四月の老婆、他二編(群馬県高崎市) | コワイハナシ47

四月の老婆、他二編(群馬県高崎市)

二〇一六年四月上旬、週末のことである。S美さんは両親に用事があって、小中学生の子供三人を連れて実家へ行くことにした。また、御主人は職場の仲間たちから、公園で花見をしよう、と誘われていたので、一家五人は一緒に家を出た。

天気は快晴で、風のない、麗らかな春の午後である。

高崎市の中心街が江戸時代の城下町を起源としていることは既に述べたが、中でも江戸時代に栄えていたのが『お江戸見たけりゃ高崎田町』とも謳われた田町界隈で、そこを通る県道二十五号は通称〈田町通り〉と呼ばれている。五人がその〈田町通り〉を歩いてゆくと、細い横道と交差する場所まで来た。そこは信号がなくて車が出てくることがあるので、S美さんたちは必ず一旦立ち止まり、安全を確認することにしていた。

車も人も来ていない。S美さんは御主人と並んで子供たちの前を歩き、横道を渡った。

そのとき、「すみません」としゃがれた声で呼び止められた。振り返ってみれば、横道から七十代後半くらいの小柄な老婆が出てくるところであった。

(えっ!お婆さんなんていたの!?)

たった今、横道を確認したときには誰もいなかったはずだ。まるで老婆が突然湧き出てきたかのようである。御主人も同じことを考えていたのだろう、目を丸くしていた。その上、日なたにいると汗ばむほどの陽気だというのに、老婆の服装は黒ずくめで、ニットの帽子を被り、厚手のコートを着て、冬物のズボンを穿き、首にマフラーを巻いていた。

「あのう……○×屋に行きたいんですけど、道を教えてもらえませんか?」

老婆が穏やかな口調で、ある店の名を告げる。

「ああ……それなら、私たちも同じほうに行くので、一緒に参りましょうか」

S美さんは心を落ち着けて歩き出したが、老婆の服装は気になっていた。まもなく十字路に出ると、花見に向かう御主人はそこを右折するため、皆と別れた。S美さんは老婆と並んで十字路を左折し、高崎駅方面に進む。足が速い子供たちは二人の前に出て歩き始めた。やがて老婆が、

「おかしいでしょう、この格好」

S美さんが先程から考えていたことを口にした。

「ひと月ぐらい草津温泉に行ってたので……」

「そうでしたか。いえいえ、変じゃないですよう」

草津温泉は同じ群馬県でも北西部の高地にあるので、四月でも寒い。S美さんは厚着の理由を聞いて納得したが、まだ不思議なことがあった。○×屋は高崎駅近くにあるのに、なぜずっと手前にいたのか、ということだ。同じ中心街でも四百メートルは離れている。

すると老婆は、

「実はね、あそこで息子に車から降ろされちゃって……」

と、またS美さんが考えていたことを言い当ててきた。

やっぱり不思議な人だな、とS美さんは思ったが、

「そうなんですかぁ。もう少し駅の近くで降ろしてくれれば良かったのにね」

笑顔を作って調子を合わせていると、ちょうど目的地の店が見えてきた。

「あそこが○×屋ですよう」

店の前まで来ると、老婆は何度も頭を下げて礼を言った。そのときS美さんは、子供たちがなぜか老婆の足元を見つめていることに気づいた。

「さあ、行こう」とS美さんは子供たちを促して老婆と別れ、実家があるほうへ向かって歩き出したが、少しして中学生の長男が騒ぎ出した。

「お母さん、あのお婆ちゃん、変だったよね!」

「何で?」

「影がなかったよ!」

「えっ?」

「あのお婆ちゃんだけ影がなかったんだよ!みんなの影はあるのにさぁ!」

小学生の次男と長女も「そうそう!」と頷いている。そういえば、別れ際に子供たちは老婆の足元を気にしていた。だが、今言ってはいけない、と子供心に思ったらしい。

「そんなことが……。でも、確かに変な人だったわねえ」

S美さんと子供たちは実家に到着して用事を済ませ、夜には自宅に戻ってきた。それから少しして御主人も帰ってきた。そこで老婆のことを話すと、「やっぱりな……」と酒に酔って上機嫌だった御主人の顔つきが真剣なものに変わった。

「俺もあの婆ちゃん、何となく気になったので、おまえたちと別れてすぐに振り返ってみたんだよ。そうしたら、あの婆ちゃんがいなかったんだ。おまえと子供たちだけが歩いていくのが見えたので、どこへ行ったのかな、と思っていたんだ」

実は、S美さんは〈見える人〉なのだが、御主人や子供たちは〈見えない人〉なのである。しかし、彼らも一緒にいるときには見えてしまうことがあるらしい。とくにこの日は、S美さんだけが不審に思いながらも大きな異変に気づかずにいたそうだ。

ある日の昼間、S美さんは徒歩で高崎駅近くの三叉路を通りかかった。彼女の前方には若い女性が歩いている。その先に白髪を結った小柄な老婆が、歩道の真ん中に佇んでいた。茶色のブラウスを着て紺色のズボンを穿いており、見た目は普通の老婆のようだが、こちらに背を向けていて顔が見えない。前を歩いていた女性がその老婆をよけて進もうとした。

ところが、老婆が横へ移動して女性の前に立ち、進路を塞いだ。女性は立ち止まって逆の方向へよけようとしたが、老婆はそちらに動いて、また進路を塞ぐ。

「コン!」

老婆が鳴いた。女性はそれから二度、行く手を塞がれたが、ついには大きく跳躍しながら横へ回り込み、老婆をかわすことに成功した。

「コン!コーン!」

老婆が悔しそうに鳴く。

(あ、お狐だな)

一部始終を見ていたS美さんは、前を歩いていた女性と同じ要領で、大きく跳躍しながら一回で老婆をかわした。足を止めて振り返ると、老婆はまだそこに立っている。ただし、既に背を向けていて、どんな顔をしているのか、確認することはできなかった。

向こうから中年の男性が歩いてくる。老婆は同じように行く手を塞ごうとしたが、男性はその場を平然と通り抜けた。接触したはずなのに、老婆の身体を突き抜けたのだ。

(ははあ、さっきの女性は私と同じ〈見える人〉で、あの男性は〈見えない人〉なのね)

S美さんは何事もなかったかのように、また歩き出した。

夏の夕方、S美さんは御主人とスーパーへ買い物に出かけた。野菜や精肉などを籠に入れてレジへ向かうと、はたと猛烈な悪臭が漂ってきた。前に背の高い男の客が並んでいて、そこが発生源のようだが、男が着ている鮮やかな緑色のシャツに目立った汚れは見られなかった。それに長らく風呂に入っていない人間の体臭とは、明らかに違った臭いに思える。

(これって、もしかしたら……)

S美さんが考え始めたとき、御主人も顔を顰しかめながらささやいた。

「なあ。これ、死臭じゃないか?」

動物の死骸が腐敗した臭いだ。S美さんは、東京にいた頃にアルバイトをしていた喫茶店で、冷蔵庫の裏から猫のように大きなドブネズミの死骸が見つかったときのことを思い出した。二人は目で合図してそのレジから離れ、隣のレジに並び直した。

ただ、奇妙なことに、店員や他の客たちの様子を窺うと、まったく気にしている素振りがない。S美さんはレジが済んでからも緑色のシャツの男を目で追っていた。男が買った品物をレジ袋に入れているときに顔が見えたが、日本人か、アジア系の外国人らしい。

しかも男が出口に向かって歩き出すと、急に背丈が伸び始めた。いや、背丈というよりも、頸部だけが長く長く伸びてゆくのだ。轆ろく轤ろ首くびのように。やがて頭の天てっ辺ぺんが天井まで届きそうになったが、そこで男はスーパーから出てゆき、姿が見えなくなった。

「あの人、生きた人間じゃなかったね」

S美さんが小声で言うと、御主人が怪訝な顔をした。

「……誰が?」

「今出ていった、緑の服を着た男よ。さっきレジの前にいたでしょう」

「いいや。俺は死臭を嗅いだだけだよ。そんな人がいたのかい?」

話が噛み合わない。実は、御主人には緑色のシャツを着た男の姿が見えていなかったそうである。

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