榛名山の鎖場(群馬県 榛名山) | コワイハナシ47

榛名山の鎖場(群馬県 榛名山)

榛名山は標高一五〇〇メートルに満たない低い山地だが、高崎市、東吾妻町、渋川市、吉岡町、榛しん東とう村むらに跨り、関東平野の北西の果てに聳そそり立っている。一時はパワースポットとして絶大な人気があった榛名神社をはじめ、榛名湖、伊香保温泉、水澤観音などの観光地を有することから訪れる人が多く、群馬県を代表する〈上毛三山〉の一つとされている。

だが、正確には榛名山という名の山は存在しない。この山地にはそれぞれ名がついた峰が多数あり、〈榛名山〉とは峰の総称、いわば渾名なのである。これは〈上毛三山〉と呼ばれる赤あか城ぎ山やまや妙みょう義ぎ山さんについても同じことがいえる。

さて、榛名山には榛名富士、掃部かもんヶが岳たけ、烏帽子えぼし岳だけなどの峰があるが、S山もその一つだ。かつてこの峰には幾つかの登山道が通じていた。しかし、鎖場が三ヶ所ある東尾根コースでは滑落事故による死者を出したことから立ち入り禁止となり、現在は西尾根コースのみが登山道となっている。

五十代の女性A川さんは登山が好きで、西尾根コースからは何度かS山の頂上まで登っており、次第にそれだけでは飽き足らず、東尾根コースからも登ってみたくなったという。実は登山仲間から、このコースは死者が出たので立ち入り禁止になっているが、登るにはさほど難しくない、との情報を得ていたからである。

初夏の朝、A川さんは最寄りの無料駐車場に車を駐めると、しばらく谷を抜ける道を進んだ。その先に、藪に埋もれかけた東尾根コースが続いている。彼女は立ち入り禁止の案内板を無視して足を踏み入れた。平日のことで、単独行である。空は青く晴れ渡っていた。ここ一週間でも最良の天気に思えたそうだ。

廃れた登山道は何度も藪漕ぎをすることになったが、他にも通った者がいるらしく踏み跡があり、迷うことはなかった。

(何とか頂上まで行けそうね)

ところが、急に空が曇ってきた。上空に黒い雲が次々に集まってくる。第一の鎖場を無事に越えたが、黒雲の動きは速かった。第二の鎖場へと急ぐ。その岩場はほぼ絶壁といってよいが、足場が掘られていた。そこまで来たとき、空が黄昏のように薄暗くなって、雨が落ちてきた。遠くから雷鳴も聞こえてくる。まずいことになってきた、と思いながらも鎖に掴まり登ってゆくと、急に右足が動かなくなった。首を曲げて足元を見れば──。

「何よ、これっ!?」

足場に巨大な髑髏がいた。口を開けてA川さんの右足の甲に噛みついている。その大きさは平均的な日本人男性の頭部の三倍はあるように見え、上下の顎には頑丈そうな歯が並んでいた。

A川さんは驚いて右足を引き抜こうとしたが、髑髏の歯が登山靴にトラバサミのごとく食い込んでいて、抜けなかった。絶壁にぶら下がった不安定な体勢のまま、身動きが取れなくなってしまう。

A川さんは左足の爪先で髑髏を蹴った。二度、三度と蹴ったが、髑髏は噛みついたまま離れない。雨の降りが強くなってきた。辺りが真っ白に光ったかと思うと、間近で雷鳴が響き渡る。A川さんは仰天して鎖から手を放しそうになった。

慌てて鎖を握り直す。早くここから逃げなければ、いずれは体力が尽きて滑落するか、落雷に遭って感電死することだろう。

髑髏ごと岩場から引き抜いてやろうかと、右足に力を込めてみた。しかし抜けない。髑髏の後頭部は岩に根を張ったかのように固定されている。足の甲が痛くなってきた。

A川さんは必死に左足で髑髏を蹴り続けた。蹴って、蹴って、蹴って……あるいは足の裏で踏みつける。無我夢中で攻撃を繰り返すうちに、やっと髑髏が口をわずかに開けたので、右足を引き抜くことができた。

だが、少し登ると頭上の岩に、別の髑髏がくっついていることに気づいた。絶壁を仰げば、一面に髑髏が累々と並んでいる。どれも黒い眼窩で彼女を見下ろしながら、待ち構えているようであった。

(また噛みつかれたら大変だ!)

A川さんが登るのを躊躇していると、再び稲妻が閃き、雷鳴が轟いた。耳が潰されそうな大音響に驚いた彼女は、滑落しそうになった。山頂まではあと少しのはずだが、登山仲間から聞いた話によれば、この上に第三の鎖場があり、岩や木の根に掴まりながら登る急斜面も続いているという。そこにも髑髏が群れているのかもしれない。

(駄目だ……。もうこれ以上は登れない)

A川さんは諦めて下山を選んだ。足に噛みついてきた髑髏は怖いが、ここを下りる以外に道はない。髑髏がいる足場を踏まないようにして、何とか絶壁から下りることに成功した。振り返ると、雨に遮られて視界が悪いせいか、絶壁に並んでいたはずの髑髏は一つも見えなくなっていた。

A川さんは雨合羽の上着だけを身に纏った。ズボンを穿くには登山靴を脱がなければならないので、濡れるのを覚悟して下山する。気温が急激に低下していて、寒さと恐怖に震えながら、第一の鎖場も通過した。雨によって何度も足が滑りかけたり、

(またどこかで髑髏が襲ってきたら、どうしよう)

と、不安に思ったりしたが、幸い、髑髏と遭遇することはなかった。

辺りは一層暗くなり、さらなる豪雨が襲ってきた。雷も激しくなってくる。視界が極めて悪く、落雷に遭うか道に迷う危険があった。とはいえ、雷雨を凌げる場所はない。一刻も早く車へ戻る以外に生きて帰れる道はなかった。

けれども……。

懸命に下山を続けるうちに雷鳴が遠のいてゆき、雨も弱まってきた。

やがて雷はやみ、雨もやんで、大空を覆っていた黒雲が散ってゆく。

駐車場に止めてある車へ戻ってきたときには、青空が広がり始めていた。早朝から出てきたので時間には余裕があったが、身体の震えが止まらず、どこにも立ち寄ることなく帰宅した。

A川さんは、天候の急変からしてただの偶然とは思えず、二度と東尾根コースからS山には登るまい、と猛省したそうである。

シェアする

フォローする