立ち上る(近畿地方) | コワイハナシ47

立ち上る(近畿地方)

ある夏の日、坂上さんの鼻が異臭を捉えた。

腐れ臭いのだ。

夏に放置した生ゴミに、炎天下の堤防に棄てられ腐った魚を足した感じか。

出所を探るが、結局どこでもない。

悩む内、彼女のひと言で原因が分かった。

「しんちゃん、なんか臭いよ?ずっと言わなかったけど」

曰く、生ゴミに傷んだ魚をプラスしたような臭い、らしい。

服でもなくアパートの部屋でもなく、坂上さんの口や鼻、耳辺りから悪臭がするようだ。

(俺の身体からか)

口臭や体臭には気をつけている。

もちろん歯磨きや風呂に加え、デオドラント系スプレーを振っていた。

それなのに自分でも分かるほどの臭気をまき散らしているのか、とショックを受けた。

坂上さんは二十代前半。加齢臭ではないはずだ。

これはいけないとありとあらゆる方法を使って悪臭を断とうと頑張ったが、どれも意味がなかった。

次第に彼女は部屋にも寄りつかなくなり、自然消滅寸前となってしまった。

最後に会ったとき、彼女がこんな言葉を漏らしていた。

「なんだか、(しんちゃんの)目の辺りとか頭のてっぺんとか、凄く臭い」

指先で自分の目じりを擦ってから、嗅いでみた。

吐き気を催すあの臭いがした。

こうなると気になって仕方がない。社内でも人が指を差しているように感じる。

「あのさ、坂上。お前、ちゃんと身だしなみに気を遣えよ?」

先輩からやんわりとした言葉で指摘すらされてしまった。

地元から遠方の大手に就職してまだ半年と少し。

悪臭による悪評が社内で広まっている事実はかなり堪えた。

ただ、どうしようもなかった。

自分でも臭い。

臭いはすぐに慣れると言うが、毎日酷く気になった。

だが、それは内臓からでも、ワキガでもない。

皮膚科などにもかかったが原因が分からないのだ。

打つ手がなかった。

(俺の身体は人知れず、腐り始めたのだろうか)

馬鹿な想像であったが、そうだとしか考えられない自分もいたのは確かだ。

季節が晩秋を迎える頃だったろうか。

夜中、アパートで寝ていると肩を揺り動かされた。

起きるとベッド脇に父方の祖母がいる。

なぜ、こんなじかんに、ばあちゃんがいるのだろうか……回らない頭で現状を理解しようとしているうち、祖母の姿が消えた。

思わず飛び起きた。

(……夢か)

時計を見れば午前二時過ぎ。

祖母は関西にいるはずで、こんな場所、こんな時間に来られるはずがないだろう。

中途半端に起きたことでぐったりしていると、枕元のスマートフォンが光った。

さっき夢に出て来た祖母が逝去したことを知らせる、母親からの電話だった。

朝方、関西の病院へ着いた。

祖母はもう安置所へ移動している。そこへ入ると鼻を衝く臭いが充満していた。

線香などの香りすら物ともしない悪臭である。

ただ覚えがあった。

(あ、俺の臭いだ)

生ゴミと腐った魚の臭いを混ぜた、あれだ。

思い起こせば、夜中から自分の臭いが気にならなくなっている。

耳裏に触れた指を鼻先につけた。臭わない。

祖母のベッドに近づくにつれ、悪臭が酷くなってきた。

疲れ切った顔の母親が呟くような声で坂上さんに伝える。

「お祖母ちゃんの顔、見たって」

就職で地元を離れてから、一度も実家には帰っていなかった。

それに、入院をしたと言っても祖母がこんなに早く死ぬとは考えてもみなかった。

関西の家族は祖母の様子を「ただの体調不良だから」と言っていたではないか。

ぐるぐる回る思考の中、祖母の顔辺りを見下ろした。

布を取る。

目が痛くなるほどの臭気が立ち上ってきて、ぽろりと口から言葉が零れた。

臭い、と。

その場にいた全員がこちらを責めるような目で睨み付けた。

分かっている。しかし言うな、という空気だった。

祖母の葬儀が終わった後、母親がこんなことを言うのを聞いた。

「お祖母ちゃん、途中から確かに臭なりだしたわ」

夏が来る前、入院したときは誰しもすぐに退院できると思っていた。

ところがいつまでも良くならない。

祖母も気が弱くなったのか、弱音を吐き出した。

〈しんちゃんに会いたいわぁ。あの子、あてのこと嫌いなんやろか〉

来てくれない、来てくれないと泣くことが増えた。

しかし息子は社会人一年生だから、すぐに呼び戻すのはよくないだろうと誤魔化した。

この頃から祖母の身体が臭うようになった。

生ゴミと腐れ魚の臭いだ。

悪臭が酷くなるにつれ、祖母はこんなことを言い出した。

〈しんちゃんが来ぃへんのやったら、あてが行く〉

〈しんちゃんが来ぃへんのやったら、あてが連れて行く〉

何を言っているのかと訊いても、答えはなかった。

そして、死ぬはずがないと思っていた矢先に、突然死んだ。

死因は合併症による心停止。

付き添っていた母親は最後の言葉を耳にしている。

──もうちびっとやったのに。

声が途切れると同時に息を引き取ったという。

死の間際、こんなにはっきり物が言えるものだろうか。

意味は分からないまでも、母親は驚いた。

「でも、ほんま、お祖母ちゃんは死ぬ少し前までしんちゃんしんちゃんうるさかった」

あんたにとっても執着しとったから、そう吐き捨てるような口調で母親が言う。

坂上家に入って二十数年。

母親と姑との仲は、お世辞にも良いとは言えなかった。

祖母が亡くなった日から、坂上さんの身体から悪臭は去った。

周りが驚くほどだと表現すれば伝わるだろうか。

祖母が悪臭の原因だったのかはよく分からない。

強いて言えば、最悪の体臭が消えてから、彼の身体に異変が起こった。

内臓系の疾患が見つかったのだ。

明日すぐ死ぬような病気ではないが、一生付き合わなくてはならない類の物だ。

だから、今、坂上さんは誰とも付き合っていない。

こんな身体で結婚し、家庭を持つなんて考えてはいけない、そう彼は決めている。

妻や子供を残して先立つ可能性が高いからだ。

最悪、自分の両親くらいは見取れるはずだから、それだけにしよう。

そして、最後はひとりで死のう、と。

まだ年若い彼が笑う。

〈ある意味、早めの終活を始めているようなものです〉

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