、ものすごい力で引きずり降ろそうとするのです。
(このままだと死ぬ!)
頭が真下に下がり、肩が落ちそうになるのを、満身の力でぐいぐい引き戻し、耳たぶが切れたかと思うほど頭を上げました。全身に力が入り過ぎた体はぐったりと疲れて、腰に力が入りません。ひざを曲げたままの姿勢で後退りし、開いたままの窓に向かって、はうようにして部屋に引き返しました。
鏡を見ると、両方の耳たぶの後ろが少し血がにじんで、真っ赤になっていました。
本当に恐ろしかった。
後で、そのホテルで自殺をした人がいた、と聞かされました。
ホテルのような高い建物では、やたら下を覗いたりしないことを忠告したいですね。
日本海(新潟県)
ちょうど今から四年前の話。
新潟県の海開きのイベントで司会を勤めることになった僕は、イベントの前日の夜九時過ぎに、ホテルにチェックインしました。
僕がホテルに着くと、今回お世話になるイベント会社のAさんと、ゲストで招かれていた、若手のお笑いコンビがロビーに集まり、Aさんは次の日のスケジュールや注意事項を説明し、今晩泊まるそれぞれの部屋に案内してくれました。
フロアーの奥の洋室が僕、隣の和室がお笑いふたり、その隣が洋室のAさん、という部屋割になっていました。
Aさんは、
「私の部屋はここですので、もしも何かありましたら、連絡するなり呼びに来てください」
と言って、お笑いふたりが和室に入るのを見届けると、僕の部屋に案内してくれました。
なぜかその部屋に、僕とAさんは同時に足を踏み入れ、同時にあるものが目に飛び込んで、
「あー!」
と、同時に声を発したんです。
このホテルは建物そのものが海に面していて、僕が泊まる六階の部屋の窓からも、海がよく見えます。
もっと詳しく言えば、部屋のドアを開けると正面が窓になっていて、海が見えるんです。
ザーザーッと静かな波の音も聞こえる。
(ん?なんでこんな時間に泳いでいる人がいるんだろう?え?なんで夜こんなに暗いのに、僕には泳いでいる人の姿が見えたんだろう)
Aさんと僕が同時に発した「あー」という言葉は、間違いなくそのような意味合いの「あー」でした。
僕たちが見たものは、交通事故の実験に使う、ダミー人形のようなものが、灰色というか、白で、人間の形を輪郭だけにしたような、不気味なものでした。
その不気味な物体が、クロールで泳いでいたんです。それもものすごいスピードで。
それにしても変なのが、ホテルの部屋から海までは、距離的に三〇メートルぐらい離れているんですけど、たとえ身長が一メートル八〇センチある人が泳いでいたとしても、そんなにはっきりと見えないと思うんです。
しかも夜の海ですし。
しいて例えるなら、水族館の大きな水槽に、二、三メートル離れたところで、鮫さめが泳いでいるのを見ている、そんな感覚で人らしきものが泳いでいたのです。
つまり僕たちは、とてつもない大きなものを見てしまった、ということになるのです。
しばらく僕もAさんも黙ってしまいました。
「………」
それから、僕が思わず発した初めの言葉は、
「あのぉ、部屋、替えてくれる?」
Aさんは、
「明日の海開きのイベントのために、かつてないにぎわいで、ホテルは満室なんです」
とのこと。
「だったらAさんと部屋替えてよ」
と頼むものの、Aさんも絶対にいやだと言いはるので、結局、若手お笑いコンビの和室に僕もAさんも寝かせてもらおう、ということになり、隣を訪ねました。
「一緒に酒でも飲まない?それにここの部屋さあ、和室で広いから、みんなで一緒に寝ようよ」
と言うと、
「え?酒ですか?明日朝早いし……。それに自分たちの部屋で寝ればいいじゃないですか」
と、追い返そうとするわけ。それでも僕とAさんは、
「まあ、いいじゃない。飲もう、飲もう」
と、強引に部屋に入り、若手ふたりは、
「なんで四人、一緒に寝るんですか」
と、しつこいくらいに何度も聞いてきます。
もちろん、僕もAさんも、先ほどのとてつもなく大きな物体のことにはふれず、和室にズカズカ入り、僕はそのまま窓ぎわにある冷蔵庫の中から、ビールを取り出したまさにその時です。
隣の部屋の壁から、僕たち四人のいる部屋の壁に向かって、
ドンドンドンドンッ
と、叩く音が聞こえたのです。
隣は、初め僕が泊まる予定だった、誰もいない部屋……。
四人とも、その音でぞーっと鳥肌がたち、若手のひとりが、
「四人で軽くお酒でも飲みながら、みんなで一緒に寝ましょうよ。明日も朝早いことですし」
と言って、みんなですぐにテーブルにつき、飲み始めることにしました。
僕がAさんのグラスにビールをつごうとすると、今度はいきなり壁に作りつけてある、浴衣やタオルが入っているタンスが、ガラガラガラガラと、ものすごい音を立てたのです。おそらく中にかかっているハンガーが、全部落ちた音でした。
これは大変だと、怖さをまぎらわせるために、全員お酒をガンガンに飲んで、すぐに布団に入り、電気をつけっぱなしにして寝ることにしました。
「うー、うー、うー」
誰かがうなされているような声で目が覚めて、ふっと首を横にして見ると、若手ふたりは爆睡状態。お酒の飲み過ぎで。
さらに首だけ起こして足元を見ると、苦しそうなその声はAさんでした。
ところが、なんとなくAさんの様子が変なのです。
信じてもらえないかもしれませんが、なんと、Aさんは布団ごと数センチ浮いているんですよ。
初めは布団の中でひざを立てているから、浮いているように見えたのかと思ったら、まったくそうではない。
布団ごとAさんが浮いてるんですよ!
もう、その瞬間、金縛り状態。
僕の体は完全に動けなくなっちゃって。
それでもあまりにもAさんが苦しそうにしているので、なんとかして助けなくちゃと、絶対に届くはずのないAさんの左腕を、必死になってつかもうとしました。すると、金縛りで動くはずのない体を、苦しいけれどもなんとか起こすことができ、届くはずのないAさんの腕をつかんだような感触を覚えたのです。
そのとき僕は、完全に自分の頭がどうにかなってしまったんだと思いました。すると、ストンと体の力が抜けて、おそらくそのまま失神してしまったのでしょう。
僕が思うに、金縛りにあってから、失神するまでは、すごく長く感じました。二〇分、いや、もっとかも。
でもこういう時の時間って、実はすごく短いもので、一分くらいなのかもしれない。
とにかく体に力が入って苦しくて、耐えてる時間が長かったなあ。
気づくと、若手のひとりの、
「金造さん、起きてくださいよ」
という声で目覚めたのです。
窓からもれる太陽の光がまぶしくって、この日は大晴天。大ドッピーカン。まさに海開き日和だなあと思いつつ、昨夜の二日酔いで体がまったくすっきりしない状態。
目をこすりながら布団から出て、部屋の窓の方に行って外を眺めていると、Aさんが僕のそばにササッと寄ってきて、耳元で若手ふたりに聞こえないように、
「金造さん、昨夜はどうもありがとうございました」
って言うのよ。
「何のこと?」
と、僕が尋ねると、
「腕、つかんでくれたでしょ」
(腕……?)
最初、なんのことかさっぱり理解できませんでした。
が、言われて一~二秒後、
「え?あの、君、昨夜の……」
僕は文章にならない言葉を返すと、
「お陰様で助かりました。海の方にどんどん引っぱられていく私の手を、金造さん、必死になってつかんでくれたでしょ。だから僕は助かったんです。本当にありがとうございました」
Aさんはそう言うと、イベント会場に向かうため、すぐに部屋を出てしまいました。
海岸には大きな舞台が設置され、露店がたくさん出ています。お客さんもいっぱい集まって大にぎわい。海開きのイベントは好調にスタートしました。
僕が舞台に立って話し始めて間もなくのこと。
観客が全員、
「うおーっ」
と、喚声をあげるのです。
初めは僕に向かって声をあげたのかと思いました。ところがそれは僕にではなく、僕の後ろで何か起こっている様子なのです。
だんだん僕の話を聞かなくなった観客たちひとりひとりの顔をよく見ると、僕の背後を指さしています。
そのまま進行しようとしたものの、気になって後ろを振り向いてみることに。
すると、真っ黒い雲が、
もくもくもくもく……!
と僕たちがいる海岸の方に迫って来るのです。
ついさっきまで大晴天、大ドッピーカン。着ているシャツが汗でべたつくくらいの暑さだったのに、瞬く間に空が真っ暗になって、気温がぐっと下がって雨が降り出しました。
そのうちものすごい風がぶわーっと吹いて、露店のテントがパタパタ、バタバタ、と言い出す始末。
初めは一過性のものだろうと、舞台の上で僕は話し続けましたが、とうとう立っていることもできなくなって、結局この日のイベントは中止となりました。
雨がやむのではと、一時待機をしていた時。
地元のスタッフのひとりが、
「海開きは毎年行われているイベントなのに、中止になったのは初めて。昨日の天気予報でも、雨なんて言わなかったのに……」
すると何を思ったのか、イベント会社のAさんが、
「あのぉ、つかぬことをお伺いしますが、海の事故ってあるんですかねぇ」
と、縁起でもないことを言い出すんですよ。
「それが大きな声じゃあまり言えないんですけど、けっこうあるんです。ここの海でも毎年何人か亡くなります。ただね、ここの海はすごく遠浅で、水死しても死体は必ず上がるんですよ。
ところが去年、五人グループで遊びに来ていた男性のひとりが、お酒を飲んだまま溺おぼれて亡くなってるんです。その人の死体だけがいまだに上がらない」
地元の人がそう話すと……。
もう言うまでもありません。
昨日の夜、僕とAさんが見たもの、そして奇妙な体験は彼のしわざだったに違いありません。きっと自分が死んだことに気づかずに、いまもなお泳ぎ続けているのです。
ただ、この世に生きている人を、寝ている間に引っぱってまきぞえにするのは、いけないことですよね。
助ける方は大変なんですから。
写真に写った手(東京都)
海開きのイベントからちょうど一ヵ月が経とうとしていたころ、僕がTBSの廊下を歩いていると、
「金造さーん」
と手を振りながら走って来る人がいる。
見覚えのある顔だなあと思ったら、イベント会社のAさん。
「なんでTBSにいるのよ?」
と尋ねると、
「いやぁ、仕事で。それより金造さんに見せたいものがあるんです」
と言って、Aさんはお財布を出し、その中から一枚の写真を僕に差し出したんです。見ると、Aさんがパーティーに参加して、水割りのグラスを持って誰かと話している、ごくごく普通の写真なんです。
「何、これ?」
と聞くと、
「ここんとこ、よく見てくださいよ」
と、Aさんの写真に写っている左手辺りを指しました。
そこには人間の、男の人の手が、はっきりと写っているんですよ。
手だけが!
「金造さん、あの晩のこと、覚えてないですか?金造さんが夜中、僕の手を引っ張って助けてくれたじゃないですか。この手は私が思うに、金造さんだと思うんです」
確かによく見れば僕の手かもしれない。その瞬間、Aさんの腕をしっかり握った感触がよみがえってしまい、写真を処分するようにAさんに伝えました。
Aさんは僕に会ったら必ず見せようと、いつも持ち歩いていたとのことでした。