子鹿のベビー箪笥(群馬県前橋市) | コワイハナシ47

子鹿のベビー箪笥(群馬県前橋市)

〈高崎怪談会〉に常連の語り手として参加して下さっているHさんは、家具の製作をはじめ、イベント会場の設営やポスターのデザインなど、さまざまな仕事をこなす器用な方だ。前橋市にある彼の自宅は、一階が工房で二階が住まいになっている。工房は昔祖父が造ったもので、長野県の軽井沢町からトラス構造の住宅の一部を移築していた。

Hさんが幼い頃、自宅にかわいらしい子鹿の絵が描かれたベビー箪笥があった。買ったものではなく、移築した際にオマケとしてついてきたものらしい。Hさんは子供心にその箪笥の存在を何となく、怖い、と思っていたという。

五、六歳の頃、土曜日の夜遅く、床に就いていた彼はふと目を覚ました。部屋の中が薄明るい。この寝室は彼と両親が使っていたが、父親が英検の試験を受けるため、電気スタンドだけを点けて参考書を読んでいたのである。

それからHさんは何気なくベビー箪笥のほうに目をやって、息を呑んだ。

最上段の引き出しが少し開いていて、中からコバルト色をした心ところ太てんのようなものが渦を巻きながら出てきたからである。直径一メートルはありそうな渦巻きの中心に光り輝く玉があり、その中に小さなものが沢山蠢いていた。よく見ると、顔が半分潰れた血まみれの女や、火の玉に目鼻が浮かんだもの、顔は獣だが着物を着て二本足で立っているもの、器物に目玉や手足がついたものなど、生身の人間とはかけ離れた姿をしたものが大勢いた。

それらを内包した渦巻きがこちらに向かってくる。Hさんは咄嗟に電気スタンドの光芒を見つめた。眩しくて一時的に視力が落ち、渦巻きと中のものたちが見えなくなる。けれども、安心する隙ひまはなかった。今度は脳裏に渦巻きの映像が押し入ってきたのだ。〈人でないものたち〉が足音や金属音を立てながら彼の前を通過し、また戻ってくる様子が目に浮かんでしまい、とても眠れたものではなかった。

「助けて!お父さぁん!助けてえ!」

「どうした?」

父親に今見えている現象を伝えたが、信じてもらえなかった。

「そんなもの、お父さんには見えないぞ。夢でも見たんだろう」

いつの間にかベビー箪笥の引き出しも閉じている。とはいえ、依然として渦巻きは見えていたし、〈人でないものたち〉の数も増えていた。

「違うよう。ほんとにそこにいるんだよう」

「うるさいな。そんなにこの部屋が嫌なんだったら、お祖父ちゃんの部屋へ行きなさい」

父親が怒り出して、Hさんは祖父の部屋へ行かされた。祖父の部屋には般若の面が飾ってあり、Hさんはそれを以前から怖いと思っていた。しかし、この夜はなぜか般若の面が守ってくれそうな気がして、怖くなかったという。祖父の部屋に渦巻きは現れず、気持ちが落ち着いてきたので眠ろうとしていると、祖父に揺り起こされた。

「もう大丈夫だろう。自分の部屋に戻りなさい」

そう言われて寝室へ戻ると、またベビー箪笥からコバルト色の渦巻きが回転しながら出てくるのが見えた。咄嗟に目を瞑ったが、脳裏に顔が半分潰れた血まみれの女が現れ、

「ほほほほほ……。目を瞑っても、駄目だよう」

どこか調子の外れた低い声が聞こえてきた。

Hさんは大騒ぎをして、再び祖父の部屋へ行かされた。そこで寝ていると朝まで何も起こらなかったのだが、翌日も夜になると、また渦巻きが出てくる。ただ、前夜よりも〈人でないものたち〉の数が減ったように思えた。それでもまだ怖かったので、自ら祖父の部屋へ行った。いつしか苦手だった般若の面もすっかり怖くなくなっていたそうである。

次の夜になると、ベビー箪笥からはコバルト色をした糸のようなものだけが出てきて空中を漂っていたが、じきに消えた。それを最後に、この現象はすっかり収まったという。

Hさんが中学生になった頃、このできごとを思い出して調べてみたところ、ベビー箪笥の後ろに外国語らしい解読不能の文字が書かれた御札が貼られていることに気づいた。

その後、彼が知らぬ間に両親が廃棄したのか、ベビー箪笥の行方はわからなくなった。大人になってから両親に、どこへやったのかと訊ねたことがあるが、

「さあ、覚えてないねえ」

「どこか、よその家にくれてやったんじゃねえかな」

と、興味がなさそうに言われた。

シェアする

フォローする