生と死の境目(神奈川県) | コワイハナシ47

生と死の境目(神奈川県)

塗装業を営む井上さんから聞いた話だ。

十年ほど前、井上さんは神奈川県郊外のとある住宅の内装を請け負うこととなった。

だが当時、井上さんの会社では人手が足りなかったため、友人の水原さんに臨時で手伝いを頼んだそうだ。

長く建設業に就いていた人で、井上さんも気軽に頼み易かったのである。

だが運の悪いことに、彼は天井の塗装作業で脚立から転落し、意識を失ってしまう。

急ぎ救急車で病院に搬送したが、彼の意識は戻らない。

「ヘルメットは着用していたんだが、打ちどころが悪かったみたいで」

駆けつけた水原さんの奥さんと共に、井上さんは担当医に精密検査の結果を訊ねた。

すると、生真面目そうな若い医師が、頭部のスキャン画像で説明してくれた。

「残念ですが、非常に厳しいですね……今晩中に脳内の出血が引かなければ、回復は難しいと考えてください」

見ると、スライスされた水原さんの脳は、中心が黒炭を練ったように黒く塗り潰されている。そこは脳の奥深い部位で、開けて手術するのが難しいのだという。

その後、医師が親族である水原さんの奥さんとだけ話をしたいと言うので、井上さんは「明日、また来ます」と伝えて、一旦帰宅することにした。

病室を出るのと同時に、背後で奥さんのすすり泣く声が聞えたという。

「……さすがにショックでね。歩きながら、足元がふわふわしていたことを覚えているよ。仕事も放りっぱなしになっていたけど、かと言って現場に戻る気にもならなくてね。その日は自宅に帰ろうと考えて、タクシーを拾ったんだが」

その車中、忸怩たる思いに駆られ、嗚咽を押さえきれずに途中でタクシーを降りた。

そこは人家の疎な高台の一般道で、道端から閑静な住宅街が見渡せたという。

街を隔てた向かいの山の上空には、雲ひとつない夕焼けが広がっている。

薄紅と青紫の混ざり合った、目に染みるような夕焼けだった。

〈水原は、助からないかもしれない……〉

なぜもっと安全に気を配れなかったのか、どうして大切な友達を守ってやれなかったのか、その後悔だけが胸中に渦巻いていた。

「当時、水原には小さな子供がいてね……それを思うと、ただ、ただ申し訳なくて」

どのくらい佇んでいたのだろう、ふと、涙で滲んだ夕焼けに奇妙なものが映った。

輪郭が残照に揺らいだ、半透明な、とてつもなく大きなものだった。

〈……なんだ?〉

それは、上半身を向かいの山の稜線から覗かせた、巨大な人影だったのだという。

だが、不思議と怖さは感じられず、寧ろ心が安堵するような神々しさがあった。

巨大な人影は、じっと北側の空を眺めながら遠い夕焼けに聳え立っていた

やがて──その人影が泰然と動き出し、ついと井上さんの方に顔を向けた。

そして井上さんを見下ろしながら、ゆっくりと、力強く頷いた。

その瞬間、井上さんは〈あっ、水原は助かるんだ〉と確信した。

同時に、言いようのない安堵感に満たされ、堰を切ったように泣き崩れたそうだ。

どのくらい泣いていたのだろう、再び上空を仰ぎ見ると巨大な人影はすでに消え、夜空に満天の星が瞬いていたという。

翌日、早朝に病院を訪れた井上さんは、担当医に水原さんの容態を聞いた。

するとなぜか、担当医は不機嫌そうな表情を浮かべたという。

そしてCT画像を乱暴に叩き、「見ればわかるだろう!」と声を荒げた。

そこには、黒い影の消えた綺麗な脳のスライスが並んでいた。

「どうもあの若い医者は、自分の見立てが外れたことに腹を立てていたみたいでね。とんでもない大馬鹿野郎だとは思ったけど、ともあれ水原の命は助かったからね……本当に嬉しかったよ」

その後、水原さんは無事回復を果たし、長いリハビリを経て仕事に復帰したという。

いまでは後遺症もなく、元気に建設業に精を出している。

「それでさ、後で思い返してみたんだけど、あのときに夕焼けに見た巨大な人影って、頭の両側に大きなツノを生やしていたんだよ……例えが古いんだけどさぁ、何となく『ウルトラの父』に似ていたなって思って」

井上さんはあのときの『ウルトラの父』に、今でも感謝の気持ちを忘れていない。

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