東北の片田舎で生まれ育った美加さんは、上京して既に十数年経過している。
そこまで経つと、顔と名前が一致しない旧友も結構多くなってしまう。
その中にあっても、彼女には忘れたくても忘れられない友人が一人いた。
未だに脳裏に焼き付いて離れない中学生時代の話を、彼女は語り始めた。
その少女は当時、皆に「カスコ」と呼ばれていた。
本当の名前は和子だったが、いつしか同級生や上級生のみならず、下級生からもそう呼び蔑さげすまれた。
和子さんはとりわけ目立つようなタイプではなかったが、誰にでも笑顔で接する少女であった。
ご両親に溢れんばかりの愛情を注がれて育ったのであろう。
和子さんは誰彼の区別なく、その笑顔を振りまきながら優しく接していた。
長く美しい黒髪に、すらっとした体型。
勉強もよくできるし、校内では彼女の美貌に敵う女子なぞいないと美加さんは常日頃思っていた。
周囲に苛められていた生徒にも、躊躇なく優しく声を掛ける。
中履きを隠されて困っている生徒には、優しい手を差し伸べる。
彼女と仲が良くいつも一緒にいた美加さんは、そんな彼女に憧れの念すら感じていた。
彼女に倣ならおうとして、困っている生徒がいたら声を掛けようと思うのではあるが、いつも和子さんに先を越されてしまう。
美加さんの引っ込み思案な性格を見越した、彼女なりの気配りだったかもしれない。
「かずちゃんって、何でそんなに優しいの?」
そのような疑問をぶつけたことが一度あったが、和子さんは頭を振りながらこう答えた。
「だって、自分が同じような目に遭ったら嫌じゃない?」
だから、決して優しいわけじゃないの、と和子さんは言った。
そのようなことを思いもしなかった美加さんは、ただただ尊敬の眼差しで彼女を見つめるほかなかった。
しかし、そのことが妙に気に障った人物がいたのであろう。
その人物の鶴の一声で、和子さんにとって酷薄な中学校生活が決められてしまった。
とかく人間はやたらと階級を作りたがるが、良くも悪くもその性質は子供の頃から発揮されている。
精神的に未成熟な状態で組織に属しているわけであるから、その残酷さは言語に絶する状況であった。
和子さんに対する周囲の変化は、美加さんにとって何の兆しもなく唐突に始まった。
「なんか、くせえな!」
自習時間、和子さんの隣席の男子がいきなりそう叫んだ。
「うっ、うわっっっっ!くせえっっっっ!」
周りの席に座っている男女達が、一斉に席ごと和子さんから離れた。
「なっ、くっせーよな。カスみたいな臭いがするっっっっっ!」
もちろん、和子さんは自分の身に何が起きたのか一向に理解できない。
ただ、いつもの笑顔は消え失せ、狼狽えた表情を周りに見せるだけであった。
和子さんから離れた席に座っている美加さんは、流石に我慢ができなくなった。
急いで席から立ち上がって和子さんを庇おうとしたところ、隣席の男子が彼女の手を引いてそれを止めた。
「やめろ!お前もやられっぞ!」
小声でそう呟く男子の表情に鬼気迫る何かを感じ取って、彼女はやむなく席に着いた。
隣の教室の騒動を聞きつけた男性教諭が、ずかずかと教室に入るなり大声を張り上げた。
「何してんだ!自習だろ、お前ら!」
騒乱の教室内はその声で一斉に静まり返ったが、和子さんの席は周囲から隔離されたかのように孤立していた。
隣席の生徒達は彼女から離した席を戻そうともしなかったため、微妙な空間ができあがっている。
その状況に男性教諭は何らかの異変を感じ取ったらしく一瞥をくれたが、そのまま目を背けると隣の教室へと戻っていった。
いつもとは明らかに異なる境遇に置かれた和子さんは、涙目になって隣に小声で話し掛けている。
「あの、何かあったの?」
「私、何か悪いことしたの?」
「何でこんなことになったの?」
だが、彼女の問いかけに答える者はいない。
誰もが嫌な表情を露骨に見せつけ、彼女以外の誰かに向かって小声で話し掛け、そして嗤った。
昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り渡ると、和子さんと周囲の隔たりはより一層明白になった。
平素は、各自持ち寄った弁当を片手に、お気に入りの仲間内で机を移動させて昼食を摂っている。
和子さんは美加さんとその他数名と一緒になって食べるのが常だった。
だが、この日を境にその状況は一変してしまう。
近寄る者は誰もおらず、彼女を覆う雰囲気が普段とは明らかに違う。
彼女もその空気を甘受しているらしく、他の誰かに近付こうともしない。
美加さんは和子さんと一緒に昼食を食べようと思ったが、周りの女子達が必死になってそれを止めた。
「あの人には近付かないほうがいいって」
「もう終わりだよ、あの人」
そんな酷い言葉を小声で囁かれ、美加さんは力なく席に座った。
和子さんに視線を向けると、今にも溢れ出しそうな涙で一杯になった瞳を向けて、捨て犬のような表情でこちらを見つめていた。
「……かずちゃん、一体何があったの?」
下校のとき、教室から逃げるように帰ってしまった和子さんに、美加さんはそう訊ねた。
帰る方向が同じだったため、走って漸く追い付いたのである。
和子さんは歩みを止めるでもなく、前方をまっすぐ見つめながら歩いている。
「……知らない。分からない。でも、もういいの」
美加さんの視線には目を合わせようともせず、蚊の鳴くような小声で呟いた。
「私、みんなにお願いしてみようか?もうこんなことやめてって……」
美加さんの言葉が終わらないうちに、今までに見せたことがないような鬼気迫る表情で和子さんが彼女を睨み付けた。
「やめな!ミカも同じ目にあっちゃうよ!」
鋭くそう言われ、美加さんは言葉に詰まってしまった。
こんな恐ろしい表情をする和子さんを、美加さんは初めて見た。
でも、何だろうか。何かがおかしい。
和子さんの背後に、ほんの一瞬だけ見知らぬ女子が見えたような気がしたのだ。
美加さんは目を瞬いて、彼女の背後をじっと見つめてみた。
確かに、いる。決して気のせいなんかではなかった。
自分達と同じ制服を着た見知らぬ女子が、和子さんの背後にピッタリと張り付き、身体をほぼ重ね合わせている。
歩いている彼女に重なっている間はほとんど気付かないのだが、たまにその身体が後方にぶれることがあるようだ。
そのときにのみ、朧気ながらその姿を確認することができる。
このような理解し難い存在を目の当たりにしたことは今までなかったため、美加さんはどういった態度を取ればいいのか分からなかった。
怖いことは怖かったが、今はそれどころではない。
暫くの間、無言の時が流れ続け、二人はそのまま歩き続ける。
実際は十数分であるが、数時間にも感じられるほど長い時間が過ぎて、二人は和子さんの自宅の前まで辿り着いた。
美加さんの自宅は、ここから更に五分程度歩いた所にある。
「……今までありがとう、ね」
覇気の失われた声色で、和子さんが言った。
彼女の背後に、例の女の子の姿が垣間見える。
でも、今は正直言ってどうでも良かった。
何とかして、和子さんの力になってあげなければ。
「かずちゃん、ねえ。私、みんなに……」
そう言う美加さんの言葉を遮るように、彼女は頭を振った。
「好きの反対はねえ、嫌いじゃないんだよ、ミカ。無関心なんだよ」
私のことが嫌いなだけだったら何とかなるけど、無視されるようではもはや為す術がない。
彼女はそう言いたげに美加さんの瞳を覗き込むと、そのまま玄関へと向かっていく。
彼女が家の中に消える間際、背後にいた女子が一瞬だけこちらを振り返ったような気がした。
しかし美加さんは、友人の消えた扉を呆然と見つめるほかなかった。
それからの和子さんは、人が変わったようになってしまった。
いつもの笑顔はとうに消え失せ、暗い眼差しをした無表情な少女になってしまった。
彼女に話し掛けるような人はクラスには誰もいなくなってしまい、遂には校内中に飛び火していた。
「うわっ、何かくせえな!」
「うん、カスくさい!」
見たこともない下級生や上級生が、彼女とすれ違う度に露骨に嫌な態度を見せるようになっていった。
毎日のように生徒の顔を見ている担任は、当然の如く彼女の置かれている状況が分かっていたはずである。
しかしながら、彼が対処したことといえば、クラスでこう発言しただけである。
「いいか!この中で仲間外れになっている生徒がいるらしいけど、そんなことはするなよ!」
あまりにも、稚ち拙せつな愚行であると言わざるを得ない。
当然のように、この担任の心ない一言で、彼女への陰湿な苛めはエスカレートしていくことになる。
彼女を無視する行為はそのままであったが、今度はすれ違いざまに蹴りを入れていく生徒が多くなっていった。
和子さんが以前に優しい手を差し伸べた人達でさえ、自分の意志かどうかは分からないが、彼女を躊躇なく足蹴にするようになった。
あるときは、何者かが彼女の筆箱や外履きをトイレの便器に投げ捨てられていた。
そして、それもまた更に、皆が彼女を蔑む理由になった。
それでも美加さんは隙を見つけては和子さんに優しく接しようと試みたが、もはや彼女のほうから美加さんを拒絶するようになっていた。
和子さんの表情は重く険しくなり、あんなに輝いていた黒髪も艶を失い、いつしか白髪すら交じり始めていた。
そんな彼女が学校を休みがちになってしまったことは、至極当然のことであろう。
しかし彼女の心配をする者は、クラス内に美加さんを除いて誰一人としていなかったように思われる。
美加さんは学校帰りに和子さんの自宅に寄ることが多くなったが、彼女に会うことはできなかった。
強張った表情で応対する彼女の母親が、決して彼女に取り次ごうとしなかったのだ。
幾度となく電話を掛けたが、それすらも同様であった。
美加さんは次第に落ち込むようになっていき、自分の無力さに腹が立って仕方がなかった。
しかし、どの時点でどのような行動を取れば良かったのだろうか。
幾ら考えても答えは見つからず、たとえ見つかったとしても、とうにその状況は過ぎ去っているに違いない。美加さんにはどうすることもできなかった。
和子さんが学校に登校しなくなって数カ月が過ぎたある晩のこと。
美加さんが一階の自室で寝ていると、妙な物音で目が覚めた。
コツンコツンと、何か硬い物が壁にぶつかるような音である。
驚いた彼女はカーテンを開け放ち、窓の外を窺った。
すると、可愛らしいピンク色のパジャマを着た和子さんが、窓ガラス越しに立っているではないか。
そして何事か言いたげな視線を美加さんに向け、盛んに唇を動かしていた。
常夜灯に照らされた彼女の黒髪は、妖しく光を反射している。
靴先で壁を軽く蹴っているらしく、幾度となくコツンといった音を立てている。
美加さんは慌てて窓を開けた。
あんな目に遭っているにも拘わらず、やはり和子さんは美加さんを信頼しているのであろう。
実際美加さんは彼女が訪ねてきてくれたことが、ただただ嬉しかった。
「かずちゃん!どうしたの?」
美加さんが慌てて話し掛けると、とっくに失われたと思っていた懐かしい笑顔を見せながら、和子さんは言った。
艶を失い白髪が目立っていた黒髪も、その美しさを取り戻している。
毒気のない生活を送り続けた結果、すっかり体調が良くなったのであろう。
「……もう平気。明日から、ね。大丈夫だから」
彼女はそう言うと、バイバイとばかりに右手を美加さんに振ってみせた。
「……えっ、そ、そう?明日から学校来れるの?」
喜んだ美加さんが和子さんの右肩に軽く触れると、彼女の身体がふらりと横に揺れた。
「あっ……」
驚きのあまり、思わず声を上げてしまった。
和子さんの身体から抜け出すように、白髪交じりの険しい表情をした女の子がほんの一瞬だけ顔を覗かせた。
もしかしたら。不吉な考えが美加さんの頭を過ぎる。
今、目の前で笑顔を見せている人物は、和子さんではないような気がする。
そして、一瞬だけ姿を見せた白髪交じりの人が、和子さんのような気がしてならない。
信じられないことではあるが、あながち否定もできないのではないか。
彼女は自分の考えに囚われて、目の前に立ち尽くす女の子をじっと見つめた。
姿形はもちろん、弾むような声質も以前の彼女そっくりである。
けれど、その身体からぶれたときだけ姿を現す、陰鬱な表情をした女の子。以前の和子さんとは似ても似つかない、その暗く険しい表情と眼差しを持った人こそ、本当の和子さんなのではないのか。
そんな考えが美加さんの脳裏をぐるぐると巡った。
そうなると、目の前に立っている人物は誰なのか。
もはや和子さんとは呼べない代物ではないのか。
先日見た、和子さんの背後に張り付く女。彼女の身体はあの女に取り憑かれ、そして乗っ取られてしまったのではないのだろうか。
目前に立つ女の子が無性に恐ろしくなって、美加さんはどうしようもない身体の震えを抑えきれなかった。
「……じゃあね。明日」
何事かを悟ったのか、和子さんは唐突に踵を返して去っていった。
翌朝、登校すると教室中が騒ぎになっていた。
話を訊くと、和子さんが亡くなった──という。
昨日の深夜から未明にかけて、父親の運転する乗用車に乗っていた和子さんは、家族もろとも交通事故に遭った。
走行中にいきなり対向車線に入ってしまい、大型のダンプカーと衝突したらしい。
本当か嘘かは分からないが、クラスはその話題で持ちきりになっていた。
美加さんは、突然の訃報の噂を信じることなど到底できなかった。肯定も否定もできず狼狽えていると、重苦しい表情をした担任が教室に入ってきた。
そして静まり返った教室に向けて、言葉少なに和子さんの死を告げた。
担任が教室を去るや否や、辺りは再び騒然となった。
彼女とそのご両親の死について、夢中になって話しているクラスの連中を見ているうちに、美加さんは吐き気を催した。
一体、何なのだろうか。この人達は。
かずちゃんが生きているときは徹底的に無視して話題にもしなかったくせに、死んでからやっと話題にするなんて。
美加さんの身体が怒りで張り裂けそうになったとき、いきなり教室内に奇声が響き渡った。
「っっっっきょっっっきょっっっきょっっっ!」
クラス内の女子でリーダー格だった阿部さんが、床に倒れてのたうち回っていた。
全身を小刻みに痙攣させて、口角泡を飛ばしながら耳を劈つんざくほどの奇声を発している。
辺り構わず繰り出される両手足は机や人を攻撃し続け、一心不乱に暴れている。
「おいおい!どうした!」
騒ぎを聞きつけた教諭達が慌てて数人駆け付け、彼女を取り押さえると、そのまま教室の外に運び去っていった。
先刻までの和子さん一家の死についての噂話は何処へ行ったのやら、教室内の興味はは瞬く間に阿部さんの話題で持ちきりになってしまった。
翌日、阿部さんは何事もなかったかのように登校した。
しかし、それまでの自信満々な表情や言動は何処かへ消え失せ、どことなく不安そうな態度に変わっていた。
そしていつしか、今度は彼女が苛めのターゲットになっていった。
やはり無視から始まり、次第に暴力が加わっていくのは和子さんのときと同様である。
美加さんが見る限り、先陣を切って苛めているのは、阿部さんの次に力を持っていた黒木さんである。
自分より下の階級と思われる女子達に、影であれこれ命令しているように見受けられたからだ。
もしかして、和子さんもこのような形で苛め抜かれたのかもしれない。
和子さんがいなくなると、次は阿部さん、か。
この連中は誰かを苛めていないと気が済まないのであろうか。
やり場のない怒りに弾け飛びそうな感覚に襲われた美加さんは、このまま早退しようと思って帰り支度を始めた。
何なんだろうか、この連中は。
もう、こんな奴らと一緒にいたくない。
「……ミカ。駄目だよ」
鞄を手に取ろうとしたとき、何処からともなく声が聞こえてきた。
不審に思った美加さんが視線をあちこちに向けると、ある一点で釘付けになった。
黒木さんの背後に、懐かしい人影を見つけた。
和子さん、であった。
艶を失った黒髪に幾筋か白髪が交じっており、苛められ続けた結果、深い皺が眉間に刻み込まれている。
しかし、陰鬱な表情をしながらもどことなく妙に惹かれる笑顔を浮かべて、黒木さんの背後にピッタリと張り付いている。
その朧気な身体は美加さんにしか視えていないようで、他の皆は全く気付いていない。
〈ええっ!どういうこと?〉
思考を右往左往させているうちに、和子さんらしき朧気な顔がぐにゃりと歪んだ。
そして苛められている阿部さんのほうを向くと、口角を耳の辺りまで鋭角に切れ込ませながら、嗤った。
それを目撃した途端、美加さんは強烈な頭痛に見舞われてしまった。
頭の中で銅ど鑼らが鳴り響くような感覚とともに、そのまま意識を失った。
病院で様々な検査をされたが、何ら異常は見当たらなかった。
そして教室で倒れてから五日後に、美加さんは登校した。
心配そうに声を掛けてくるクラスメートは後を絶たなかった。けれど、彼女はぎこちない作り笑いを浮かべながら、大丈夫と応えるに留めた。
かずちゃんを死に追いやった連中を、絶対に許すことはできない。
少なくとも、美加さんは彼女を救おうとしたことだけは確かだった。
クラスでは阿部さんが相も変わらず苛められているようで、一人席上で暗く沈んでいる。
それを影で扇動する黒木さんの背後には、般はん若にゃの顔をした和子さんがいた。
彼女はその朧気な姿を黒木さんにピッタリと重ねていた。
「結局、ウチのクラスでは苛めはなくなりませんでした」
阿部さんが登校しなくなると、次は黒木さんが苛めのターゲットにされてしまったらしい。
苛める側の主導者の背後には必ず朧気な和子さんが重なっており、寒気すら感じられる笑顔を時折見せていた。
そしてそのような連鎖が幾度か続いた後、美加さんはそんな残酷な光景から漸く解放された。
中学校を卒業して、高校へ進学したのである。
地元の高校へ行くのだけはどうしても嫌だった彼女は頑張って勉強し、県外の進学校へ行くことに成功した。
「実際、かずちゃんの死には私にも責任があると思うんです」
最初の段階で私さえしっかりしていれば、あんなことにはならなかったはずだ。
その後悔は未だに彼女の脳裏に刻み込まれて、決して消え去らない。
そして、主導者の後ろに張り付いている女。アレは絶対に、和子さんなんかじゃない。
美加さんは、頑なにそう信じている。
彼女は今でも、和子さんの命日には帰省することにしている。
目映いばかりの笑みを浮かべるのが常だった、親友を偲しのんで。