逆になる(東京都) | コワイハナシ47

逆になる(東京都)

「これは東京に住む僕の友達で、当時まだ二十代だった女性の話なんですけど、趣味がね、演劇好きということで僕と共通してて、で、その時もね、昼間やったんですが、僕は彼女と携帯電話で話してたんです」

彼女は正美さんという。

丹波さんは大阪在住なのでなかなか会う機会はないが、たまに仕事の都合で東京に行った際は、一緒に飲みに行ったりしていた。

その日、どちらから電話を掛けたのか、何の話をしていたのか、丹波さんも覚えていない。いずれにしても電話の内容は他愛のないものだったことだけは確かだ。

突然、話の途中で正美さんが「えっ!」と大きな声を上げた。

「え?どうしたん?」と丹波さんが聞く間もなく、今度は「ああっ!」という正美さんの叫び声。

「え?ちょっと、どうしたん?何があったん?」

心配になった丹波さんが慌てて尋ねると、数秒の間を置いて正美さんが答えた。

「あ、あとで、後で掛け直すから、ちょっ、ちょっと待ってて!」

上擦った声。いきなり電話は切れた。

状況は全く掴めないが、尋常ではない。丹波さんは心配になった。

結局その日、連絡はなかった。

翌日、丹波さんは彼女に状況を問うメールを入れた。しばらくして返ってきたメールには、また改めて連絡するから少し待ってて欲しいという旨が書かれているのみだった。

その次の日、彼女から電話があった。あの時、何があったのか、彼女は電話でこう説明した。

二人が電話していた時、正美さんは一人暮らしのマンションの部屋で、鏡の前に座って化粧をしていたらしい。電話は恐らくハンズフリーにしてあったのだろう。

マンションは七階建て、その五階の部屋だった。

突然、彼女の背後にある窓の外に、逆さになった見知らぬ女の顔が浮かび上がるのが鏡越しに見えた。それがあの時の最初の「えっ!」の原因だ。

その次の瞬間、ドーンという鈍く大きな音が外に響き渡った。それで彼女は「ああっ!」という叫びを上げたのだ。

飛び降り自殺だった。今まさに自ら死に向かって落ちて行く女性と、鏡越しに目が合った。今でもはっきりと思い出せる。ゆっくりと落ちて行く女の恐怖に引き攣つった顔。だがその目に浮かんでいたのは恐怖ではなく、死への期待感だ。

「落ちた女性が最後に目を合わせた相手が自分やったっていうね、それが怖くて、で、警察も来たんで、いろいろと聞かれて、そしたらまたあの一瞬を思い出して、一瞬のことなんですけど、それがスローモーションなんですって、記憶では」

マンションの前の血溜まりはすぐに洗い流されたが、それで彼女の恐怖が消えるはずもない。部屋にいるのが耐えられず、それで昨日は実家で過ごしたと彼女は言った。

実家の両親も、この一件をテレビの報道で見て知っており、戻ってきた彼女を優しく迎えてくれた。お陰で随分気持ちも落ち着いたという。

それからしばらくは彼女と連絡を取ることはなかったが、一か月も経つと心配になってくる。丹波さんはまた彼女に電話してみた。

彼女はすぐに出たのだが、声に元気が無い。

丹波さんは敢えて明るく言った。

「どうしたん?お化けが出たとかじゃないんやろ?」

「うん、お化けは出ないんだけど、なんだか怖いのよ、部屋が」

正美さんは沈んだ声で答えた。

「どうも変なことがあって……」

彼女が毎晩寝ているのは、あの鏡が置いてある部屋である。床に布団を敷き、枕元には目覚まし時計を置く。目覚ましは翌朝に鳴るようにセットしてある。

ところがあの一件以来、彼女を起こすのはその目覚まし時計ではなくなった。部屋中に響き渡るドーンという鈍い音。それに驚き、悲鳴とともに飛び起きるようになったのだ。鈍い音とはあの女が落ちた時の音だ。その後、数秒を置いて目覚ましが虚しく鳴る。それが毎朝のパターンになったのだという。

それともう一つ気味が悪いのが、毎朝、自分の寝ている向きが変わっていることだ。

いつもは鏡が置いてある方向に頭を向けて寝るようにしている。反対の窓がある側には、窓の上の壁に額縁が掛けてあり、万が一それが落ちた場合、頭に当たってしまうのは避けられない。それで、そちらには頭を向けて寝ないことにしているのである。

ところが毎朝起きると窓側に頭を向けており、自分の頭上に掛かっている額縁が真っ先に目に飛び込んでくるのだ。

初めは寝相が悪いだけだと思った。ところがよく見ると、布団ごと向きが変わっている。部屋はそれほど広くはないので、布団を敷いたまま床の上を滑らせて回転させることは不可能だ。向きを変えるには一度布団を上げる必要がある。寝相が悪いというだけでは説明が付かない。

丹波さんは言った。

「そんなん気のせいやって。衝撃的な出来事に見舞われたから、その時の音が耳にこびりついて、それで幻聴として聞こえるんやって。布団もな、何かの勘違いやろ」

「そうかなあ」

「そらそうやんか。だってやなあ、何も悪いことしてないんやろ。そんなもん見せられてどっちか言うたらあんたの方が被害者やないか。恨まれるようなことなんかないやろ」

正美さんは友達にも同じことを言われたらしい。それで少し落ち着いたようだ。彼女はその時、また実家に戻っていたということだったので、丹波さんはマンションの自分の部屋に戻るように言った。気にしなかったらもうそんな音もしないだろうからと。

数日後、彼女から電話があった。丹波さんに言われてすぐに彼女は自分のマンションに戻ったそうである。寝てみたところ、やはりあの音で目が覚め、布団ごと寝ている向きが変わっていたという。電話の声は怯えているようだった。

「だからまたね、なだめたんですよ。で、ちょっと話題を変えようと思って、最近友達と遊びに行った時のことを聞いたんですよ」

そうすると「こないだ香か織おりとドライブに行ってね、そしたら香織が変なジュースを買ってきてさ」などと話し出す。正美さんの声が少し明るくなったのが分かった。友達の香織さんとのドライブでのことを楽しそうに語る正美さんの声に丹波さんは少し安堵した。

「でね、香織がそのジュースを車の中にこぼしちゃって、でもタオルも何もないのよ。千ち秋あき、自分でこぼしたくせに臭い臭いって大騒ぎしてね」

「え?」

思わず丹波さんは聞き返した。チアキって誰だ?

「うん、それでさ、千秋がね」

正美さんはチアキという名前を何度も言う。

「千秋がそこでね……、千秋がね……、千秋が……」

丹波さんはしゃべり続ける正美さんの言葉を遮って聞いた。

「香織の話やろ?チアキって誰?」

「え?知らない。私、そんな名前言ってた?」

本人はあくまでも「香織」と言っていたつもりだったという。

「でね、僕ちょっと気になって、あの事件のこと新聞で調べてみたんですよ。そしたらね、あの時自殺した人、千秋っていう名前やったんです。もうゾッとしてね。でもその後で気付いたんですよ。彼女も新聞を読んだんじゃないかって。で、本人に聞いたら、新聞で事件の記事を読んだって言うんですよ。だからその名前を知ってるんですよね。潜在意識にその名前が刷り込まれてるから、それで無意識にその名前を言ってしまったってことなんでしょうね」

その後、正美さんには彼氏が出来た。そして、しばらく彼の部屋で半同棲のような生活を送った。

一か月後、丹波さんのもとに彼女から電話があった。

「帰ってきたよー」

以前のあっけらかんとした明るい声に戻っている。あの音も聞こえないし、枕の向きが変わることもないという。彼女の生活にも落ち着きが戻ったようだった。

ところがその二週間後、また彼女から電話があった。

「私、解った」

その沈んだ声に丹波さんはドキリとした。

「この部屋に戻ってからね、解ったのよ」

自分の部屋に戻ってから、正美さんはまた以前のように布団を敷いて寝た。翌朝、またしても体は布団ごと窓の方を向いていた。

それで怖くなった。寝ている間に自分が無意識に起き出して、布団を逆に敷き直しているのではないか、そんな疑念を抱いたのだ。もしそんなことをしていたとすれば、自分は完全に狂っているということになる。それが堪らなく怖かった。

そこで彼女はその夜、鏡の方に頭が向くように布団を敷き、布団から出られないように両足と体を紐で布団にしっかりと巻き付けた。両手も口を使って紐で結び、簡単には動かせないようにした。そうやって寝たそうである。

目が覚めると辺りは既に明るくなっていた。目覚まし時計はなぜか鳴らなかったようだ。彼女は窓側に頭を向けていた。縛った紐はあのままである。仰向けの顔を後ろにそらすようにして窓を見た。カーテンの閉まっていない窓の外から、あの女の顔が逆さになってこちらを見ていた。あの時と全く同じである。ただ一つ違うのは正美さんの頭の向きだ。彼女は窓の方に頭を向けて仰向けに寝ている。彼女から見て、女の顔は逆ではない。お互いに向かい合い、まっすぐに見つめ合う。

女の顔は一瞬笑ったかと思うと、窓の下へと消えて行き、次の瞬間、ドーンと大きな音がした。

辺りが闇に包まれた。彼女は起き上がり、両手に縛り付けた紐を苦労して解くと、足元にある目覚まし時計を見た。時刻は午前三時。まだ真夜中だった。

「だからね、あの人、逆にではなく、ちゃんとした向きで、自分の顔を見て欲しかったのよ」

それを聞いて丹波さんは何も言えなくなってしまった。

「他のことはね、精神的なもんやってことで解釈できるんですよ。でも布団が一八〇度逆になってる、これだけはね、説明が付かんのですよ。今は結婚して、別の家に住んで落ち着いてるんで、もう変わったことは何もないんですけども、あの時のあれは何やったんかなっていうのは、時々電話で喋ったらやっぱり、言いますね」

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