【長編】温泉婆(静岡県東伊豆町) | コワイハナシ47

【長編】温泉婆(静岡県東伊豆町)

温泉婆その一 足湯

都内在住の静香さんには悩みが二つある。

一つは百貨店勤務で立ち仕事のため、常に足がむくんでつらいこと。

もう一つが、交際中の恋人からプロポーズされているものの、本当に将来の伴侶はんりょとして選んでいいのかどうか、気持ちが揺れていることだ。

百貨店の定休日、静香さんは一人で東伊豆町に日帰り旅行することにした。足のむくみを解消したい。そして、静かな環境の下、恋人からのプロポーズを受けるかどうか考えてみたい。そんな思いからだった。

海が一望できる露天風呂で恋人との将来に思いを巡らせたり、高温サウナで足のむくみを解消したり、ミストサウナでうるおいを充填じゅうてんしたりした。

そして昼食は落ち着いた雰囲気の客室で海鮮会席料理を堪能した。地魚のお造り、金目鯛の姿煮、あわびの踊り焼き。そして、お酒も少々。夕方には、ほろ酔い加減で旅館を後にした。

電車の時間までまだ間があったため、静香さんは温泉町をぶらぶらと歩くことにした。夜桜を眺めたり、ひやかしで、お土産物屋さんに入ったり……。

その途中、無料で誰でも浸かれる足湯を見つけた。静香さんは最後にもう一度、足湯に浸かっていこうと考えた。

平日で観光客も少なかったのか、そこには、お婆さんが一人だけいた。

「こんにちは。足湯、温かそうですね」と年配の女性客に慣れている静香さんは、お婆さんに声をかけた。

向かい合わせに座った静香さんは、お婆さんの淡い紫色に染めた髪やお洒落な服装から、都会からの観光客だと思ったそうだ。

静香さんの挨拶にお婆さんが「こんにちは。お一人なの?」と答えたことから、二人のおしゃべりが始まった。

静香さんは日帰り温泉旅行が楽しかったことを熱心に語り、お婆さんは温泉が大好きで、頻繁ひんぱんに伊豆の温泉地に出掛けていることを話した。

静香さんは、お婆さんが亡くなったお爺さんと六十年間連れ添ったと聞き、「結婚を決めようか迷っていて……」と、ぽろっと漏らしてしまった。

お婆さんは、一人よりも二人の方が何事も乗り越えやすいとか、お互いに頼るよりも協力し合うように心掛ければ家庭はうまく回っていくものだとアドバイスしてくれた。

優しく背中を押すような言葉の数々に、静香さんは結婚への不安が徐々に消えていったそうだ。

お婆さんの言葉で心がすっかり軽くなった静香さん。電車の時間が近づいたこともあり、「ありがとうございます。私はそろそろ行きますね」とお婆さんに別れを告げた。

しかし、お婆さんは黙ったままだ。お婆さんは静香さんが来る前から浸かっていた。なのに、先ほどよりも顔色が悪くなっているように見えた。

静香さんは心配になって「大丈夫ですか?」と尋ねた。

お婆さんはこっくりと頷いた。それを見た静香さんは安心してタオルで自分の足を拭き始めた。

そして、「また明日から立ちっぱなしだから、温泉で足のむくみが解消するのも、短い間だな」と思いながら、靴下を履いた。

すると、お婆さんは、まるで静香さんの心の声が聞こえたかのように「どうせ楽しい時も短いよ」と、さきほど楽しく話していた時とは別人のような、しゃがれた低い声で言った。

静香さんが驚いて手を止めると、お婆さんは重ねて言った。

「誰と一緒になったって、男はすぐに死んじまうよ。あんたの場合はね」

静香さんは、お婆さんの声や言葉のあまりの変わりように驚愕して、顔も上げられず、じっと動きを止めたままでいた。

その時、お湯に浸かっているお婆さんの足が目に入った。ゆらゆらと揺れるお湯のせいでよく見えないと思った。

だが、違った。お婆さんの足はお湯の揺らぎに合わせて、徐々に消えていったのだ。

静香さんは怖いもの見たさで、少しずつ顔を上げていった。すると、静香さんの視線が上がっていくのに合わせて、お婆さんの膝が消え、太ももが消え、お腹が消え、胸が消え、首が消えて……。

そして、最後にお婆さんの顔だけが残った。

宙に浮かんだお婆さんの顔が静香さんに向かって意地悪そうにニヤッと笑った。

その直後、お婆さんの顔はまるでお湯に揺らぐようにぐにゃりと崩れて、完全に消えていってしまった。

温泉婆その二 寝湯

転勤の多い夫と二人暮らしの敦子さんは、半年前から三島市に住んでいる。子どもたちも成人して独立したので、引っ越しを機にパートの仕事を辞め、専業主婦となった。自由な時間がたっぷりある敦子さんは、日帰り温泉施設に行くのが目下もっかの楽しみ。熱海、伊豆、富士、浜松と全域にわたって多数の温泉施設が存在する静岡県は、まるで天国のようだと敦子さんは語る。自ら自動車を運転し、全ての温泉施設を制覇しようと張り切っている。

雨がぱらつく日のことだった。敦子さんは一人、伊東市の日帰り温泉施設に出掛けた。平日なので来館者はまばらだった。特に雨の影響で露天風呂には誰も入っていなかった。

敦子さんは、施設内にいくつか存在する露天風呂の中でも、浅くお湯がぬるめの風呂に仰向けに寝そべって入る「寝湯」が気に入った。ここは、一人分ずつ寝そべることができるスペースに区切られていて、並んで数人が入れる。

敦子さんはその真ん中に陣取って、備え付けの枕に頭を乗せた。そして、時々落ちてくる雨粒を避けるため、タオルで顔を覆った。

寝湯で気持ちがほぐれてきた敦子さんは、将来のことを考え始めた。すでに五十代半ばを過ぎた敦子さんにとって、老後の暮らしも気になるところだが、それ以上に夫の一族と同じお墓に入ることが悩みの種だった。

近頃は「夫婦別墓」を望む女性も多いと聞く。あまり気の合わない夫の両親とは別々のお墓に入りたいと、どこかのお寺に自分の永代供養を頼めないか、考えていたのだ。

しばらくすると、隣に人が入ってきたようだ。顔にかけたタオルのせいで見えないが、お湯の揺れで分かった。

お隣さんは風呂に寝そべって落ち着くと、「良いお湯ですね」と声を掛けてきた。

敦子さんがタオルをちょっと持ち上げて隣を見ると、白髪を淡い紫色に染めた、上品な感じのお婆さんだった。

敦子さんが「気持ちの良いお風呂ですよね」と答えると、お婆さんは温泉巡りが楽しみで、元気なうちにたくさん行きたいのだと話し始めた。

自分と同じ趣味を持つお婆さんと敦子さんは意気投合。あちこちの温泉話に花が咲いた。

話が温泉から逸れて、お婆さんの亡くなった夫の話になった。六十年間連れ添って、看取った後は先祖代々のお墓に入った。「私が来るのを待ってくれているのよ」とお婆さんは言う。敦子さんはお婆さんが夫や親戚の人達と仲が良かったのだなと思った。

ふと敦子さんは「実は、私、夫とは一緒のお墓に入りたくないんです」とお婆さんに相談した。

すると、お婆さんは「お墓に魂はいないのだから、こだわることはないわよ」と言った。そして、「魂は自由だし、お墓は次の世代の人たちが扱いやすいように一つだけで良いのでは」などとアドバイスしてくれた。

その言葉に、敦子さんは肩の力が抜けた。「夫婦別墓」にこだわることはないのかもしれないと思い始めた。

そして、もしかすると、あの世も寝湯のように、ゆったりと温かいところかもしれないなと、穏やかな気持ちになったそうだ。

すると、突然お婆さんが、まるで敦子さんの心の中を覗いたかのように言った。

「そりゃあ、あんたが極楽に行けたらの話だよ……それじゃ、お先に」

先ほどとは打って変わったような、低いしゃがれ声だった。

敦子さんは驚いて、顔からタオルを外して隣を見た。しかし、お婆さんの姿はない。慌てて起き上がり、辺りを見回したが、それでもお婆さんの姿は見えなかった。

敦子さんは、せっかくのくつろいだ気分を取り戻そうと、もう一度寝湯で横になった。そして、お婆さんはいったいどこへ消えたのか、最後の言葉はどういう意味なのかと敦子さんは考えた。

その時いきなり、意地悪くニヤッと笑ったお婆さんの顔が現れ、敦子さんの顔の間近から逆さまに見下ろして言った。

「お先にね。地獄で待ってるよ」

その直後、お婆さんの顔はまるでお湯に揺らぐようにぐにゃりと崩れて、完全に消えていってしまった。

温泉婆その三 高温サウナ室

浜松市に住む会社員のさやかさんは、一日かけて自分を磨くため、有給休暇をとって市内の日帰り温泉施設にやってきた。

たっぷり温泉に浸かって、エステルームでフェイシャルのコースを受け、垢すりも予約した。ついでにネイルケアも頼もうかと考えている。

そんなさやかさんが一番気になっているのは、自身の太めの体型。そのため、今回の目玉となるのは、高温サウナで汗を流すことだ。一日だけのサウナ入浴でやせるとは思っていないのだが、たっぷり汗を流せばむくみが取れて、多少締まって見えるのではと期待している。

それほど自分磨きに一生懸命なのは、意中の男性がいるからだ。明日はその男性を含めた男女六人で、いちご狩りに出かける予定になっている。

いちご栽培では百年以上の歴史がある静岡県に生まれ育ったさやかさん。子どもの頃は、しょっちゅう、いちご狩りに出かけていた。しかし、社会人となってからは仕事で忙しくなり、すっかりご無沙汰。そのため、久しぶりのいちご狩りを楽しみにしていた。そして、それ以上に楽しみにしていたのが、意中の男性にまた会えることだった。

その男性がどんな女性が好みか、まだ分からないのだが、大半の男性はほっそりとしていて、スタイルの良い女性が好きなはずだと、さやかさんは思っていた。

さやかさんは高温サウナ室のドアを開けた。熱いところは苦手なのだが、十五分間は頑張るつもりだ。

中に入ると、熱気が顔に当たり、思わず息を止めた。熱くなっている床を爪先立ちで歩いて、木製のベンチに腰を下ろした。

止めていた息を吐き出すと、すぐに熱気が肺に流れ込んで、十五分持つだろうかと不安になった。

さやかさんの斜め向かいに一人、先客がいた。その女性は頭からタオルをかぶって顔は見えない。だが、小柄で整ったスタイルをしている。

さやかさんは、素直にうらやましいなと思った。自分もあのくらい華奢きゃしゃな肩、くっきりした鎖骨、くびれたウェストになれたら……。

さやかさんがため息をついた時、その女性はタオルを取り去った。すると、スタイルや肌の張りとは、およそアンバランスな高齢の女性が現れた。

白髪を淡い紫色に染めていて、上品な雰囲気はあるのだが、どう見てもお婆さんと呼ぶのにふさわしい年齢に見えた。

さやかさんはそのギャップに驚いて、年をとってもきれいな体を保っている人もいるのだなと、しみじみ眺めてしまった。

すると、さやかさんの視線に気づいたお婆さんが、「何か?」と問いかけてきた。

さやかさんは、じろじろ見ていたことがとがめられたと思って、

「お年のわりに抜群なスタイルなので、つい……あっ! すいません。お年のわりに、なんて……」

と、うろたえて失礼なことを言ってしまった。さやかさんの体から、どっと汗が噴き出してきた。

お婆さんは上品に微笑んで「いくつになっても褒められるのはうれしいわ」と言った。

お婆さんの優しそうな雰囲気にホッとして、さやかさんは思わず「太っているのを気にしているものだから……」とつぶやいた。

その言葉を聞き逃さなかったお婆さんは「若くてきれいなのだから気にしないこと」と言ってくれたのだが、さやかさんは「意中の男性も細くてスタイルの良い女性が好きなはず」と力なく打ち明けた。

お婆さんはさやかさんを勇気づけるように、自分の話をしてくれた。

お婆さんも若い頃は太っていた。そして、そんな自分の体型にコンプレックスを感じていた。

だが、亡くなった夫からは「妻がやせていると貧乏に見えるから、そのままでいてくれ」と言われたそうだ。

お婆さんはそういうものかと納得した。

しかし、それから数年経って、一緒にテレビを見ていた義妹がふと「兄は女優の〇〇さんが理想の女性って言ってたわね」ともらした。

その女優さんは、ほっそりした女性だった。そのため、夫は太めであることを気にする自分を気遣ってくれたのだとお婆さんは思った。

それから十年余りが過ぎ、夫は好みの女優さんのほっそりした体型が好きなのではなく、はっきりした物言いが好きなのだということを知った。夫は見かけよりも内面を重視していたのだ。

そんな夫と連れ添うことができて、本当に良かったとお婆さんは思ったという。

「あらっ、のろけちゃったわね」

お婆さんは茶目っ気たっぷりに言って、また上品な笑いを浮かべた。そして、「外見だけで好みを決める人ばかりではない。自分が自信を持ってできることを、もっと磨いた方が魅力的な女性になる」と言った。

さやかさんは、なるほどと納得できた。アピールするポイントを取り違えていたのかもしれない。

気が付くと、目標の十五分をとっくに過ぎていた。お婆さんの話に聞き入っていたのだ。

さやかさんは大量の汗をかいて、身体だけでなく気持ちまで引き締まったような気がした。

さやかさんは、「素敵なお話、ありがとうございました。お先に失礼します」と丁寧に言って立ち上がると、ちょっとふらついた。長く居過ぎたようだ。

そして、サウナ室のドアに手をかけたとき、背後から声が聞こえた。

「だけど、あんたの意中の人は見た目第一だよ。気の毒にねえ。ほっそりした女しか好きじゃないってさ」

聞いたこともない低いしゃがれ声に驚いて、さやかさんは振り返った。

するとお婆さんが先ほどとは正反対の意地悪そうな顔つきで立っていた。そして手に持っていた手桶の水を、サウナストーンにザバッと掛けた。

大量の湯気が一気に上がる。

お婆さんは、自分の体にも水を掛けたかと思うと、「ふぇっふぇっふぇ」と下品な笑いを響かせながら、白い湯気となって消えてしまった。

目を見開いたさやかさんは、悲鳴も上げられず、やっとの思いで重たいサウナ室のドアを押し開けた。

一歩外へ出ると遠くに見えた温泉のスタッフに何かを叫ぼうとした。だが、膝から床に崩れ落ちて行った。さやかさんは目を閉じる瞬間に思った。

「完全にのぼせた……」

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