非事故物件(東京都) | コワイハナシ47

非事故物件(東京都)

昨年、椎名さんは都内でマンションを借りた。

新宿の繁華街に近い場所で、ゆったりとした間取りの二DKだったという。

「物件に拘こだわりがあった訳じゃないの。会社の近くにさえ住めればいいっていうか」

ただ彼女には、たったひとつだけ〈これだけは譲れない〉という条件があった。

過去に自殺や人殺しのあった、所謂『事故物件』には住みたくなかったのである。

「最近じゃ、そういう物件を狙って借りる人もいるみたいなの。でも私は、絶対に嫌だったのね。だから、不動産屋には『事故物件以外で』って、お願いしたの」

担当の社員は部屋の間取り図を指さし、「ここには過去に亡くなった方もいませんし、大丈夫ですよ」と、太鼓判を押したのだという。

そのマンションに住み始めて、二週間ほどが過ぎた。

ようやく生活は落ち着き始めたが、引っ越しの疲れが溜まったのか、酷く倦怠感を覚えるようになった。同僚の勧めでマッサージや、アロマオイルを試したりもしたが、あまり効果は感じられなかったという。

「そのうちに、疲労感で一日中ぼーっとするようになっちゃったのね。勿論、睡眠時間はちゃんと取っていたのよ。でも、それが全然回復に結びつかないの」

そんな状態が続いた、ある晩ことだ。

会社から帰宅した椎名さんは、疲れた身体を解ほぐそうと、ゆっくり湯船に浸かった。

その日は疲労感だけでなく、僅わずかに悪寒も感じていた。

「冷え性でもないんだけど……少し体調を崩していたみたいで」

なぜか、長くお湯に浸かっていても、中々身体の芯まで温まらない。

そうしているうちに、いつしか眠気に誘われて湯船でウトウトとしてしまう。

すると──いきなり頭頂部の髪の毛を掴まれ、湯船に顔を沈められた。

酷く乱暴で、無慈悲な腕力だったという。

混乱しながらも、椎名さんは髪の毛を掴んでいる腕を必死に外そうとした。

だが、いくら頭に手をやっても、誰の腕にも触らなかった。

『あれっ?』と思い、冷静に浴室を見回すと──誰もいなかった。

「当然よね。私、ひとり暮らしなんだし。だから、寝惚けたのかって思ったけど」

それでも、無理矢理に髪の毛を鷲わし掴づかみにされた感覚が、頭皮にまだ残っていた。

確信はないが、男性の腕だったように思えた。

〈ここ、本当に事故物件じゃないのかしら?〉

不安になった椎名さんは、不動産会社の担当に確認のメールを送ってみた。

だが、「当店は通知義務を順守しております」と、簡略に返信されただけだった。

その後も原因不明の疲労が続き、部屋でベッドに寝転がることが多くなった。

そんなある日、寝ながらテレビを観ていると、視界に妙なものが映り込むことに気がついた。何かの黒い影が、ちらちら視界の隅を過るのだ。

「そこの部屋って、壁の一方がロフトになっていたの。で、そこを荷物置き場にしていたんだけど……どうも、そこから何かの影が覗き込んでいるような感じがしたのね」

何度か確かめてみたが、別段ロフトには何もない。

が、それからも度々、視界の隅に黒い影が入り込むことがあった。

徐々にその頻度が増していくと、〈この部屋はやはり変だ〉と思い始めた。

とは言え、ここをすぐに引き払うだけの資金はない。

考えた末、彼女はマンションの管理人に相談することにした。

「そこのマンションの管理人さん、年配の女性だったのね。普段から気さくな人だったから、私が疑問に思っていることも真面目に聞いてくれるんじゃないかって」

しかし、残念なことにその管理人は最近配属されたばかりで、椎名さんが入居する以前のことを何も知らなかった。

『たまに前の管理人さんが顔を出しに来るから、そのとき知らせてあげようか?』

心配してくれたのだろう、管理人のおばさんは親切に言ってくれた。

それから数日経った、ある晩のことだ。

仕事から帰宅した椎名さんは、風呂にも入らず寝床に就いたという。

最近は仕事にも身が入らず、残業続きで帰宅時間が遅くなっていた。

真夜中、異様な寝苦しさで目を覚ました。

身体に強い圧迫感があり、呼吸をすることさえ辛くなっている。

〈一体、どうしたかしら?〉と、身体を起こそうとして──動けなかった。

寝巻がはだけ、乳房が露わになった彼女の身体に、細いロープが巻かれていた。

彼女の若く、湿った白肌を、官能的に張り立たせる巧みな縛り方だったという。

〈えっ!なんで私……縛られているのっ?〉

混乱して部屋を見回すと、ロフトに数体の人影がはっきりと見えた。

眼球だけがらんらんと光った、全身真っ黒な人間だった。

ふと、濃厚な生臭さが鼻をつく。

彼女は、それが興奮した男性の匂いだと知っていた。

黒い人影は、ロフトの上から彼女のことを虎こ視し眈たん々たんと狙っているように思えた。

〈だめっ、逃げないとっ!〉

彼女は咄嗟に身をよじり、ロープから抜け出そうとしたが──

自分の身体を縛っているものが、ロープではないことに気がついた。

きめの細かい鱗が、ひんやりと彼女の柔肌に吸い付き、〈きゅっ〉と締め上げる。

それは──ナイロンのような光沢を映えた、細長い黒蛇だったのだという。

〈嘘……なんでこんなものが……〉

呆気にとられた彼女の股間から、ぬるりと黒い蛇が鎌首を持ち上げた。

だが、そこに蛇の頭はなく、代わりに小さな女性の顔がついていた。

日本人形のように白く、端正な女の顔。

無意識に、喉から悲鳴が漏れた。

するとその蛇は、じっとりと汗ばんだ椎名さんの乳房の谷間を滑り、するすると彼女の喉元へと這い寄ってくる。

そして、ついと椎名さんに視線を合わせると、艶えん然ぜんとした笑みを浮かべた。

「アナタモ……ネ?」

火のように赤い舌が、椎名さんの鼻先をちろりと嘗めた。

──目の前が、暗転した。

翌日、目を覚ました椎名さんは、自分が裸だということに気づく。

だが、身体をいくら調べても、何かをされたような形跡は見つからなかった。

すでに心の中では〈もう、こんなところに住めない〉と思い定めていた。

会社を休み、外泊の準備をしていると、マンションの管理人から電話を貰った。

聞くと、約束していた前任の管理人が、ちょうどいま来ているのだという。

椎名さんは慌てて管理人室を訪れ、あの部屋のことを訊ねてみた。

「……あなた、あんなところに住んでいちゃ駄目よ。あの部屋はね、ちょっと前までアダルトビデオの撮影に使われていたの」

前任の管理人が、不快そうな表情で教えてくれた。

なんでも若い素人娘を連れ込んで、そこで強引にAV撮影を行っていたのだという。

拷問紛いの撮影もしていたようで、隣室から「悲鳴が聞こえる」と、度々苦情があったらしい。

「……後で調べたんだけど、あの部屋では相当に変態的なことをやっていたみたいなの。縛ったり、沈めたり、動物を使ったり……本当、まともじゃないわよね」

椎名さんは集めた資料を携え、不動産屋に怒鳴り込んだという。

すると担当は、「でも、人死には出ていませんよ。それ以外の情報は、お伝えする義務がありませんし」と、悪びれもせずに言ってのけたそうだ。

現在、椎名さんは別の不動産屋に紹介されたマンションに住んでいる。

両親に頼み込み、引っ越しの費用を工面して貰ったのだそうだ。

「でもね、私があのとき見たのって、幽霊とはちょっと違うんじゃないかしら。きっとあれは、あの部屋に染み付いた人間の感情だって思うのよ。恨みとか、後悔とか……情欲みたいなものとか、そんなのが部屋にこびりついちゃっているんじゃないかな」

以前、その部屋を使っていたビデオメーカーは、出演を強要された女性たちに告訴され、現在も係争中なのだという。

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