三十年の孤独(群馬県前橋市) | コワイハナシ47

三十年の孤独(群馬県前橋市)

前橋市は県都であるため、国の出先機関や大企業の群馬支社が他の市町村と比べて数多く存在している。その職種については明かすことができないが、I岡さんは日本各地に転勤した経歴を持つ男性である。五十代になって、所長として若い頃に勤務した前橋市の市街地にある職場へ戻ってきた。実に三十年ぶりのことだという。そして近くにある職員独身寮の取り壊しが進んでいることを課長から知らされた。

「長いこと誰も住んでいなかったので、更地にして売りに出すことになりまして……」

I岡さんがかつてこの職場で働いていたのは、二十五歳の夏からであった。独身寮は鉄筋コンクリートの三階建てで、築二十年近く経っていたが、当時はまだ気になるほどの汚れや傷みはなかった。通勤時間は自転車で十分程度、五十代の寮母さんがいて、朝夕賄いつき。青森県出身のI岡さんにとっては縁故のない土地だけに、迷わず入居を決めた。

寮は玄関を入るとすぐに食堂があって、壁に食事の献立表が貼られており、要か不要かを○×で記す。部屋は個室だが、風呂とトイレは共同である。I岡さんの部屋は一階の突き当たりの一〇四号室で、六畳一間の和室であった。そのことを職場で話すと、

「えっ、あの部屋に入ったのか」

先輩が眉根を寄せた。彼は妻子とともに別の土地にある世帯寮に住んでいる。

「独身寮の一〇四といえば、前から〈出る〉ので有名な部屋なんだよ。他にも空き部屋があるなら、替えてもらったほうがいいぜ」

「いえいえ、面白そうじゃないですか」

I岡さんは〈出る〉ものを見たことがなかったので、実際に見てみたかったのだ。

けれども、初めの五ヶ月は何も起こらなかった。寮母さんや他の入居者に訊いてみたが、見た者は誰一人いないらしい。

(何だよ、単なる噂か……)

I岡さんは興味を失いかけたが、年が明けた一月の寒い夜のこと。彼が布団に入り、横向きに寝て目を閉じていると、部屋の出入り口のほうから足音が聞こえてきた。そして掛け布団が少し捲られた気配がする。驚いて跳ね起きようとしたが、身体がまるで動かない。何者かが布団の中に入り、背後から抱きついてきたので、I岡さんは面食らった。

しかし、相手の動きはそこで静止した。ただ、背中に乳房らしき柔らかな肉が触れている。小柄な女のようだが、その顔や姿を見ることはできないまま、数分後に気配は消え去った。I岡さんの身体も夢から覚めたかのように、自由に動かせるようになった。

二度目の〈来訪〉は半月後のことになる。横向きの姿勢で眠っていたI岡さんが、ふと目を覚ますと、また身体が動かず、布団の中に何者かが入り込んで背中に抱きついてきた。相手の身体から、ほんのりと温もりが伝わってくる。体温は生きた人間と変わらない。害意は感じられなかった。やがて相手の気配は消え失せた。

春になると、〈来訪〉は月に何度か起こるようになる。I岡さんも慣れてきて、驚くことはなくなった。寮の入居者や職場の仲間にこの話をすると、肝試しのつもりで部屋に泊まりに来たがる者がいた。気軽な一人暮らしなので二つ返事で泊まらせてやったが、来客があった夜には決まって何も起こらなかったという。

夏以降、〈来訪者〉は週に一度の割合で現れるようになった。

I岡さんの職場は仲間ができても、数年で転勤になってしまう。日頃は両親や兄弟、郷里の友達とも顔を合わせる機会がないだけに、寂しさから知らず識しらず〈来訪者〉を心待ちにするようになっていたのであろう。あるとき、こう念じてみたことがある。

(たまには正面に出てこないか。君の顔が見てみたいんだ)

次の夜、仕事から帰って部屋の電灯を点けると……。

緑色のワンピースを着た、妙齢の女が座っていた。部屋に人がいたのでI岡さんは肝を潰したが、即座に誰なのか気づいた。

「君が……」

女は黙ってこちらを見上げていた。無表情だが、目鼻が整った美しい顔立ちをしていて、長い黒髪や横座りをしたなよやかな姿形も優美である。だが、正面に座って話しかけようとすると、一瞬にして女は姿を消してしまった。

それ以来、I岡さんは女に対して恋愛に似た感情を抱くようになった。当時の彼は二十六歳。上司や両親から見合いを勧められたが、気乗りがしなくて断っていた。そして毎夜、女が訪れるのを心待ちにしていたという。

同じ年の師走、仕事納めが数日後に近づいた寒い夜のこと。

I岡さんは炬燵に入り、座布団を枕に仰向けになって本を読んでいたが、いつしか電灯も消さずに眠ってしまった。深夜にはたと目が覚めたとき、また身動きができなかった。

しかも、真上にあの女の顔があったのだ。漆黒の豊かな髪が垂れ下がって、I岡さんの顔に掛かってくる。女は彼の右側にいて、両肘を畳に突いた姿勢でこちらを見下ろしていた。唐突な至近の再会に驚いたが、先日と違って女は微笑を浮かべている。I岡さんはうれしかった。話をしたいが、口を開閉することはできても、声が出せなかったので、

(よく来たね)

そう念じたところ、女がいきなり白目を剥いた。色白の肌が土気色に変わってゆき、口と鼻孔からどす黒い血糊が大量に溢れ出してくる。それを顔面に浴びたI岡さんは、つい口を開けてしまった。口の中に血糊が流れ込んでくる。吐き気を催させる臭気と味──。

女の肌はすっかり黒ずみ、左右の眼球には白い膜が掛かっていた。それは長く放置された死人の顔であった。I岡さんの記憶はそこで途切れている。

朝になって気がつくと、深夜に見た光景を思い出して震しん駭がいした。慌てて上体を起こして部屋の中を見回したが、女の姿はなかった。口の中に血糊は入っていないようである。鏡を覗くと、顔に血糊は一滴も付着していなかった。

(ああ、良かった!助かった!)

あれが彼女の真の姿なのだろうか?死んで土葬されていたのか、もしくは遺体がなかなか火葬されずに腐乱したのか──いずれにしても醜怪な姿を見たことで、彼女への恋愛に似た感情が急速に萎えてゆくのを感じた。I岡さんはその晩から同僚が住む別室に泊めてもらい、年末年始は青森の実家へ帰り、群馬に戻ってくると安いアパートに移り住んだ。

俺は薄情な男だ、と自らを嫌悪したが、独身寮に足を踏み入れることは二度となかった。

それから三十年が経過し、I岡さんが同じ職場に戻ってきてからのこと。

独身寮の解体工事中、地中から墓石と人骨の一部などが続々と発見されたのである。とくに墓石の数は多く、およそ五十基が出土した。独身寮を管理していた課では、廃棄するわけにもいかないと、かつて墓地を管理していたらしき寺を捜し出して連絡を取った。

寺の住職は、檀家の代表者と相談した上で、確認したい、と返答してきた。そこで職員たちが墓石を丁寧に洗い、刻まれていた文字を住職たちと解読したところ、江戸時代の年号や人名が確認できた。墓石は檀家の人々が、

「我々の縁者かもしれませんから、供養させて下さい」

と、快く引き取ってくれた。

しかし、I岡さんが目撃した女は緑色のワンピースを着ており、明らかに江戸時代の服装ではなかった。近年の人骨や墓石は一体も出てこなかったのである。あるいは過去の入居者と何らかの関係があるのかもしれない。とはいえ、それ以上のことは、I岡さんには何もわからなかった。

(あの女はどこの誰で、どんな死に方をしたんだろうなぁ……)

彼はこの地を離れてから、両親が勧める相手と見合い結婚をして、最近では孫もできたが、無性にあの女のことが懐かしく思えてきた。そこで独身寮があった場所へ行ってみたものの、既に更地になっていて、女と再会することはできなかったという。

これは、同じ職場で働くK井さんという男性の証言である。

I岡さんが独身寮を去ってから、約十年後のこと。一〇四号室にはK井さんの同僚でM田という三十歳の職員が住んでいた。ある夜、M田はテレビを見ながら眠ってしまった。深夜に目を覚ますと、画面にはいわゆる〈砂の嵐〉が映っていた。

(ああ、消さなきゃいけないな)

彼がテーブルの上に置いてあったリモコンを取ろうと、上体を起こしたとき──。

忽然と画面から〈砂の嵐〉が消えて、二十代と思しき男女の上半身が映し出された。背景は真っ白で、男女は鮮やかな黄緑色の洋服を着ている。M田にとってはどちらも見覚えのない顔で、どことなく陰鬱な表情をしていた。

呆気に取られて画面を眺めていると、男が女の背後に移動し、首に腕を回して強く絞め始めた。柔道でいう裸絞め、プロレスでいうスリーパーフォールドだ。

女の整った顔が苦痛に歪む。だが、激しく抵抗することはなく、黄緑色の洋服の色が深緑色へと変色し、それと呼応するかのように女の顔色も深緑色に変貌してゆく──。

M田は気味が悪くなって目を背けた。じきに、ザーッ……という音が聞こえてきたので、テレビに視線を戻すと、画面は〈砂の嵐〉に戻っていたという。

彼はこの話を職場でK井さんに語ったのだが、やがて鬱病になって仕事を休み始めた。初めは二ヶ月出勤して、一ヶ月休んでいた。それが次第に逆転して、一ヶ月出勤すると、二ヶ月休むようになった。その後、退職願いを提出している。上司が理由を訊くと高笑いして、

「仕事内容も人間関係も嫌で堪らなくなったからです。あと少しでよそへ移れますが、そこでも同じ仕事と同じ人種が待っているだけでしょう」

そんな毒のあることを言って、M田は職場を去った。

K井さん自身は怪異と遭遇したことはなく、のちに他県へ転勤したが、I岡さんと同じようにまた前橋に戻ってきた。そして今回の墓石騒動を知ることになったわけである。

また、墓石の引き渡し作業に携わった課の職員たちは、作業後に体調を崩したり、鬱病になって長期間にわたり仕事を休む者が続出した。さらに、アルバイトの職員たちの間で揉めごとが多発するようになった。

それまで物静かだった非常勤の女性が、パートの女性に嫌味を言ったり、皆の前で失敗を大声で指摘する。いじめられた女性は虚脱状態となり、勤務時間中にふらふらと持ち場を離れてしまい、どこへ行ったのか、しばらく戻ってこない。おかげで仕事が円滑に進まなくなってきた。まもなくパートの女性は退職している。

その後任として雇ったパートの女性は、ひと月ほど経つと、いじめられたわけでもないのに突然「ぎゃあ!ぎゃああああっ!」と奇声を発するようになった。理由を訊いても黙り込んでしまう。おまけに五階の窓から飛び降りようとして、皆に止められた。彼女は何度か大きな騒ぎを起こした挙げ句、数ヶ月で退職している。

元来、この職場は数年で転勤があるので、事なかれ主義の人間が多い。揉めごとを本気で解決しようとする管理職がいなかったこともあり、トラブルは長く続いたという。

結局、K井さんにも怪異の原因が墓石群と関係があるのか、もしくは別にあるのか、わからないそうだ。ただ一つ、明らかなことは、その土地は売りに出されたが、まったく買い手がつかず、現在も空き地になっている、という事実である。

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