数年前、今は東京都在住のケンさんが大学四年生だった頃の話だ。
ケンさんには同じ大学に通うタクミさんという仲の良い友達がいた。
ケンさんは実家住まいで東京で就職が決まっていたが、タクミさんは地元・群馬にUターン就職することになっていた。
卒業すれば、これまでのように会うことはできなくなるだろう。ならば、今のうちに二人でいろんなところに出かけて遊んでおきたい。
そう思ったケンさんは親に自動車を借り、タクミさんを誘って、ドライブに行くことにした。
その日は天気が良く、一月にしては暖かい日だった。
行き先は特に決めていなかった。都内を出発して、なんとなく東名高速道路を西へ走ることにした。
途中、二人は浜名湖サービスエリアで休憩をした。サービスエリアの奥には浜名湖を一望できる公園があり、そこで缶コーヒーを飲んで一服した。
ケンさんはベンチに腰掛けて浜名湖を見ているうちに、その周辺を観光してみたいと思い始めた。タクミさんにそう相談すると、「久々にうなぎが食いたい」との答えが返ってきた。それが決め手となって、次の三ヶ日インターチェンジで東名高速道路を降りることにした。
浜名湖に到着すると、二人は早速うな重を堪能たんのうした。ふっくらと脂が乗ったうなぎは、口の中でとろけるようだ。
その後、ロープウェイに乗って景色を楽しんだり、温泉街で足湯に浸かったり……。
「今度はカノジョと来たいよな」とケンさんが言うと、タクミさんも深く頷いた。ちょうどこの時期、二人とも付き合っている女性がいなかったのだ。
浜名湖周辺で遊んでいるうちに日が落ちた。
平日だったため観光客は少なく、夕方の湖畔には二人以外誰もいない。そう思っていた。ところがいつの間にか、水際に一人の女性が立っていた。
その女性は、ほっそりとした色白の美人で、どことなく寂しそうな雰囲気を身にまとっていた。隣を見るとタクミさんも、その女性をじっと見つめていた。
タクミさんは、女性に歩み寄ると唐突に声をかけた。そして、「一人で観光ですか?」とか「浜松の人ですか?」とか矢継ぎ早に、女性に質問をし始めた。
ケンさんは、恋愛には奥手なタクミさんが積極的に女性に話しかけていることに驚いた。
しかし、その女性はタクミさんの質問に頷く程度で、はっきりとは答えない。
さらに、タクミさんはケンさんに何の相談もなく「そろそろ帰るところだけど、良ければ送りましょうか?」と女性を誘った。
(出会ったばかりの男二人の車に乗る女性はいないだろう)とケンさんは思ったのだが、女性はこっくりと頷いたのだ。
女性の名前は「ナミ」と言った。いや、聞き取れないほど小さく「ナミ」とつぶやいたようだったので、ナミさんだと思った。
ナミさんは口数が極端に少なく、行先も「○○の近くへ」と、目印になるものを言うだけだった。
車中はタクミさんの独演会だった。助手席に座ったタクミさんが、後部座席のナミさんに延々と自分のことを語った。
ナミさんはと言うと、相変わらず物静かにタクミさんの話を聞いていた。
運転中のケンさんはそんなタクミさんを横目でちらちらと見ながら、「いつもはあまり話さないヤツなのに、急に人が変わってしまったかのようだ」と首をかしげた。
ナビが目的地付近への到着を告げ、ナミさんの「ここ」という言葉に従って、ケンさんは自動車を停めた。
ケンさんは「メールアドレスぐらい聞いたらどうだ」と言おうとして、助手席にいるタクミさんの方を見た。すると、タクミさんは窓ガラスに額をつけるようにして車外をじっと見ていた。
タクミさんが何を見ているのか気になったケンさんも、外に目を向けた。そして、「えっ?」と驚いた。
停まったところは、あるラブホテルの前だったのだ。
ナミさんは、黙って自動車を降りて、ラブホテルの方へ向かっていった。
ということは、男とのラブホテルでの待ち合わせのためにナミさんを送ってきたことになる。ケンさんは途端に馬鹿馬鹿しくなった。
それでもタクミさんは未練がましくナミさんの姿を目で追っていた。だが、突然「うわっ!」と声を上げた。
「どうしたんだ?」とケンさんが尋ねると、ナミさんがずぶ濡れだという。「そんなはずがない」とケンさんも振り返って確かめてみようとしたが、もうナミさんの姿はなかった。
タクミさんは確かに髪も服も濡れていたと言い続けた。
しかし、自動車から降りるまでナミさんは濡れてなどいなかった。
ケンさんには見間違いとしか思えなかったので、「もしかしたらナミさんは浜名湖で水死した女性の霊だったりして……」と冗談を言って、タクミさんを笑わせようとしたのだが……。
一目惚れからあっという間に失恋してしまったタクミさん。さっきまでとは打って変わって気落ちしてしまい、ケンさんは見ていて心が痛くなった。
言葉をかけづらい雰囲気の中、ケンさんはタクミさんを一人暮らしのアパートまで送った。そして、「明日は学食で会おう」と約束をしてケンさんは帰って行った。
翌日、ケンさんは学食で待っていたが、タクミさんは現れない。何度携帯電話に連絡しても出ないので、アパートを訪ねてみた。
タクミさんは熱を出して寝込んでいた。しかし、若い男性の大雑把おおざっぱな考えで、寝てれば治るとケンさんは思った。
だが、次の日になっても、タクミさんは良くなるどころか、いっそう悪くなって苦しそうにしているので、ケンさんは急いで病院に連れて行くことにした。
タクミさんは検査を受けてそのまま入院することになった。
医師からは原因が良く分からないと言われた。
タクミさんは、病室のベッドで眠り続けて時々目を覚ますと、なぜか「ナミが待ってる」とかすれた声で途切れ途切れに言った。
ケンさんは「ナミさんがどこで待ってるんだ?」と聞いたが、タクミさんは何も答えない。
その後、タクミさんは少しずつ回復してきたものの、何を聞いても、はっきりした答えが返ってこない。しかし、しきりに「ナミ、ナミ」と言う。
群馬から駆けつけた両親は、卒業式を待たずに地元の病院にタクミさんを移すことに決めた。
ケンさんはタクミさんが地元に帰る前に、もう一度ナミさんに会わせてあげたいと考えた。
そこで、ナミさんを自動車から降ろした場所へ、また行ってみることにした。ナミさんがラブホテルへ入っていくところを確認したわけではないから、あの近くに家があったのかもしれない。それらしい家がなくても、ラブホテルで聞いてみたら何か分かるのではないかと考えたのだ。
ケンさんは一人で東名高速道路を西へ向かった。ナビに履歴が残っていたので、ナミさんと別れた場所には難なく辿り着くことができた。
しかし、ラブホテルは見当たらなかった。いや、正確には、同じ場所に同じ名前のラブホテルの廃墟があった。ケンさんは訳が分からず、呆然ぼうぜんと立ち尽くした。
ラブホテルが数週間やそこらで朽ち果ててしまうはずがない。いったい、どういうことなのか。
ケンさんは廃墟周辺でナミさんを探し回ったが、手がかりを掴むことはできなかった。
両親と地元に帰ったタクミさんは次第に回復していった。しかし、内定していた就職は棒に振ってしまったそうだ。