〜元寇に纏わる話〜 福岡市博多区
東公園での出来事から数日後、セイメイさんに古くからの友人である浦山さんから電話がかかってきた。
浦山さんは某歴史ある神社の息子で、昔から不思議な力を持っている男だった。
「お前最近酷い目にあってないか?」
「ん? あぁ、東公園でホームレスの集団に襲われたりして大変やったよ。でも、何でお前それ分かるん?」
「それ、ただの襲撃事件やないぞ。お前の身に起こったことに意味がある。「ちよのまつばら」。この名前が頭に浮かぶ。もう1つも同じ力が働いとうはず」
「生の松原でも変なことあったけど、あれもそうなん?」
「うん。あとは自分自身で調べてみることやな」
そう言って電話は切れた。
気になったセイメイさんは、昼の明るい時間に東公園を訪れ調べてみることにした。
先日来た時には気づかなかったのだが、実は、東公園は元寇と密接なかかわりのある公園であった。
元寇、すなわち蒙古襲来とは、鎌倉時代だった日本を、当時ヨーロッパ、アジアにまたがる大帝国を建国していた蒙古(モンゴル)が、文永、弘安の2回にわたって、大軍を発し一気に併合しようとした侵略戦争である。
大強国の侵略を受けた日本にとっては、国運を賭けた防衛戦であったが、敢然かんぜんと抵抗したおかげで、蒙古の野望を打ち砕くことに成功した。
対馬、壱岐両島から肥前の沿岸の島々を攻略し、博多湾の侵入してきた蒙古軍、現在の福岡市街は日蒙両軍の乱戦の地と化したのだった。
その争いの中で、生の松原と東公園は激戦区となった土地であったのだが、東公園はかつて『ちよのまつばら』と呼ばれていた。
東公園に隣接している元寇資料館に入ってそれらのことを学んだセイメイさんは、こんな平穏な地が、かつての激戦区だったことに驚きを隠せなかったそうだ。
そして、バンドの練習をしていた場所の直ぐ傍にあった像は、亀山上皇銅像というもので、13世紀後半の元軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元冠に緑あるこの地に建立されたものだ。
さらに、元寇資料館に展示してあった当時の装備を見て唖然とした。
そこに展示されている滴型の兜や、汚い布切れのような装備は、生の松原でカナミさんが見たという『侍みたいな』ものと、セイメイさん達が先日の演奏中に襲われたホームレスのような集団が着ていたものと合致するものだった。
(じゃあ俺らが襲われたのって蒙古兵の怨霊?)
背筋に冷たいものが走ったそうだが、では、浦山さんが言っていた『お前の身に起こったことに意味がある』とはどういうことなのか。
それ以降、この件に関係するような出来事は起こらず、長い年月が流れたのだが、2017年に入ってイベントで私と出会い、この話を聞かせてもらうことができた。
私自身も、元寇に関して学校教育で習う程度の知識しか持ち合わせていなかったため、この機会に資料を漁ってみたのだが、調べるにつれてこの戦が日蒙両軍にとって凄惨を極めたものだという事が分かってきた。
一般的に我々が元寇を語る場合は、あくまでも日本側に立ってからの視点が多く、こちらにどれだけ多くの被害があり、どのようにして勝ったかという事ばかりが話題になるだろう。
しかしながら、遠路はるばるやってきた挙句に、慣れぬ日本の気候や波風、疫病に悩まされ、挙句の果てにそのほとんどの船は座礁し、生き残った者も首を切り落とされ処刑された蒙古兵の恨み辛みは相当なものだっただろう。
福岡各地には元寇供養の碑が建っているが、彼らの魂に安らぎが訪れるのはまだ先のことかもしれない。
その思いを本書にて少しでも代弁することが、浦山さんがセイメイさんに言った『お前の身に起こったことに意味がある』ということなのではないだろうか。
700年以上前の戦で散った兵たちの魂に安らぎが訪れることをお祈りします。