鍋蓋(東京都) | コワイハナシ47

鍋蓋(東京都)

都内近郊でサラリーマンをしている大河内さんは、学生時代から交際していた沙世さんと結婚した。

結婚を機に比較的広めのアパートへ引っ越して、一緒に暮らし始めた頃のことである。

沙世さんが中学時代の同窓会に出席するため、一晩家を空けたことがあった。

玄関先まで彼女を見送ってから、溜まっていた文庫本を読み耽っていた。

よほど読書に没頭していたのであろう。

気が付くと陽は既に落ちており、自分が空腹であることに気が付いた。

さて、今日の晩ご飯はどうしようか。

会社にいるときは店屋物ばかり食べていたため、弁当の類には飽き飽きしていた。

普段は台所に近付きもしなかったが、今夜ばかりは致し方ない。

彼はそう決めると、台所へと向かった。

冷蔵庫には葱ねぎと豆腐、そして白滝が入っている。

ということは、牛肉と割り下さえあれば、好物のすき焼きができるではないか。

彼は急いで近所のスーパーに行くと、割り下と半額シールの貼ってある牛肉を買い求めた。

いざ食事の準備をしていると、台所の清潔さに思わず見とれてしまった。

沙世さんの几帳面な性格が現れ出ていて、台所は完璧なまでに整理整頓されていた。

観音開きの食器棚を空けると、陶器の器と鍋類が収納されている。

そこで比較的小振りな土鍋を見つけて取り出そうとしたとき、彼の手が止まった。

「あれれ、これって蓋がないじゃないか」

棚の中を見渡してみると、鍋本体と蓋が全部別々に収納してある。

恐らく棚のスペースを有効活用するためだとは思うが、彼はどうにもできない不安を感じた。

彼は北国の小さな農村で生まれ育ったが、実家の台所では、必ず鍋には蓋を閉じたまま収納している。

都会に出てきて一人暮らしをしているときも、頑なにその収納方法を守ってきたのだ。

子供の頃から見慣れていたことだったので、沙世さんの仕舞い方には正直戸惑ってしまった。

だが、守ってきたやり方に、果たして意味はあるのだろうか。

改めて考えてみると、食器棚には限られたスペースしかない。

それを有効活用するには、鍋本体は本体、蓋は蓋と一緒に重ねて仕舞ったほうがいいに決まっている。

恐らく、あれは広い棚に恵まれた田舎の迷信なのだろう。

そう結論付けると、早速彼は料理に取りかかった。

見よう見まねで作ってみたものの、自作のすき焼きはことのほか美味しかった。

初めてにしては旨くできた、と自画自賛しながら使用済みの食器類を洗い始める。

そして今まで信じてきた迷信を吹っ切るかのように、沙世さん同様に鍋と蓋を別々に収納した。

翌日の夕方、沙世さんがぱんぱんに膨れ上がったスーパーの買い物袋を携えて帰宅した。

「ごめんねえ、寂しかったでしょ。今夜は寄せ鍋にするからね」

彼女の言葉を聞くなり、彼のお腹が即座に反応した。

子供の頃から、寄せ鍋には目がなかった。

テレビを視ながら食事の準備が終わるのを待っていると、突如台所から悲鳴が上がった。

「ねえ!あなた、何やってたの!」

聞き慣れない妻の怒鳴り声に疑問を感じながらも、急いで駆け付ける。

「これっ!一体、何に使ったのっ!」

シンクの中に鍋が置いてあった。彼女は気が動転しているらしく、何度も何度もそれを指さしている。

普段は血色の良い彼女の顔面が真っ青になっており、微かに全身が震えていた。

その鍋は確かに昨日すき焼きを作ったものだったが、綺麗に洗って棚に収納したはずである。

事態が理解できない彼は、とりあえず鍋の中を覗いてみた。

「わっ、何、これ!」

その鍋の中には、どろどろに溶けた黒い塊が入っていた。

微かに、硫黄をたっぷりと含んだ蛋白質が焼けた臭いもしている。

「ちょ、ちょっと。俺、片付けるから!」

そう言って妻を台所から退散させると、側にあった使い古しの割り箸を片手に取る。

黒い塊の表面をゆっくりと箸で掻き分けると、中には形状の判別できる物質が残っていた。

それは、剥ぎ取ったかのような人間の爪らしきものと、一束の長い髪の毛であった。

彼はその物体が入った鍋を新聞紙で厳重に包むと、ビニール袋に押し入れ、家の外へと持ち出した。

居間では妻が怯えた表情を向けてきたが、とにかく知らぬ存ぜぬを貫き通すことにした。

後日、会社の休憩時間に実家へ電話を掛けた。

久方ぶりに息子の声が聞けて嬉しかったのか、電話口からは母親が元気そうな声を上げている。

「あ、かあちゃんさ。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

先日起きた黒い塊の一件を話すと、彼女の声色が一変した。

「……ソレだげはすんなって言っだのに。おめえ、馬鹿だなあ。いやいや、情げねえ。ほんっとに、アレほど教えだのんになあ……」

久方ぶりの親子の会話のはずが、まさか怒鳴り声を聞く羽目になってしまうとは考えもしなかった。

怖々と母親を宥なだめながら話を聞いてみると、こういうことである。

とにかく使わない鍋には、必ず番の蓋を閉じておかなければならない。

大河内の家では、そうやって皆過ごしてきたし、これからもそうなのである、と。

理由を訊ねても、電話口で言葉を濁すだけであった。

「こっちに住んでもいねえおめえは、別に知らなくってもいいべ」

散々説教をして少々落ち着きを取り戻した母親は、電話口でそう言った。

シェアする

フォローする