トイレの鏡(大阪府) | コワイハナシ47

トイレの鏡(大阪府)

もうずいぶん前のことになる。筆者が大学生だった頃、大阪に大学生を対象としたミニコミ誌があった。その編集室で起こった話である。

その編集室は南森町の雑居ビルの三階にあったが、その階には幽霊が出るとの噂があった。

編集という仕事柄、スタッフは徹夜で作業をするということがよくあった。ただ、管理側の体制としては、夜九時には各階の防火の鉄扉を閉じることになっていて、現に九時以降はガッシャーンという音とともに鉄扉が閉じられ、ビルの出入口も閉じられる。その後はビルの裏口から出入りした。

時折、夜中に来訪者があるという。

真夜中、キキキーッと廊下の鉄扉が開く音がして、バアーン!と閉じる。それがビル中に響くような大きな音。そして廊下をコツ、コツ、コツ……と歩く足音がする。誰か来たのかな?と思うがピタッと編集室の前で止まって、それっきり音はしなくなる。

気になってドアを開けても無人の廊下があるだけだった。

鉄扉が風や何かの拍子で開くことは絶対にない。人がノブを回して押し開けないと開かないのだ。

ある夜、編集室には六、七人のスタッフが居残って作業をしていた。

途中、Fさんがトイレに入った。

Fさんは大をしようと個室に入ってしゃがんでいると、廊下の方から、コツ、コツ、コツ、という足音が聞こえて、ギイッとトイレの入口のドアが開いた。Fさんは誰かが入ってきたのだろうと思って、そのままの体勢で、ドアの下の隙間から外の様子を見た。すると人の影がウロウロと動いている。そして茶色の革靴が見えた。

(あっ、俺が出るの、待ってるな)

そう思ったFさんは、用を済ませると、そそくさと出た。

誰もいなかった。

ちょっと様子がおかしい。その人がトイレを出たのなら、足音やトイレのドアの開け閉めする音がするはずだ。すると幽霊が出るという噂が頭をよぎった。

(ははあ、これは俺を怖がらそうとする誰かの悪戯いたずらやな)

Fさんは急いで編集室に戻ると「誰や、悪戯したんは!」と怒鳴った。みんなは作業する手をとめて、キョトンとしている。

「トイレに入ってウロウロしてたやろ」

すると「君のほか、誰も出てへんで」とスタッフの誰かが言う。

「いや、誰かはわかるぞ」とFさんはみんなの足元を見回した。みんなは徹夜の作業だというので、スリッパや雪せつ駄たに履き替えている。つまり革靴を履いている者はいないのだ。

「なら、他の事務所の人が居残ってたのかな?」

みんなもちょっと好奇心をもった。何人かがFさんと一緒に廊下に出て同じフロアを調べてみた。他の事務所の電気は全部消えていて、人のいる気配もない。部外者が出入りしたのだろうか。それはない。その場合、大きな鉄扉が大きな音をたてるはずだ。誰もそれは聞いていない……。

編集室に戻って、トイレであったことをFさんがもう一度話していると、中のひとりが、「やっぱりあのトイレは、そういうことがあるんでしょうか……」と言う。

こんなことがあったらしい。

ある夕方、トイレに入った。

用を足して、手を洗った。手洗いの水道の上の壁に鏡がかかっていたが、ふっとその鏡を見ると、自分の顔が映っていない。西陽を受けてオレンジ色に染まったトイレの中で、そこにあるのは四角い真っ黒な空間だった。最初、鏡を誰かが悪戯で真っ黒に塗ったのかなと思った。

しかしよく見るとそれは、手を入れればスッと向こうの世界へ届いてしまうかという、紛れもない空間だったというのだ。

(何だろう、これは?)と思ってトイレから出た。

その後その階のトイレは使っていないという。

そんなやりとりをしているうちに、やがて空が白んできた。

街中に人の気配も出てきた頃、アルバイトのKさんが席を立って出ていった。

そのKさんが、出たきりなかなか帰ってこない。「K君、どうしたんや」「トイレにでも行ったんとちがうか?」「それにしても遅いな……」というやりとりをしていると、ドアが開いた。そこに、腰を抜かしてへたりこんでいるKさんがいた。そして「あーっ、やっと着いたあ!怖かったあ!」と大声をあげる。

「どうしたんや」とみんながKさんを取り巻いた。

Kさんは、トイレに関する奇妙な話を聞いて、怖くなったらしい。しかし尿意がしてたまらない。懸命にトイレを我慢していたのだ。やがて朝日が窓を照らしだし、外にもなにやら活気が出てきた。もう怖くないや、とばかりKさんはトイレに行ったのである。

用を足して、手を洗おうとふっと鏡を見た。

すると、自分の真後ろに茶色のスーツの男が映っていたのだ。

ところが、自分の後ろには人が立てる場所はない。そして現実にも、Kさん以外はトイレにはいない。

茶色のスーツの首から上は鏡の枠を越していて見えないほどの大男だ。

その瞬間、腰を抜かしたという。

腰が抜けた状態のまま、ともかくみんなのいる編集室へ戻ろうと、必死に廊下を這はうように逃げ帰ったのだという。

トイレから編集室までの距離がこんなに遠いものかと、Kさんは生きた心地がしなかったそうだ。

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