突然、なぜか無性に仏像が見たくなった。
三年前の、五月のことです。真夏のように、暑い日のことでした。
僕は、今まで一度もそんなことを思ったことはなかったのです。
仏像どころか、骨董品や美術品、絵や彫刻のたぐいさえ、まったく興味がなかったのに。
なぜ、急にそんな気持ちになったのか……。
いまでも、よくわからない。ただ、あの時は自分の気持ちを押し止めることができませんでした。
(仏像が見たい)
もう、いてもたってもいられなかったんです。
(仏像が見たい)
ジッとしていられなかった。
(仏像が見たい!どうしても見たい!いますぐ見たい!)
一口に仏像と言っても、いろいろあります。でも、そんなことはどうだってよかった。
(とにかく、仏像が見たいのだ!)
なんの前触れもなく、突然、心の底から込み上った、熱い、熱い、マグマのようなものを、僕はどうすることもできなかったのです。
仏像と言えば、奈良だろう。
僕は靴をはき、そのまま家を飛び出しました。
途中、銀行に寄りました。
時刻表とガイドブックを買って、それを見ながら東京駅へ向かいました。
(新幹線で、まず京都へ行こう。少しでも早く着くためには『ひかり』じゃダメだ。『のぞみ』でなければ……)
京都駅に着くと、JRの在来線に乗り越え、四〇分ほどで奈良駅に着きました。まだ、昼前でした。
(速い。さすが『のぞみ』だ。高いだけのことはある。『ひかり』号よりもだいぶ早く着くことができたじゃないか!)
雑然とした駅のホームを駆け抜けて、駅前のバスロータリーですぐにガイドブックを開きました。
まずは、東大寺。大仏殿だ。なんと言っても、東大寺の大仏は、仏像のチャンピオンだからです。高さ一五メートル、重さ四五二トンの国宝。
(よし、急がねば。少しでも早く着くためにはバスじゃだめだ)
僕は通りに飛び出すと、両手を上げた。
キキィ――――ッ!
急ブレーキの音がして、タクシーが止まりました。
大仏殿を見物したあと、待たせておいたタクシーで今度は三月堂へ向かいます。ここには、高さ三・六メートルの観音像がある。さすがに、気品が漂う。梵天、帝釈、などの四天王もいる。
そして、つぎは法隆寺。
さらには、薬師寺大講堂の薬師如来だ。
中宮寺の弥勒菩薩。
続いて、西大寺の愛染明王……。
僕は狂ったように走り回り、見て回りました。
片っ端から見てまわったんです。
鹿もたくさんいたけど、鹿煎せん餅べいを買う気にはなれなかった。鹿と遊ぶ暇は、今の僕にはない!
(そうだ、京都へ戻ろう)
ある時、僕は思いたちました。
奈良の仏像は、もう、だいたい見てまわった。
古都、京都にもたくさん仏像があると、ガイドブックには書いてある。
(そうだ、京都へ行こう。まずは三十三間堂あたりから見てまわろう)
僕はタクシーを降りると、お釣りも受け取らずに、ふたたび奈良駅のホームに飛び込んだんです。
近鉄奈良線に乗って、京都駅に着く頃には、すでに日が暮れかけていました。西の空はどんよりと曇り、血色のような赤に染まって、どこか不気味だったのを覚えています。
山寺の鐘が鳴り響く。
遠くの山裾では、カラスが、
「カァー、カァー」
と、わびしげな声をあげていました。
ふと気がつくと、僕は全身汗びっしょりでした。
少し風が出ている。
「ブルッ!」
寒さに、鳥肌がたちました。
マズイ。このままでは、風邪を引いてしまう。僕は、両手で体をかきむしるような素振りをしました。
(風邪を引いてしまえば、もうこれ以上、仏像を見られなくなってしまう。今日はもうやめにしよう。三十三間堂は明日にして、今日はどこか、泊まるところを探すにことしよう)
さすが、京都は観光地の横綱です。駅前には、しゃれたホテルが建ち並んでいました。
有名なTホテルもある。M旅館の大きな看板も見えた。
(ラッキー。泊まり放題じゃん)
僕は喜び、ホテル巡りをはじめました。
ところが。
いざ、足を運んでみると、どのホテルも旅館も修学旅行の生徒たちでいっぱいで、部屋がないという。入口には、『○○中学校』とか、『××高校ご一行様』と書かれた立札が立っています。
仕方がない。僕は少し歩いて、こじんまりとしたビジネスホテルでも探すことにしました。
見知らぬ京都の町を、二〇分ほどウロウロと歩きまわっていたでしょうか。
やがて、細い坂道をのぼりきった竹数の丘の上に、一軒だけ、ポツンと離れて建っているホテルを見つけました。
白熱灯が、ジジジィ、ジジジィ、と音を立てていましたね。
たくさんの蛾がたかっている。焼け焦げて、必死に羽根をばたつかせて、冷たいコンクリートの上でもがいていました。
フロントには、蝶ネクタイをビシッと決めた、二〇代前半の男が座っていました。
僕は、
「すみません。予約してないんですけど、今日一晩だけシングルの部屋が空いていれば、泊まりたいんですが……」
と声をかけました。
「お一人様、シングルですね。ご用意できます。少々お待ち下さい」
男はそう言うと、なにやらパソコンのようなものを打ち始めた。
(へー、いまどきのビジネスホテルは、全部パソコンで済ますのか)
などと思いながら、その光景をなんとなく見つめていると、
「お客様……?」
ふと、声がかかりました。
振り向くと、いつからいたのでしょう、二七歳くらいの女性が目の前に座っていました。黄色いワンピースのようなものを身につけて、髪を頭の上で小さくひとつにまとめている。
顔はのっぺりとしていて、笑っているようですが、どこか無表情でした。暗く、冷たい感じがしましたね。
着ている物もラフな感じだし、
(この人、本当にここのホテルの人なのかな?)
と思ったくらいです。
「お客様、うちでは洋室の他に、和室も三部屋ほどご用意しております」
「和室?」
「はい。いつもなら、このお値段では決してお泊めしていないのですが、本日に限り、洋室シングルと同じお値段でご提供しております。いかがいたしますか?」
女性は流れるような標準語で言った。
(洋室のシングルは、本当に狭くて、ベッドも小さい。同じ値段で、いつもならもっと高い、和室に泊まれるのなら、ラッキーだ)
僕は、
「じゃあ、和室の方をお願いします」
と言った。
キーを渡され、部屋に入る。
たしかに品のよい和室ではあるんですけど、一瞬、ムワッと焦げくさい臭いがしました。室温も、暑いものを感じる。
(きょうは、夏日で気温も暑かったからな。昼間の熱がこもっているのだろう)
僕はそう思い、エアコンの冷房を『弱』から『強』に変えました。
風呂を出て、冷蔵庫の缶ビールを取り出し、飲みました。浴衣に着替えて布団を敷くと、急に眠気に襲われ、ゴロンと仰向けに横になります。
(ん?)
ふと天井を見上げると、半分ほどが黒くなっていました。
なにか、燃えたような、煤けたような、焦げたような……。
(なんだろう?この部屋で、ボヤでもあったのかな)
そのうち、その模様がだんだんと、女の形に見えてきました。
全身、黒こげの女。
それが、ゆっくりと動き出す。
(はっ!)
もがいているように、ゆっくり、ゆっくり、動き出したんです。
(あっ、うっ……、くう)
脇の下から、汗がジットリと出てきて、のどの横で血管が、
ドックン、ドックン……!
と脈打ちました。
(ぶぅ、ばっ!)
その時、ギューウウウウウと、臓腑を内側から締めつけられるような感覚が襲いました。
(き、き、きたー!金縛りだ)
グッ、グッ、グッ、ドバァ――――!
(やっべぇ。う、動けねぇ……)
全身、真っ黒の女の影は、ゆっくりと、ゆっくりと、こちらに向かって天井を這って下りてきます。
その顔が、ニターッ、と笑った。
(ううう、うう、う、苦しい。息ができない。息ができない。息が!息が!)
それから、何時間が経過したのでしょう。
僕は、
「ひそひそひそひそ……」
なにか笑い声のような、若い女の声で目が覚めました。
(ああ。いつの間にか寝てしまったんだろう)
私は聞き耳をたてた。
(どこで話しているんだろうか。廊下かな。それにしても、随分と若い。中学生かな。高校生かな。随分と楽しそうだな。このホテルにも、修学旅行中の学生が泊まっているのかな)
デジタル時計は、四時四四分。
その時、枕元で電話がけたたましく鳴ったんです。
ジ――――ン!ジ――――ン!ジ――――ン!
(はっ)
私はびっくりして跳ね起きた。
喉から、心臓が飛び出しそうになった。
あわてて受話器を取ると、
「もしもし?」
と、うわずった声で言った。
すると、受話器の向こう側から、女の声で、
「お客様、うちには洋室の他にも、和室も、三部屋ほどご用意してあります。いつもなら、このお値段では決してお泊めしていないのですが、本日に限り、洋室シングルと同じお値段でご提供しております。いかが致しますか?ガチャン!」
フロントにいた、あの女の声でした。
なにを言っているのだろう。
和室に泊まっているじゃねえか。なにかの間違いだろう。
腹が立った。
しばらく、黒い受話器をにらみつけていました。
そのうち瞼が重くなり、殴りつけるように受話器を下ろすと、寝てしまいました。
そして、夢を見たのです。
あたり一面、なんでしょうかねえ、もうもうと黒いものが立ちのぼっているんです。
煙だ。
真っ白い煙。茶色い煙。炎がまざった煙。黒い煙。煙だ。
あとからあとから、噴き上げてきている。
(火事だ!)
僕は必死に叫ぼうとしましたが、喉に小石が詰まったようで、声が出ない。
そのうち、煙の中を黒い人影が走り抜けました。
女性のようです。
ふたり、いやもうひとり。三人だ。
なにか、もがき苦しみながら叫んでいたが、僕にはなにも聞こえません。
ただ、それをジッと見つめているしかなった……。
熱い。
熱くなってきた。
すごく熱い。
息が苦しい。
また、息が苦しくなってきた。
熱い。
吸う息が熱い。肺が焼かれる。
熱い。助けて、お願い……、誰か助けてくれ……。
「ハッ」
その時、目が覚めました。
すでに朝になっていました。
「夢か……、いやな夢だったな」
見ると、全身、汗でびっしょりになっている。
それにしても暑い。
なんたる暑さだ。
エアコンを見ると、信じがたいことですが、スイッチが暖房に切り替わっています。
しかも、『強』になっている。
暑いわけです。だが、おかしい。
夕べはそんなことなかった。
まったく気持ちの悪い部屋です。
そして、つぎの瞬間、僕は愕然としました。
とうとう、気が狂ったのかと思ったぐらいです。
泣きたくなりました。
ベッドにいるのです。
正確には、ベッドに横たわっていたんです。
昨日は、たしかに布団を敷いた……。
なのに、部屋は見たこともない洋室で、俺は小さなシングルベッドに横になっているのです。
「たしかに僕は、和室にいたはずなのに……」
そう言って、額に手を当てる。
玉のような汗が噴き出ていました。
気持ちが悪くなり、そーっとベッドを降りて、急いで服を着替えて部屋を出ました。
グニャリ……
なにか、グミのようなものを踏みつけました。
見ると、廊下一面、蛾の死骸だらけ。一部、死に損ないが蠢いています。
ジジジジィ……、ジジ、ジジジィ……
もうこれ以上、こんなホテルにはいられません。
フロントには、昨日の若い男だけが座っていました。
「チェックアウト、お願いします」
僕に和室を勧めた、あの女はいないようです。
ホテルを出て、歩きながらしばらく考えたのですが、なにがなんだかさっぱりわからない。
空は青空。
今日もいい天気です。
さて、どうしようか。
せっかくここまでやって来たのだから、せめて五百羅漢だけでも見てみるか。
五百羅漢には、何百もの仏像が置かれていると言います。
そして、中にひとつだけ、必ず自分に似た仏像があると言い伝えられていました。
「よし、行ってみるか」
気を取り直して、僕は五百羅漢に行ってみることにしました。
五百羅漢に着いた時には、すでに昼の二時頃をまわっていました。
「なるほど、どれもこれも、なかなかいい表情をしている。仏像と言っても、いろいろあるんだなぁ。さて、僕に似ているのは……」
と、いくつか見ているうちに、
(あっ!)
その仏像を見た瞬間、ゾォオオオッとしました。
背筋が凍りつき、動けなくなったのです。
あの女だ。あの女がいるじゃないか。
フロントにいた、のっぺりとした顔の、あの女だ。
俺に和室を勧めたあの女と、まったく同じ顔をしている……。
その仏像は、こちらを見て、うっすらと笑っていました。
(ぎゃ―――――!)
僕は叫びたい気持ちを必死に押さえ、同時に、京都駅に向かって走りだしていました。
(もういい。もう十分だ。たくさんだ。うちに帰ろう。東京へ帰ろう)
夜。東京のマンションに戻り、シャワーを浴びました。
熱いシャワーで、全身の汗を洗い流しました。
(やっぱり自分の家が一番だ)
そう思うと、少しずつ気持ちが落ち着いてきました。
風呂場を出て、缶ビールの栓を開けました。
玄関のドアから、たまっていた新聞を取りだし、何気なくパラパラとめくって……と、その手がふと止まってしまいました。
こんな記事が載っていたからです。
『北海道のあるホテルで、修学旅行中の女子高校生ふたりが、部屋で死んでいるのが見つかった。内側から鍵が掛けれられ、部屋の一部が黒こげになっていた。
ドアの隙間には、タオルが詰められ、目張りのようなものがしてあった。さらに、マッチの燃えかすが、何本も部屋に散乱していたという。
警察は、事件と事故の両面で、現在も捜査中……』
その新聞記事を読んだ時、僕はすぐにピンときました。
昨日の晩に聞いた若い女の声は、この女子生徒のものだったに違いない。そして、おそらくその部屋も、和室であったのだと……。
僕は受話器を取りました。
手帳を取り出し、深呼吸すると、昨日泊まった京都のホテルの番号を押しました。
プルルルルルッ……。プルルルルルッ……
「はい。○○ホテルですが……?」
間違いない。
聞き覚えのある、あの若い男の声だ。
「あのー、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「はい、なんでしょう」
「そちらのホテルに、修学旅行の学生さんたちは泊まっていますか?」
「えっ、修学旅行ですか?」
「はい」
「……いえ、うちは修学旅行にはご利用いただいておりません。そこまで部屋数がないものですから」
私は勇気を振り絞り、続けて聞いてみた。
「あの~、和室をお願いしたいのですが……」
すると、
「申し訳ございません。私どものホテルはビジネスホテルでして、すべて洋室になっております」
「ひと部屋もないんですか?」
「はぁ、洋室だけとなっております。和室はありません」
(やっぱりそうか)
震える手で、なんとか受話器を置きました。
僕が夜中に聞いた、楽しそうなヒソヒソ声。
あれは、やっぱり北海道で死んだ、ふたりの修学旅行生のものだったのでしょう。そして、フロントで見た、妙に流りゅう暢ちょうな標準語をしゃべるあの女性は、この世のものではないのでしょう。
おそらく、どこか僕の知らないところで、ひとり寂しく頭から灯油をかぶり、焼身自殺でもしたのではないでしょうか。
恨みのこもった声で、必死に誰かの名を泣き叫びながら、真っ黒焦げになりながら、たったひとりでもがきな苦しみながら、死んでいったのでしょう。
僕が見た、和室の天井の黒いシミのようになって。
ところであなた、どちらがお好きですか。
洋室?それとも和室?
僕は和室がいいと思いますよ、和室が。