廃棄物(東京都) | コワイハナシ47

廃棄物(東京都)

少し古い話である。

置き薬会社のベテラン社員である大瀬さんは、都内近郊を営業で回っていた。

暑い盛りのある夏の日のこと。

本日のノルマを遂行して、そろそろ帰社の時間が迫ってきた。

自動販売機の近くに営業車を駐め、喉の渇きを潤す。

自動販売機の脇に何げなく視線を動かすと、二メートル四方の空きスペースがあって、ゴミ捨て場として活用されている。

どうやら明日は粗大ゴミの日らしく、ボロボロの掃除機やら座椅子やらが相当数置かれていた。

その中のある存在に、彼の視線は釘付けになった。

粗大ゴミとして、新品同様のクーラーボックスが置かれているではないか。

正面にプリントされたメーカーのロゴから、有名メーカーの製品であることが分かる。

大きさも手頃で、彼の趣味である海釣りに是非とも持って行きたい品であった。

彼はゴミの山につかつかと歩み寄ると、お目当ての品を手に取った。

そして目を皿のようにして、外観から中身までしっかりと見定めてみる。

ズッシリとくるこの重さから、六面全てが真空パネルになっていることは容易に想像できた。

真空パネルで覆われているということは、魔法瓶のような構造になっているわけである。

発泡スチロールを断熱材に使用している安物とは、性能に雲泥の差があることに間違いなかった。

彼が現在愛用しているクーラーボックスも、断熱材はもちろん発泡スチロールである。

安物でも冬場はさほど困らないが、夏場になると保冷用の氷がすぐに溶けてしまい、今まで幾度となく閉口してきた。

「うーん……」

彼は思わず唸ってしまった。

〈何でこんなのが捨ててあるんだ?〉

表面には目立つ傷もないし、中身も綺麗な状態である。

このクーラーボックスが新品として釣具店で売られていても、全く違和感を覚えないであろう。

ここいら一帯の条例までは知らなかったが、所有権が放棄された物品を持ち帰ることは法的には問題ない。

しかし、流石にゴミ捨て場から無断でモノを持って行く行為に、多少の後ろめたさを感じたのであろう。

彼はそれを手に持ったまま、慎重に辺りを見回した。

ありがたいことに、人の気配は全くない。

彼は急いで営業車の後部座席にそれを押し込むと、その場から逃げるように会社へと向かっていった。

帰宅してすぐに、彼は拾ったクーラーボックスをネットで検索してみた。

「ひゃーっ、こんなにするんだ!」

その製品はメーカーの最高級品で、定価にして五万円以上。

たとえ、安売り店で購入しても、三万円はする代物だった。

彼の安月給でおいそれと買えるような製品ではない。

スペックを悉つぶさに確認してみるが、やはり彼の思った通り六面が全て真空パネルに覆われていた。

これさえあれば、もう保冷面で余計な心配をしなくて済むわけである。

〈……漸ようやく俺にもツキが回ってきたかな?〉

今度の釣行に持参すべく、彼は早速クーラーボックスをクリーナーで丹念に磨き始めた。

降り注ぐ陽射しが容赦なく防波堤を熱し、噎せ返るばかりの夏の潮の匂いが辺りに充満している。

釣具屋で得た釣果情報通りの結果に終わって、大瀬さんは帰宅の途に就いていた。

二十センチ強の手頃なサイズの鯖をクーラーボックス一杯になるまで釣り上げて、ホクホク顔で車のハンドルを操る。

〈こんなに馬鹿みたいに釣れたのって、何年振りかなあ?〉

上機嫌が溢れ出して止まらないらしく、彼は車内でお気に入りの歌を熱唱しながら帰宅した。

アパートの部屋に入るや否や、電話が鳴り始めた。

普段は煩うるさく不愉快にしか感じなかったこの音も、今日は心地良さすら感じられる。

「はい。もしもし大瀬です」

「ああ、大瀬か?杉山ですけど」

電話の相手は、釣り仲間の杉山からであった。

「今日さ、例の堤防で爆釣してたみたいじゃないの?」

「ええ、もしかして杉やんも行ってたのかい?何だよ、声くらい掛けてくれよ」

「いやね、見たこともない連れと釣りしてたようだからさ。声を掛けづらくて」

「ん?俺、今日は一人で釣りしてたけど?」

「そんなわけないじゃん。あんなにべったりとくっついていたんじゃ、とても声なんて掛けられないって」

大瀬さんには、杉山の話がよくわからなかった。

彼の話によれば、大瀬さんは見知らぬ女性と仲良く釣りをしていたらしい。

真っ白な服装をした、やけに背が高く髪の長い、スレンダーな美女だったという。

心当たりは全くないので彼は必死に否定したが、杉山の冷やかしが止むことはなかった。

「今度は俺にも紹介してくれよな。じゃ、また」

通話を終えても、大瀬さんは首を傾げるばかりであった。

〈他の誰かと間違っているんじゃないのか、アイツ〉

今度会ったらそう言ってやろう。そんなことを考えながら、彼は持ち帰った鯖さばの処理を開始することにした。

釣場で血抜きは済ませていたから、後は三枚に下ろして、食べ切れない分は冷凍保存するだけである。

彼はズッシリと重たいクーラーボックスの蓋を開けて獲物を取り出そうとした。

「……ん、何だこりゃっ!」

クーラーボックスを空けた途端、猛烈に生臭い腐敗臭が室内に充満し、彼の鼻腔を容赦なく浸食してくる。

噎せながら、釣り上げた鯖を手に取ってみると、その目は全て白く濁っており身はぐずぐずに溶けかかっていた。

彼は急いで蓋を閉めると、腐った魚皮と身が付着した両手を丹念に洗い始める。

病的なまでにしつこく石鹸で手を擦ったが、手に付着した悪臭はなかなか落ちない。

両掌がヒリヒリと痛むまで洗って、漸く手の匂いに納得することができた。

けれど、次にやらなければならないことを考えると、思わず目眩めまいがしてしまう。

彼は深い溜息を一つ吐くと、ゴミ袋とクーラーボックスを持って部屋の外に出た。

ゴミ袋の口を目一杯拡げて、それに向かってボックス内を逆さまにした。

鈍い音とともに腐った鯖が袋に雪崩れ込み、瞬く間に肉の欠片へと豹変する。

凄まじい臭気が一気に漂い始め、彼は抗い難い嘔おう吐と感に苛さいなまれていた。

時折聞こえる衝突音は、溶けきらなかった氷が地面のコンクリートにぶつかる音であろう。

ゴミ袋越しに見える氷の形状から察するに、夏場にも拘わらずほとんど溶けていなかった。

〈……ん、氷?〉

いきなり襲い掛かってきた身体の震えに蹂じゅう躙りんされながら、大橋さんは暫しばらく動けなくなった。

氷が溶けきっていなければ、クーラーボックス内の温度に問題はないはず。

どうして、魚だけが腐っているんだ?

一体、何なんだ。コレは?

「……別に異常はないですねえ」

メーカーからの修理伝票を見ながら、釣具屋の店員が言った。

ひょっとして保冷性能に何らかの異常を来きたしていたのではないのか。

きっとそうだ。いや、そうであってほしい。万が一の望みを賭けて、メーカーに修理依頼を出したのである。

しかし、大瀬さんも頭の何処かで理解していたはずである。たとえ釣った魚を素の状態で持ち帰ったとしても、あんな状態になるわけがないことを。

あれから何度か釣りに行ったが、持ち帰った魚は全てあの鯖のような腐乱状態になっていた。

しかも、それだけではなかった。

このクーラーボックスを携えるようになってから、変なことばかり続いている。

例えば、貸しボートに一人で乗って、アジ釣りをしたとき。

「お客さん、困るんだよね。二人で乗るなら、事前に言ってくれないと」

ボートを返却しようとしたところ、貸しボート屋の親父にネチネチと説教をされてしまった。

また、釣行帰りの車中を会社の同僚に目撃されたこともあった。

「大瀬さん、すっごい美女と付き合っているらしいですね」

「いや、知らないよ。オレ」

「またまた。羨うらやましいなあ」

数え切れないほど、このような目に遭っていた。

いちいち否定するのが面倒で、酷く意味のないことに思えてきたほどである。

もう、限界だった。

彼はこのクーラーボックスを諦めることにした。

そもそも、こんな高級品は初めから自分と縁がなかったのである。

そう自嘲気味な笑みを浮かべながら、彼は明日の粗大ゴミの日に出そうと決意をした。

〈しかし、もったいないな……〉

クーラーボックスを手に取りながら、しげしげと眺めてみる。

短い間ながら酷使したにも拘わらず、外観は新品同様に目ま映ばゆいほどの光沢を放っているではないか。

彼は名残惜しそうに、ストッパーを外して蓋を開けた。

中も真っ白く輝いており、傷一つ見当たらな……

〈ん?〉

中の中央部に、黒い染みのようなものが付着している。

ほんの芥子粒程度の大きさだったが、どうにも気になって仕方がない。

大瀬さんは何げなく、自分の右手を差し入れると、人差し指の爪でそれを削ってみた。

「……いってっっ!」

鋭い激痛が人差し指に走ったかと思うと、瞬時に脳天まで響き渡った。

咄とっ嗟さに右手を引っ込めると、じんじんと熱を帯びた指を慌てて凝視する。

人差し指の生爪が先のほうから真っ二つに割れており、深紅の液体が割れ目から滲み出る。

自重に耐え切れなくなった血液が、クーラーボックスの底部にぽとりぽとりと続けざまに滴り落ちていく。

彼は急いで洗面所に駆け込むと、力一杯蛇口を捻り、勢い良く流れ出る水道水に患部を任せた。

あまりの痛みに患部が麻痺しているのか、水の冷たさも浸みる感覚も感じることができない。

その後はタオルで水気を取ると、オキシドールを丹念に振りかけ、ガーゼと包帯できつく縛った。

これは……一体、何が起きたのであろうか。

クーラーボックスの汚れらしきものが気になって、何げなく爪で削っただけなのに。

疼く人差し指を庇いながら、彼は先程の汚れに恐る恐る視線を向けた。

彼の努力は報われず、ボックスの底部には相も変わらず黒い染みが付着している。

そしてその周りには、彼の指から流れ出た数滴の血液が、まるで寄せ付けられたかのように取り囲んでいる。

〈ん?ちょっと、待てよ……〉

芥子粒大だった染みが、いつの間にか胡ご麻ま粒大になっているではないか。

不審な眼差しで大瀬さんが見守る中、周りの血液がゆっくりと動き始める。

それは染みに吸い取られるように消えていき、と同時にその染みがまたしても大きくなった。

一滴、また一滴と血を吸い取るのに合わせて、その染みはいつしか小振りな大豆程度の大きさまで成長していた。

そして彼の凝視に応えるかのように、黒い染みの中で芽生えた小さな瞳が、彼を睨ねめ付けている。

それを目撃するなり、彼は小刻みに震える全身に鞭打って、勢い良く蓋を閉じた。

もう、厭だ。もう、駄目だ。

彼はクーラーボックスを部屋の外に放り出すと、灯りを点けたまま布団に潜り込んだ。

本当は今の内にアレをゴミ捨て場に放り投げてきたかったが、夜中にそんなことをする勇気は持ち合わせていなかった。

全身が震えて眠れそうになかったが、こうして布団の中にいることが一番落ち着くような気がする。

とにかく、明日は粗大ゴミの日。

そう、明日になれば……。

まんじりともせずに迎えた朝は、全身が気怠く非常に辛い状態であった。

外の明るさを確認すると、大瀬さんは粗大ゴミを出そうと部屋を飛び出した。

そして、その場で固まってしまった。

部屋の前に出しておいたクーラーボックスの蓋に、護符らしき紙切れが貼り付けてあったのだ。

達筆過ぎて、何と書かれているのかは皆目見当も付かない。

〈一体、誰が?〉

様々な疑問が頭を過ぎったが、それももはやどうでも良いことである。

照り始めた陽射しの中、違和感を覚えるほど背筋が寒いのを意識しながら、彼はゴミ捨て場へと足を運んだ。

既に薄汚いミシンやらテレビゲーム機が置かれていたが、彼はそこに護符の付いたクーラーボックスを放り投げた。

そして即座に自室へと駆け戻った。

会社へ出勤すべく部屋を出て駐車場へ向かう途中、自然と先程のゴミ捨て場へ視線が泳いでしまう。

早朝に見たときより粗大ゴミの量は増えていたが、あのクーラーボックスは綺麗さっぱりなくなっていた。

誰かが持ち帰ったのかもしれないが、自分にとっては既に関係がない。

大瀬さんは生唾を一呑みすると半ば駆け足になって、逃げるように駐車場へ向かった。

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