エレベーターが怖い(東京都新宿区) | コワイハナシ47

エレベーターが怖い(東京都新宿区)

エレベーターが怖いと思ったことはありませんか?

僕は怖いんです。

新宿の高層ビルの中にある会社に勤めて八年余り。そんなどこにでもいる平凡なサラリーマンの体験談を聞いてからのことです。その彼はあの日以来、二九階にあるこのオフィスへの行き帰りは、階段を利用している毎日だというのです。

それでは、彼に聞いた話を再現してみることにしましょう。

――おかげで二九階まで上がるのに三〇分近くかかるため、通勤はいつもより時間がかかるようになってしまいました。

でも、三〇分早く起きても、エレベーターには乗りたくありません。

あれは、今から一ヵ月ほど前の朝の出来事。

三〇〇〇人余りのサラリーマンやOLがこのビルでは働いているので、午前九時前後のエレベーター前は順番待ちの人が並ぶほどなんです。その日の朝も一〇〇人以上の人が二〇階以上の高層階行きのエレベーターを待っていました。

実はその日、私は一〇分ほど寝坊したため、いつも乗る時間帯より遅れて並んでいました。会社に遅刻するかも知れないので、少し焦りながら。

約三分後、ドアが開き、私を含めて約三〇人ほどの人が乗り込みました。

(なんとか始業時間に間に合うかも知れない。でも、各階で止まられるとアウトだな)

と私は腕時計を見ました。

急いでいる時に、チンタラチンタラ途中階で止まるエレベーターほど、イライラするものはありません。

私は一緒に乗り込んだ人たちの顔を見回しました。

朝のラッシュでエレベーターに乗る顔ぶれは、だいたい決まっています。

(あの人は二五階で降りる、あのOLは二七階だ)

と当たりがつきますので、時間が読めます。

ところが、ちょっと時間が違っただけなのに、私が乗ったエレベーターには見知った顔の人はひとりもいません。

(さて、どうなるか?遅れて上司に嫌味を言われても仕方ないか)

とまあ、半分腹をくくりました。

それにしても、朝のエレベーターってのはいつもギュウギュウ詰めで大変なんです。まるで山の手線の朝のラッシュ状態。

二〇階で降りる人が奥の方に入ってしまうと、

「すいませーん、降りま~す!」

と叫ばないと、降りるタイミングを外してしまいます。

それと、おばさん!四〇歳過ぎのおばさんが前にいると、必ず大声で、

「ちょっと、へんな所、触らないで!」

とわめきます。

(冗談じゃない、バカも休み休みに言え)

と言いたくなりますが、グッと我慢、我慢。

私がいつも乗る時間帯には、このおばさんOLがひとりいるんです。

そこで、あのおばさんが乗り込むと、その周り三〇センチぐらい、ぽっかり空間が出来たようになり、みんな近づけない。おかげで他の人は狭いエレベーターの空間に押し込められ、ますます窮屈になり、酸欠を起こしそうになります。

あの朝は、遅れたとはいっても、幸い例のおばさんはいませんでした。だから、それほど息苦しいということはありませんでした。

まず、二〇階で数人が降り、少し詰め合って乗り込んでいるという気持ちは薄れました。

そして、二三階になると、さあっと潮が引くように、全員が降りたんです。

(へえ、不思議なことがあるもんだな。八年間通い詰めて、朝のラッシュアワーで自分ひとりになってエレベーターに乗るなんて初めてだ)

と私は思いました。

昇降階のボタンを見れば、私が降りる二九階の明かりがついているだけ。

(やれやれ、どうやら遅刻するようなことはないな。ラッキー!)

と私は指を鳴らしました。

ところが、スタートしてすぐ、ガタガタと横揺れしたかと思うと、次の二四階でエレベーターが止まったんです。

(あれ、こんな朝早く、上の階に行く人がいる)

通勤時間帯は一階で乗り込む人が会社のある目的階で降りるだけで、途中階で上に行ったり、下に降りたりすることはほとんどありません。

不思議なことがあると思っていると、スーッと二四階のドアが開きました。

でも、誰も乗り込む人はいません。

やっぱりな、と思い、私は『閉』のボタンを押しました。

ドアが閉まり、エレベーターは動き出します。

昇り始めましたが、すぐスピードが遅くなります。

(おやおや、二五階でも止まるのか)

私は遅刻しないかと、ハラハラしながら二五階のドアが開くのを待ちました。

イライラしている時ほどドアの開閉は長く感じるものです。ほんの数秒だったと思われますが、私には三〇秒ぐらいに思えるほど、ドアが開くまでの時間がもどかしかった。

早く、早く!と思ううちに、音もなくドアが開く。

しかし、この階でも乗り込む人はいません。

私はまた『閉』のボタンを押します。

エレベーターが動き出します。

(まいったなあ……)

ちらりと嫌味な上司の顔が脳裏をかすめます。

(今度こそノンストップで二九階に行ってくれ!)

と私は念じました。

ところが、やっぱり二六階が近づくと、エレベーターはスピードをゆるめる。

二六階で止まった時には、私はエレベーターが故障したのだと思いました。

(とんでもないエレベーターに乗ってしまったなあ)

私はため息をつきました。

そして、誰も待っていない二六階のドアが開いたその時です。フーッと生暖かい風が吹き、私の首筋をさっとなでていったんです。

ゾクッとしました。

すると、誰もいないのに私は、どん、と肩を押されたような衝撃を受けました。

(痛い!)

足を踏まれたような感覚が走ります。

私ひとりしか乗っていないエレベーターなのに、急いで二六階で降りる人がいて、私を押しのけて降りていった。そんな思いが私を支配します。

あわてて私はドアの近くから離れ、一番奥の方に移動しました。

音もなくドアが閉まり、三度エレベーターが上昇します。

(何だったんだろう。次は二七階か……)

そう思って私はエレベーターの表示階ランプをにらみつけました。

ところが、ウィーンと心地良い上昇音を立て、エレベーターは二七階は通り過ぎてくれます。さらにスピードをあげ二八階もスルーし、二九階に向かったのです。

(よかった。これで会社に行ける!)

どうして、こんな気持ちになったのでしょう。

私は誰もいないエレベーターの一番奥で手をたたいて拍手をしていました。

そして、ゆっくりとエレベーターは二九階で止まってくれました。ドアが開きます。

「すいません、この階で降ります!」

思わず誰も乗っていないエレベーターなのに、私はひとり叫んで急いで走るようにしてエレベーターの外に出ました。

ほっと一息ついた時、後ろからポンと肩を叩かれました。

振り返ると、会社の同僚です。

「ずいぶん、混んでいるエレベーターに乗ったんだね。汗ビッショリじゃないか。あっ、それにそのワイシャツ、誰か隣に女が乗っていたんだな。口紅がついているぜ」

言われて気がつきました。

まだ夏前だというのに、私は吹き出すような汗をかき、ワイシャツはグッショリ濡れています。それどころか体がクールダウンしていく温度さえ感じられました。

また、同僚が指摘した通り、襟のところには薄く口紅のあとが……。

通勤電車では座っていましたし、エレベーターに乗った時にも女性は近くにいませんでした。

どうしてついたのだろう。

(そうか、二六階で足を踏まれた時……。まさか、誰も乗っていなかった。私の気のせいだ。エレベーターが故障していて止まっただけだ。なんてバカなことを考えているんだ。朝からどうかしてるな……)

結局、その朝のことはエレベーターに搭載されているコンピュータが誤作動したんだと私は考えました。

それっきり、朝の出来事は仕事が忙しかったこともあり、忘れていました。

それから一週間ほど経った頃でしょうか。

残業で遅くなり、ふと気がつくと夜一一時半を回っています。

(やばい、エレベーターは一二時で止まるんだ)

そうなんです、高層ビルのエレベーターは夜一二時を過ぎればストップしてしまいます。あとは、無人のビルを二九階から階段で下りることになってしまいます。

シーンと静まり返ったビルの階段をひたすら下りるのは嫌なものです。まして、夜九時を過ぎると階段の明かりは非常灯だけになり、暗くなってしまいます。

……あれは入社して二年目の秋でした。

遅くなって一二時過ぎに階段で一階まで下りたことがあったんです。

あの時は、コツコツ、コツコツという自分の足音だけがビルの中に響き渡り、それがビル中に反響。自分ひとりだけが歩いているのにまるで、大勢の人が忙しく階段を行き来しているかのような錯覚に襲われる。景色の変わらない階段をグルグル回って降りて行くと、頭がクラクラして、平衡感覚を失い、気分が悪くなるあの現象を、二度と味わいたくない。あの気味悪い無人の高層ビルの階段を下りることだけはしたくない。

そう思った私は、急いでデスクの上を片付け、部屋の明かりを消し、カギをかけてエレベーターに向かいました。

腕時計を見ると、一一時五〇分過ぎです。

(よかった、間に合う)

私はエレベーターの下りボタンを押しました。

ヒューという作動音が聞こえ、一階にいるエレベーターが上昇して、二九階に向かっているのがわかりました。しばらくして、またブレーキのかかる音がします。

到着したようです。

スーッとドアが開きました。中は真っ暗。

時間が遅くなると、エレベーター内の照明は人が乗っているか、ドアが開いた時だけ点灯することになっています。

私は一歩足を踏み出しましたが、中に入るのを一瞬、躊ちゅう躇ちょしました。

どうして迷ったのか、今でもわかりません。

よく残業で、灯りのついていないエレベーターに乗り込むことは、ありました。でも、いつも私は暗闇のエレベーター内にずかずかと入って行きました。しばらくしてから天井の灯りがともるから。

それがパターンでした。

しかし、なぜか、その時だけは明るくなるのを私は待ちました。

カチッ、カチッと灯りがともるスイッチ音がして、一、二度蛍光灯が明滅し、パッとエレベーター内は光につつまれます。

もちろん、誰もいません。

私はゆっくり、歩を進めて進入しました。

スーッと何事もなかったようにドアが閉まります。

昇降階ボタンに手を伸ばし、『1』を押します。

その時です。私がボタンに触れるか触れないかのコンマ何秒か前に『1』の数字が明るくなりました。

(あれっ、押したかな?)

残業で疲れていたせいで、私は自分がボタンを押したのに気がつかなかったと思いました。

こういうことってよくありますよね。何か考え事をしていて、電車や地下鉄の駅で切符を買う時です。硬貨を挿入して値段ボタンを押したつもりもないのに切符が出てくる。自動販売機で飲み物もそうです。ちょっと別のことに思いをめぐらせてお金を入れると、ガタッガタッと音がして選んでもいないのに飲み物が出てきてしまう。

本当は、切符も飲み物もちゃんと選んで手を動かしているのに、ほんの数秒前の自分の行為がすっぽり記憶の中から滑り落ちてしまっている。

記憶のエアポケット。

あれと同じことがエレベーターのボタンでも起こったのだと、私は単純に思いました。

やがて、何事もなかったかのようにエレベーターは始動しました。

あとは一階までノンストップ。

いつもそうです。

夜一一時を過ぎて乗ったエレベーターは途中階で止まるなどということは、ほとんどありません。

ところが、動きだしたかと思うと加速することなく、『25』の表示を過ぎると、すぐ低速になって止まる動きをしました。

こんなに遅く、私以外に働いている人がいる。

たとえ数分とはいえ、たった一人で一階まで降りるより、誰でもいい、いっしょにエレベーターに乗ってくれる人がいる。私はちょっぴりうれしくなりました。

大都会を象徴する高層ビルの中で自分だけしかいない世界に閉じこめられる孤独は、恐怖を伴うものです。たとえ見知らぬ人でも二人でいれば、どこか勇気づけられます。

階数表示版が『24』を明滅し、エレベーターは停止しました。

どんな人が乗ってくるのだろう。

男性であっても女性であっても、ひと言「お疲れさま」と声をかけようと、私は考えていました。

ドアが音もなく開く。

二四階の景色が、エレベーターの向こう、数メールの所に現れる。

しかし、誰もエレベーターを待っている人などいません。

光につつまれた私がいるエレベーターの中とは違い、二四階の世界は真っ暗な闇でした。

私はとっさに理解しました。

今、目の前にある暗黒の世界は、明かりの消えた二四階じゃない。異次元の闇だ。深い宇宙の果てが、私を飲み込もうとしている。

本当です。

もし二四階なら、エレベーターの光がフロアや廊下に届くはずなのに、エレベーターの仕切りから向こう側はスパッと切ったように光の届かない闇が支配していました。

あわてて、私はエレベーターの『閉』のボタンを何度も何度も押しました。

いえ、押し続けました。

このまま、この階でストップしたまま、扉が閉じなかったらどうしよう。最悪の事態が来るのでは。闇の世界に引き込まれる……。

(早く、ドアが閉まってくれ!)

念じるような気持ちで押し続けました。

すると、ゆっくりとドアが作動し始めました。

(よかった!)

身構えていた緊張感が解けていきます。

あと、一メートル、あと五〇センチ、あと三〇センチ。闇の世界は私の視界から消えようとしています。

しかし、ドアが閉まったその瞬間、サァーッと冷たい風が入ってきました。

(な、な、なんだ?この冷たさは!)

そう感じた時、凍りつくような風、いいえ、冷気が私の首筋を撫でるように吹き込んだのです。思わず、身体中がゾクゾクしました。その冷たさといったら、この世のものとは思えない心の奥まで凍らせる冷え冷えとしたものです。

そして、冷気はエレベーター内でグルグルと渦を巻き、私の身体にまとわりつき始めました。

すると突然、眠くなり、睡魔が私に襲いかかってきました。

残業で疲れていたため?

そうかも知れません。

でも、あんなに急に眠くなるなんてことは経験したことはありません。

薄れゆく意識の中で、私は子供の頃読んだ『雪女』の話を思い出していました。

吹雪が吹き荒れた日、道に迷った人がいると、雪女が真っ白い冷たい息を吹きかける。その人はそのまま眠りにつき、永遠に目覚めることはない……。

眠ってはいけない。

私は自分に言い聞かせました。でも、意識はどんどん遠くなっていって……。

何時間、何日、いいえ何年もぐっすり眠っていたような無限の時間の海を私は漂っていました。

「着いたわよ」

耳元で女性の声がして、私は目覚めました。

はっとして周りを見ると、私ひとりしかいないエレベーターの中です。

表示階は『1』を示しています。

確かに、女性の声で私は目が覚めたのです。

なんだかわけがわからない内に、ドアが開きました。

「ご苦労さまです。お疲れさまでした」

ドアの向こうには、面識のあるガードマンがにっこり笑っています。

私は腕時計を見ました。

一一時五五分。

エレベーターに乗る直前から、ほんの五分ほどしか経っていませんでした。

なんとなく、もやもやとした気分が残りましたが、私はそのまま家に帰り、眠りにつきました……。

その翌朝、ちょっとためらいがありましたが、遅刻して上司に嫌みをいわれるのが嫌で、私はいつも通り、エレベーターに乗りました。少し混んではいましたが、何事もなく二九階に着きました。

やっぱり疲れていただけだった。そう私は結論付けました。

その日、午前中は忙しく地上と二九階の間を行き来する必要があり、何度かエレベーターに乗りましたが何も変わったことはありませんでした。

私は昨夜の不思議な体験を昼休みが来る頃には忘れていました。

昼の一二時を少しまわった頃、地上で昼食を取るため私はエレベーターに乗りました。

ランチタイムの高層ビルのエレベーターも、意外と混むものです。私が乗り込んだ時も二〇人近くの人がやはり昼食を取るため、地上に降りようとしていました。

時間帯もあり、この時は二〇階までは各階止まりです。

二九階から二八、二七、二六と止まり、二五階に向かっていた時、

「……、……、……」

誰かが私に声をかけてきました。

私はうしろを振り返ります。見知った顔の人はいません。

空耳かなと思い、前を向きます。

エレベーターは二五階に着き、何人かの人が乗ってきます。

そして二四階に降りていきます。

「ねえ、……、……」

今度は「ねえ」と呼びかけてきているのがわかりました。

女性です。

私は右の方を見ましたが、女性はいません。また左の方にもいません。

いいえ、よく見ると、偶然なのか、女性は誰も乗っていませんでした。

エレベーターは二四階に着き、また数人の人を飲み込みました。全員男性です。

また始動します。

するとまた、あの声が。

「ねえ、私よ、……」

間違いありません、はっきり聞こえました。いっしょに乗っている人にもわかったはずです。

でも、私の周りの人は何も聞こえないのか、ただ黙ってエレベーターが地上に着くのを待っています。

私だけがキョロキョロして、声の主を探しています。

隣にいる中年のおじさんサラリーマンが、うろうろ視線を動かしている私を見て、不愉快そうな顔をします。

「今、女の人の声がしましたよね」

思わず、おじさんに私は話しかけました。

おじさんは、何を変なことを言っているのだという顔で私をにらみつけ、おじさんの向こう側にいた若い男が、何がおかしいのか、クックックッとかみ殺すような笑いを返しました。私が女性にモテなくて、飢えているとでも思っているのでしょう。

(聞く相手を間違った)

私は少し後悔しました。

すると、ガタンと音がしてエレベーターが次の階で止まりました。

今度も乗り込んできたのは三人の男性です。

ドアが閉まり、また降り始めます。

エレベーターの中に沈黙の時間が流れ、誰も言葉を発していません。

少しエレベーターのスピードが上がります。どうやら、各階に止まることなく、このままノンストップで一階まで行くのだろう、と私は思いました。

ヒューと小気味いい機械音とともに、さらにエレベーターは加速しました。キーンと耳が痛くなります。

ゴクリとつばを飲み込み、気圧変化でおかしくなった耳の調子を元に戻します。

その時です。

「まだわからないの?私よ」

また女性の声。間違いありません。空耳でも錯覚でもありません。

私はさっき無視された中年のおじさんを見ました。でも、何も聞こえないのか、彼はぼんやり表示階を眺めているだけです。

おじさんだけじゃあありません。三〇人近くいるエレベーターに乗り合わせた全員が、ぼーっとしています。どうやら正気なのは私だけなようです。

エレベーターはどんどん降下しています。

「わ・た・し」

思い出した!

昨夜、エレベーターが一階に着いたと私の耳元でささやいた女だ!

そう思った瞬間、私の足は震え出しました。やけに喉が渇いている、

「ねえ、あ・な・た」

あの女性です。私は確信しました。

でも、声の正体がわかればわかるほど震えがひどくなり、止めようとしても全身がわなわなと小刻みな振動を繰り返し、立っていられなくなりました。

(しかし、どこから私に語りかけているのだ)

私は恐怖心に駆られながらも、声の主がいるはずだと狭いエレベーター内を凝視しました。

人と人の間に女性が立っていないか?

隅の方で見えないようにして私に語りかけてはいないか。

足もとはどうだ……。

いない。目で探る限り、それらしい女性はやっぱりいません。

「わからないの、私がここにいるのが」

女性は、私が彼女を探しているのをどこかで見ている!

なんてことだ。相手には私の姿が見え、私には彼女を見ることができない。

思わず、私は大きなため息をつき、天を仰ぎました。

私の目には、のしかかるようにエレベーターの天井が迫っています。まるで、空いっぱいに広がったように天井全体は蛍光灯の鈍い光を発しています。

そうか、わかった。

私は直感しました。彼女が何者か理解したのです。

このエレベーターだ!

「結婚してくれるって言ったよね?」

ケ、ケッコン!?

私はまだ三〇歳前で、結婚なんて考えたことはありません。

「ねえ、結婚してくれるって言ったよね?」

その女性、いや、エレベーターの声が、壊れたカセットのように同じ言葉を頭の中で繰り返す。

……結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?結婚してくれるって言ったよね?……

その時です。

ガタン!

いつもより少し大きな衝撃があり、エレベーターは停止しました。一階に着いたのです。

「すいませ~ん、降ります」

大声で私は叫びました。

すると、乗っていた人全員が笑い出しました。

「お兄さん、一階だから全員が降りるよ!あわてなさんな」

誰かがそう言った時、笑い声はますます大きくなりました。

私は人々の笑い声の中をかき分け、エレベーターを出ました。

それ以来、私はエレベーターに乗っていません。毎日、一階と二九階の間を階段で歩いています。

今朝も歩いて、今ようやく会社にたどりついた所です。

え?私がおかしいですって?

そんなことはありません。三八人いる我が社の社員で、エレベーターを利用しなくなったのは、私で六人目ですから……。

――どうですか?このサラリーマンの話。

エレベーターそのものが女性の霊だったなんて。

毎日エレベーターを使う人もたくさんいますよねえ。

深夜に限らず、一人で乗るのは、やっぱり怖いと思いませんか?

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