引っ越し前夜(兵庫県) | コワイハナシ47

引っ越し前夜(兵庫県)

「普段から変な音とかをよく聞くんです。そういう体質になったっていうか、そういうのがよく起こる切っ掛けになったことなのかもしれないんですけど……」

平成八年の夏、小学六年生だった岡部さんが両親と姉と妹の家族五人で移り住んだのは、兵庫県のとある山と川に挟まれた三階建てのそれなりに大きな家だった。山の中腹にあるため、玄関は二階にある。春になると川沿いの桜並木がとても美しい花を咲かせ、夏には山からの涼やかな風がとても心地よい、そんな環境だった。

ただ、困ったことが一つ。引っ越した当初から奇妙なことが頻繁に起きていたのだ。

「とにかくね、家に誰もいなくなった時、一人になった時にですね、いろんな音がするんです」

例えば、二階にあるリビングでテレビを見ていると、子供がスリッパでパタパタパタと廊下を走る音がする。妹が帰ってきたのかと思って廊下に出てみると音は止み、そこには誰もいない。

そんなことが、彼女が一人の時にはしょっちゅう起きるのだ。あまりに多いので、その内に、スリッパの足音がしても無視するようになった。すると足音の勢いは増し、仕舞にはダダダダダダと、大きな音を立てて走り回るようになった。それはまるで子供が悪ふざけをするかのようだった。だが、やはり廊下に出てみるとぴたりと止むのだ。

三階の自分の部屋で本を読んでいると、隣の部屋で扉が開いてまた閉じる音がする。見に行くと誰もいない。やはり、彼女が家に一人でいる時だ。

リビングに一人でいる時に、何かの気配を感じてドアを見たら、レバータイプのドアノブがガチャリと音を立てながらゆっくりと下り、ドアが静かに開くということもあった。確認してもそこには誰もいない。

初めてそんな体験をした時に、すぐに家族に話したところ、誰も信じてくれなかった。そのため、それ以上は言えなくなってしまった。気味が悪いが、怪我をさせられたりした訳でもない。一人で家に居さえしなければ起きないのだ。

岡部さんは家族の者が全員出掛けている時は、なるべく家にいないよう心掛けた。

どうしても一人になる時はひたすら耐えるしかない。

「そんな感じでなんだかんだ十年ぐらい住んでたんですけど、事情があって引っ越すことになったんです」

岡部さんは既に社会人になっていた。毎日夜遅くまで仕事があり、帰りはいつも終電、帰宅するのは夜の一時近く、そんな生活を送っていた。

そして引っ越しの前日、その家で過ごす最後の夜。

いつもの時間に家に帰り着く。家族は既に床に就いており、家の中はしんと静まり返っている。

簡単に夕食を済ませ、彼女は風呂に入った。湯船に浸かって翌日の引っ越しのことなどを考えていると、ドン、ドン、ドン、ドンと壁を叩きつけるような重い音がし始めた。

食事や入浴でうるさくしてしまったから、誰かが起き出して明日の準備をしているのだろう。そんなことを思いながら湯船から出た岡部さんは、椅子に腰かけて頭を洗い始めた。

突然、左の方からカランカランカランと何かが床に転がる音がした。そちらを見るとお父さんのT字型の髭ひげ剃そりが落ちている。それは右側にある湯船の横の棚に置いてあるものだ。何かの拍子に落ちたとしても、どうしてそんなところにあるというのだ。

「え?と思って、不思議に思いながらもまあええわって、何か当たったんやろってことにして……」

岡部さんは訝しみながらも髭剃りを棚に戻し、再び頭を洗い始めた。

が、どうにも気にかかる。髭剃りといい、ドンドンと響く音といい、何だか気味が悪い。

そのため、洗髪しながらも目をチラチラ開けて辺りの様子を伺っていた。

何度目かにチラと目を開けた時、彼女の目の前を髭剃りが飛び、また左の床にカランカランと音を立てて落ちた。

髭剃りは棚から落ちたのではない。弧を描いて飛んだのだ。もちろん手が当たったなどということもない。

怖い。早く頭を洗って風呂から出よう。そう思いながら、もう一度髭剃りを元の場所に戻し、シャワーでシャンプーまみれの頭を慌ただしく洗い流し始めた。

壁の向こうから響いていた音はいつのまにかバン、バン、バンという薄い板を叩くような音に変わっている。

怖いのでずっと目を瞑ってはいられない。シャワーを浴びながらも無理にチラ、チラと目を瞬またたかせる。

音は更に大きくなり、勢いを増してくる。

恐怖に息は激しくなる。

はっと右側の湯船の方に目をやる。湯船から小さな、それでいてやたらと長い子供の手が棚の髭剃りを掴もうとしている。

ぞっとして息を飲んだ。するとその手は素早く湯船の中に引っ込む。

と同時に、岡部さんの背後でタイルの壁をペチペチペチペチと両の掌で叩くような音がした。

岡部さんは悲鳴を上げると、反射的に浴室から飛び出し、裸のまま自分の部屋に逃げ込んだ。

その夜は何もできず、頭から布団を被って寝たのだった。

「それがあんまり気持ち悪かったんで、それまでそういうことはあんまり話をせずにきたんですけど、母親にこんなことがあったって言うたんですよ。そしたらお母さんも『ちょっと気持ち悪いことがあった』って言い始めて……]

実はお母さんもたびたび奇妙な体験をしていたのだという。

「誰もいない部屋から声が聞こえたり、勝手に戸が開いたりっていうの、これまで何度もあったよ」

みんなが怖がると思って、お母さんも敢えて言わなかったのだという。

「でね、実は私も昨日、変なことがあったんよ」

そう言ってお母さんは、前日の奇妙な出来事について話してくれた。

夕方、お母さんが買い物から帰ってきた時のこと。扉を開けて玄関に入ると、男の低い声だけが、なにやら喋りながら玄関横の部屋から出てきてお母さんの前を通り過ぎていく。しかし声の主の姿は見えない。それはまるで電話をしているかのようであり、抑揚のある、感情のこもった声だった。ただ、会話の相手の声は聞こえず、何と言っているのかも分からない。

常識ではあり得ないことから、お母さんは声の主がどこかにいるはずだと思ったらしい。

「お父さんおるの?どこにいてるの?」

家族で男は自分の夫だけである。声に向かって問いかけたが、声はそれに反応することはなく、廊下を移動して、階段を上がって行った。

お母さんは慌てて靴を脱ぎ、声を追った。

「お父さん?」

お母さんも三階に上がった。声は和室の中から聞こえてくる。

「お父さん?」

そう言いながらお母さんが和室の襖を開けると、声は止んだ。室内には誰もいなかった。

そんな話をしていると、後から来た姉と妹も昨日は変なことがあったと口々に言う。

やはり音だけで、誰もいない隣の部屋から足音がしたとか、洋服ダンスの中からバキバキと板が割れるような音がしたので開けてみたが何の異常もなかったというようなものだ。

姉も妹もそういった出来事には以前から遭遇していたらしい。

ただお父さんだけはそんな体験はないと言う。実際に体験していないのか、或いは認めたくないだけなのか、その辺りはよく分からないのだそうだ。

さて、この家の周辺であるが、平成七年の阪神・淡路大震災で大きな被害が出た界隈であった。震災の際、この並びの家のほとんどは地盤ごと崩れ落ち、下にあった家々を押しつぶした。上に住んでいた人たちも、下に住んでいた人たちも、大勢が亡くなった。

岡部さんが住んでいた家は、元々は彼女の叔父の家であり、地滑りには耐えたのだが、山の上から大きな岩が落ちてきて、山側の部分は大破したのだという。

震災後、一年間は壊れた部分を少しずつ修繕しながら叔父が住み続けたのだが、結局出ることにしたらしい。その際、岡部さんのお父さんに声が掛かったのだ。お金はいらないから、ここに住まないかと。

「土砂でかなりの死体が流れ込んでたっていうのも聞いてたんですけど、でもまあタダやしってことで。そういう風なものを信じるような父母ではなかったんで」

そこに越してきた数年間は、三軒隣まで門と階段だけを残して家屋が完全に失われた状態であった。震災のあった一月十七日には、そこかしこに供えられた花が冷たい風に揺れる。それが毎年決まった光景だった。

最後に岡部さんはこう締め括った。

「十年間住み続けてましたけど、やっぱり何かがいて、最終日だけそんなことがいろいろと起きたっていうのは、なんか私らが出ていくのを寂しがってくれたんじゃないかなって」

そこは現在では整地されて新しい家が建ち並んでいるが、岡部さんが十年間過ごした家だけは今でもそのまま残っている。住む人はいない。

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