しとめ 車を押す謎の老人(和歌山県) | コワイハナシ47

しとめ 車を押す謎の老人(和歌山県)

大迫さんの祖父母は和歌山県に住む。

幼い頃近くに住んでいたので、彼は父親に連れられよく遊びに行ったものだ。

が、中学生になった辺りで関東圏に引っ越してからはかなり足が遠のいていた。

そんな彼が大学時代、自動車免許を取った。

安い中古車も買ったので、ふと和歌山の祖父母宅を訪ねてみようと思いついた。

夏期休暇を利用してのロングドライブだった。

途中、関西に住む同じく大学生の従兄弟を拾う。

二人揃って祖父母の家に着いたのは、出発から二日後の夕方だった。

久しぶりに会う祖父母は小さくなったように思えた。

お土産を渡し、祖父と酒を酌み交わす。

孫たちと呑めるなんてなぁとうれし涙を流していた。年を重ねたことで涙もろくなっているのだと祖母は笑っていた。

その晩、客間に蚊帳を吊ることになった。

当然真夏だ。エアコンを点けるので閉めきってはいるが、建家が古いせいで隙間が多く蚊が入り込んでしまうのだ。

四点留めの蚊帳は結構大きなものでまだ新しく感じる。去年買い直したものだった。

客間の柱や梁につけられた金具を使い張っていく。

(ああ、子供の頃のテント張りみたいだ)

ある種の感動があった。加えて、従兄弟と枕を並べて寝るのも懐かしい。

会話していたが酔いも手伝い、いつしか眠りに落ちる。

が、思いがけなく目が覚めてしまった。

蚊の羽音らしきものが近くで延々と飛び回っている。

豆球──常夜灯の下、途切れない羽音に横を見れば従兄弟も目覚めていた。

「おい」

「おう。蚊やな。ヤやな」

電灯を点けるため、立ち上がり蚊帳の外へ出る。

明るくなった中、蚊帳を吊る紐が一部外れているのが目に入った。

布団から見て丁度左側の足下である。

「これで蚊が入って来たンやな」

付け方が悪かったのだろうか。張り直し、いったん蚊帳へ戻る。

ところが蚊を探してもどこにもいない。

いつの間にか、音も止んでいた。

明かりを消して寝直してみるが、また音が聞こえ出す。

ところが今度は蚊の羽音とは少し違っていた。

延々と続く高周波で耳障りな雑音、だろうか。

例えるなら、大きな鐘を叩いたあとの残響音に近い。

電灯を点けると消えた。となれば電気関係のノイズではなさそうだ。

仕方がなくなり、頑張って眠った。

眠りは浅かったが、なんとか朝まで起きることはなかった。

朝、蚊のような変な音が聞こえて眠れない、と祖父母に訴えた。

電子蚊取り線香と蚊帳だけでは流石に完璧じゃないのだろう。それに蚊帳の一ヶ所が外れていたのなら、それは蚊も入ってくるはずだと祖父母は笑った。

「あと変な音は鳴く虫のせいじゃないか」

祖父が庭を指さした。夏の虫は夜鳴く。部屋の明かりが消えたら激しさも増すだろう。逆に中から光が漏れれば虫も鳴き止むものだと説明された。

納得し、今晩はもう少し早めに蚊取り線香をつけておくことになった。

ところがまた昨日のように蚊が出る。

それも吊り紐の一角が外れていたところさえ一緒だ。場所も足下左側で変わらない。更にあの〈残響音〉のようなものへ変化するのも同じだった。

寝る前、あれだけ確認していたから、理由は思い浮かばない。

従兄弟と顔を見合わせた。

外の虫だろうと結論づけて、また我慢して寝た。

翌日、また同じことがあったよと話せば、祖父母は首を傾げる。

「もしかしたら虫とか蚊やないんちゃうか?なんや電気関係の振動、とか?」

蚊帳を吊る金具の付け替えや蚊取り線香の入れ替え、エアコンの清掃など明るいうちに全て終わらせた。

昼間試してみたが、問題はない。これで安眠できるとみな安心した。

が、祖父母宅に三泊目の夜にも再び羽音が始まった。

目を開け、仰向けのまま耳を澄ませる。どう聞いても蚊としか思えなかった。

もう起きるのも面倒くさかった。

黙って目を閉じていると、音が変化する。

あの鐘の残響音に似たものになった。

しかし今日は少しだけ違って聞こえるところもあった。三回目だからだろうか。

僅かな抑揚を感じた。一定ではなく、何か節回しのような。

ああ、またやん、そう従兄弟が声を上げる。目を覚ましたようだ。

音が変なことになってないか?そう問えば彼もそう聞こえると同意する。

二人して布団の上に起き上がる。上を見れば蚊帳は普通に張られていた。

「原因は、何やろなぁ?」

「さあ?何や分からんなぁ」

そんなことを小声で話し合っていると、丁度足下側、隣の部屋との仕切りになっている襖ふすま辺りに何か動くものが見えた。

暗がりよりもっと黒いそれは、三歳児くらいの大きさに感じた。

目を凝らす。

三段重ねの鏡餅のようなシルエットに見えた。

その黒い鏡餅はすーっと左側へ動く。

なんとなくだが、とぐろを巻いた黒蛇のようにも思えた。

ほぼ同時に吊り紐が音もなく取れ、蚊帳がたわむ。

足下左側の、あの二度外れていた場所だった。

驚き、従兄弟を振り返った──が、彼はいつの間にか仰向けになっていた。寝息らしき物も聞こえる。眠りに就いているようだった。

揺り起こすと、何か不満げな声を上げた。

「何?眠いんやけど?」

「いや、ほら。ちょっと変な音が」

「……今日はしとらんやろ。せっかく眠っていたのに」

話が通じない。さっき起きて会話したと反論するが、彼はずっと眠っていたと言い張る。

では、さっき話した相手は誰だったのか?

はっと黒い鏡餅のことを思い出す。

いいからあそこを見ろと〈黒い鏡餅〉があった場所を指した。ところがすでに何もない。あるとすればただ蚊帳が外れているだけだった。

「また外れとんな」

従兄弟からはただそれだけだった。

知らぬうちに音も止んでおり、これ以上は何も言えなくなってしまった。

しかし、どちらにせよ何かがおかしいとしか思えない。

翌朝、大迫さんは四泊目をせずに帰ることを決めた。

全て包み隠さず祖父母と従兄弟に話してみたが、どうにも取り合って貰えない。

祖父母は笑顔だ。

蚊帳が外れるのは何か不良品だから。黒い鏡餅のようなものは気のせいだったのだろう、この家に長く住むがそんなおかしなことはないと噛んで含めるように説明された。

「お酒、少し呑み過ぎたんやろかなぁ?」

祖母が困った顔をするが、そこまで深酒はしていない。

従兄弟に至っては昨夜は眠っているところを起こされた。そもそも異音など全くなかったと不機嫌に言う。「そんなことでビビるんか。ガキか」と馬鹿にしている節もあった。

どうにもしゃくに障る。

「なら今日も同じ部屋、同じ蚊帳で寝てやる」

そう断言して、四日目も泊まることに決まった。

その夜──また羽音が聞こえた。

従兄弟に話しかければ、そうだなと返事があった。

顔を見れば、目が開いている。今回は酒を呑んでいない。見間違いではないはずだ。

音の変化や他の異変を待つうち、急に尿意を感じた。

音は変わらない。

我慢できずトイレに行くが、今度は出ない。しかし尿意はある。気持ちが悪い。

廊下をうろうろしてみたが、小便がしたい感覚だけがいつまでも残っている。

次第に脂汗が流れてきた。水を沢山飲めば小便が出るだろうか。

音のことも忘れ、台所へ行った、はずだった。

気がつくと、自分の車の運転席にいる。

シートを倒し、仰向けになっていた。

自分以外誰もいない。ひとりだ。

外はまだ暗い。確認すればドアはロックされていた。鍵はきちんとハンドル脇、キーの差し込みに突き刺さっている。

(おれ、しょうべん、でなくて、そこから)

ぼんやりとした頭で思い出そうとする。途中からここまでの記憶が飛んでいた。

唐突に車が揺れた。

強風に煽られたときのように、左右交互にぐらぐらと大きく。

すぐ右横から呼ぶ声が聞こえた。

飛び上がりながら振り返れば、運転席窓に張り付くように人がいる。

白髪を肩まで伸ばしているが、男女の別は分からない。

老人は「おいおい、おいおい」、しゃがれた声でそう繰り返しながら車を押していた。

揺れの原因はこれかとすぐに理解できる。

相手はどことなく認知症の気があるように見える。

とはいえ、このシチュエーションでは腰が引けてしまう。窓もドアも開けたくない。相手にするのも厭だった。

老人は両手で窓を押しながら、おいおいと呼び続けた。

答えず、視線を合わせないよう顔を背ける。

車体の揺れが止んだ。おいおいの声も止まる。

少し静かにした後、老人は小さな声で何かを漏らした。

しどめ。或いは、しとめ、と聞こえた。

少なくともそれに近いような響きの言葉だった。

思わずそちらを向けば、老人がすーっと身を引くところだ。

それはそのまま暗闇に消えていった。

すぐに出れば老人がそこにいるのではないか。出会わないよう少し間を置いてから車を降りた。

家の中へ戻れば、今度は従兄弟がいない。

蚊帳はいつものところが一部分だけ外れている。

どういうことか。トイレか。行くが誰も入っていない。祖父母の寝室以外の部屋を確かめてみたがどこにも姿がなかった。

途中、携帯で何度かメールや電話を掛けたが返答はなかった。

朝が来た。

従兄弟は帰ってこない。祖父母を起こし、事情を説明した。

手分けして、家の中と周辺をもう一度探すことにする。

念のためと従兄弟の携帯へ電話を掛ける最中、祖母が青い顔で駆け込んできた。

従兄弟は、祖父母宅の納屋で首を吊っていた。

遺書がなかったので、警察からの〈確認〉はかなり長い時間かかることになった。

祖父母は孫が死んだ家をすぐに引き払った。

思い出すからこそ、ここにはもう住めなかったのだろう。

その後、大阪郊外に居を構えてすぐ、二人とも亡くなった。

従兄弟の家は親同士が離婚し、一家離散のようになってしまった。離婚の理由は分からないが、あまり人に聞かせられないものがあったようだ。

それらの出来事の合間、大迫さんはあの中古車で横転し、大怪我を負った。

九死に一生を得たが、以来運転はしていない。

あれから十年、大迫さんは今もあの老人のことを鮮明に思い出せる。

外は真っ暗なのに、何故かシワまで見て取れた、男女が分からないあの顔。

車を押し、横揺れさせながら、おいおいと言い続けたあのシーン。

そして〈しどめ〉或いは〈しとめ〉このように囁くあの声が、忘れられない。

と、同時に、納屋にぶら下がっていた従兄弟の姿も。

老人が一体何者であったのか。従兄弟が死んだのはどうしてなのか。

あれから長い時間が過ぎたが、彼には答えが出せないままである。

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