見えざる意思(山梨県) | コワイハナシ47

見えざる意思(山梨県)

山梨県に住む会社員Fさんの話である。

五年前の冬の朝、Fさんは東京の本社へ出張するため、身支度を整えていた。

鞄に必要な書類を入れ、クローゼットを開く。クリーニングの袋に入ったままのワイシャツとスーツをベッドのうえに広げる。

「仕事柄スーツは着ないのですが、本社出張のときはさすがに──」

ふと、ベッドサイドの写真立てに眼がいく。浴衣姿の妻の写真。乳がんを患い、妻は半年前に亡くなっていた。生前、まだ動けるときにシャツとスーツを一式、近所のクリーニング店に出しておいてくれたのだった。彼はそのことを知らずにいたので、数日前に長期間預かっていると電話があり、慌ててクリーニング店に受け取りに行ったのである。

時計は七時二十五分を指している。会議は十時からなので、七時半には出ないといけない。

急いで着替えをしようと、クリーニングの袋を破ったときだった。

タグに留まったホチキスの針が、曲がらずに伸びていた。そのため、左手の人差し指の腹に針が深く刺さった。慌てて抜くと、シャツに血が付いた。右手で止血しながら絆創膏を探すが、薬箱の場所がわからない。そういうことは妻に任せっきりだった。そうこうする間に七時二十八分になろうとしている。こんなことをしていたら遅刻してしまう。

傷口にティッシュペーパーを当て、近くにあったガムテープを短く切った。それを強く指に巻く。応急処置だ。絆ばん創そう膏こうはドラッグストアかどこかで買えばいい。

シャツを手に取ると急いでキッチンへ向かい、血で汚れた部分に水を掛けて擦る。わからないぐらい薄くなると、濡れた部分にタオルを当てて水気を切った。

時計を見ると、七時三十一分。これはまずいと着替えもそこそこに、車に飛び乗った。

通勤ラッシュとあり道路は混んでいたが、インターチェンジから高速道路に乗ると空いていた。順調に飛ばしていく。

もうすぐ八王子だ。急げば間に合うだろう、と思った、そのときだった。

トンネルに差し掛かる手前で、前を走る車が急ブレーキを掛けた。なんとか追突は免れたが、少しブレーキを踏むのが遅ければ、もろに突っ込んでいたかもしれない。

見ると、三台前の車から停まっているようだった。

──おいおい、なんだよ。こっちは急いでんだ……。

すると、トンネルの入り口から蒸気のような煙が出てきた。なんだろうと見ていると、ただならない量の白煙が噴き出してくる。事故か。しかも多重衝突かなにかだろうか。

いつしか煙は黒煙に変わり、一向に止むことがない。しばらくすると車が数台、バックしながらトンネルから出てきた。口を押さえながら路肩を歩いて出てくるひともいる。

「なにが起こったのか、そのときはわかりませんでした。天井が崩落したのは後で知ったことですから。あのときはもうみんなパニックで、なにがなにやらという感じで。ご存知でしょう、三台の車が押し潰されて、九人もの方が亡くなった、あの事故のことを。忘れもしません、二〇一二年十二月二日、午前八時五分のことでした」

ええ、もちろんです、と私は答えた。実をいうと、私自身その前日に事故のあったトンネルを利用していた。天井崩落の第一報をテレビで知ったとき、しばらく震えが止まらなかったのを憶えている。いまだかつて味わったことのない衝撃だった。もし一日ずれていたら、自分も事故に巻き込まれていたかもしれない、と──。

「私が停まったのは、トンネルのほんの数十メートル手前でした。もうあと一分、いや三十秒、いいえ、十秒早く家を出ていたら、トンネルのなかにいたはずなんです。あのとき、怪我をしていなければ、絆創膏を探していなければ、妻がクリーニングに出していなければ、私は死んでいたかもしれません」

なにか妻の意思のようなものを感じるんです。

そういうと、ポケットから皺っぽいハンカチを取り出し、Fさんは額の汗を拭いた。

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