八甲田山死の彷徨の映画の奇怪(青森県 八甲田山) | コワイハナシ47

八甲田山死の彷徨の映画の奇怪(青森県 八甲田山)

遭難事件から約70年後、1970年代に新田次郎氏の「八甲田山死の彷徨」が発売され、ベストセラーとなる。

小笠原孤酒氏の取材、収集した「八甲田山陸軍遭難事件」の資料を元に描かれた。その後、当時7億円という破格で映画が作られる。

高倉健、三国連太郎、加山雄三等、そうそうたる俳優陣だった。

監督は森谷司朗。彼は八甲田山を見て、撮るならここしかないと決めた。高倉健も独立後初の主演、3年の撮影に挑み私財を投じるほど懸けていた。

興行成績も何十億とヒットし、テレビドラマ化もしたし、旅行ツアーまでできて八甲田山は一大ブームとなった。

当時を知る雑誌記者のSさん。不気味な体験をしたという。

遭難した兵達が彷徨った田代温泉。そこは谷のような形状になっている。その中の宿に泊まったときのことだ。

実はピンチヒッターで行った為、遭難事件の事はそこまで詳しくない。さらっと概要だけ読んで、若手俳優の発掘を取材するのがメインだった。

俳優陣の宿泊する旅館に取材をし、外に出ると、どうも気分が悪い。

ガヤガヤした室内では人も多く、ストーブがあり暖かかったが、一歩外に出るとマイナス10度以上の冷え込みが体を包む。

「お前は誰だ」

若い男性の声がしたかと思い振り向くと誰もいない。

当時は街灯もまだなかったから、懐中電灯で見える範囲だけ。

変だなと思いながらも雪道を歩き続けると、どうも後ろに気配がある。

「ザッザッザッ」

靴音が道に響く。自分の靴はゴム長靴だから、そこまで音がしないが、やけに音が響くなと思いながら歩く。それか、誰かついてきてるのか?

「誰だ。誰かついてきてんのか?」

後ろの気配がピタリと消えた。

危ない危ない。追いはぎにでもやられるのかもしれない。Sさんは走って自分の宿に辿りついた。

その民宿には電気が通ってなく、ランプを明かりにしていた。元々なのか、電気が故障してたのかは忘れた。

ストーブも火が弱く、夜間は危険なので消す。全体的に外気と変わらない冷え込みが襲う。布団を何枚も借りたがなかなか寝付けない。

やっとうつらうつらと眠気が来たときだった。

布団の周りに何人ものコートを着た兵士が立って囲んでいる。

20、いや30人ほどだろうか。何か歌っている。よく聞くと軍歌のようだ。

「中隊長殿はどの方面に行かれたか?」

「知らねえ。ここで待てと言われたからいるだけだべ」

二人の兵が話すと

「寝るな! 立て! 足踏み用意!」

突然金切声を合図に足踏みが始まった。ザッザッザッ。

その時やっとSさんは状況がわかった。これは、70年前ここで、まさにこの土地で起きたことの再現だ……と。この兵達はもちろん……霊。

うわーっと思って布団の中に頭を入れる。怖い怖い!

音が止んだ。そっと布団から顔を出す。すると数人の兵が仰向けに倒れていた。うわわ、まただ! と思うと、自分の敷布団が猛烈に熱くなる。燃える様な熱さ。

「あちちち」

声が出ない。周りの兵士は動かない。よく見ると凍っている。こちらの熱さと共に溶けていくのが見えた。解凍? されているのか俺も? Sさんは布団から外れて畳に転がった。兵士達は溶けるだけで動かなかった。

その後こんこんと眠り、目を覚ますと、白衣を着た数名が自分を覗き込んでいる。それはなぜか怖くなかった。

しかし周りでは血しぶきが飛んで、大声で痛みを叫んでいる者がいた。足や腕がもぎ取られたように床に置かれていく。

Sさんは身動きが取れない。だが感覚はある。

「これも凍傷がひどい。切ろう。まずは足だ」

医師が足を持ち上げる。冗談じゃない! ちゃんと動いてる! Sさんは声が出ないが、必死で足の指を動かしてみせる。動くから切るなという合図に。

「やはりだめだ。炎症がひどい。切ろう」

やめろーと思うがまだ声が出ない。メスだかハサミだかが足に入る。

ズブズブズブ!

「痛い! やめろ! 足は動く!」

やっと声が出た。その時の医師の驚いた顔、今でも忘れないという。

そこで目が覚めた。朝になっていた。

冗談じゃない。こんな場所いられるか! と若かったSさんは取材もそこそこに東京に戻った。もちろん、デスクに相当叱られたが。

その後、別の取材で八甲田山雪中行軍遭難の記念資料館と後藤伍長の銅像を見る機会があった。その当時の写真も生々しく、まさにあの旅館で遭遇した若い兵士達が写っていた。笑顔でソリと雪の中に立っているみんな。雪の豪では40人くらいが足踏みして軍歌を歌う絵も見た。

「これは…あの夜の…」

Sさんはしきりに涙が出た。彼らは生きるはずだったのに。

後藤伍長の銅像は何だか自分たちの象徴のような気がして、また泣いた。

雪の中凍ったまま立っていた伍長。倒れず立つことで捜索隊に見つけてもらい、行方不明の兵達の道標になろうとしたのではないか。

太平洋戦争の鉄や銅の寄贈でも、この銅像だけは使われなかった。後藤伍長や将兵の魂は武器用に溶かされることはなかった。

あの日の体験は、将兵達が経験したことをまさに自分に教えてくれたのだ。

Sさんはその日から事件に関して、真摯に取材をするようになった。

そして、生存のご子孫、助けた民間人の方々に取材を始めた。凍死した遺体を運び、鉄板の下に火を起こして焼いて溶かしたことも。

生還しても、手足を凍傷で無くした将兵の写真もあった。手や足の写真も見た。麻酔が無い時代、相当な痛みだっただろう。

以来、霊を弔いながら独自の取材をして、Sさんはひとかどの記者になった。

映画の後、作家の新田次郎氏は67歳で亡くなる。

映画監督の森谷司郎氏も51歳の若さで亡くなる。

研究者の小笠原孤酒氏も集めた資料を売却し、人知れず63歳で亡くなる。

今もこの八甲田山遭難事件に関して書くと、奇怪な現象が起こると囁かれる。

Sさんもまた、それを私に強く言った。簡単な気持ちで書くなよ、と。

その時、Sさんの後ろに複数の人影が見えた。気がした。

私は、亡くなられた199人と、その後日露戦争で亡くなられた方に手を合わせ、心から追悼する。

そしてここでペンを置く。この山の謎は謎のままでいい。

子孫の私達が答えを出すには、同じ環境でない限り無理だ。

特に極限状態の中で決められたことは。

と書いたら、妙に体が軽くなった。

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