山奥にいたもの(群馬県) | コワイハナシ47

山奥にいたもの(群馬県)

O崎さんの体験談である。

多趣味でクワガタムシも好きな彼は八月の深夜、群馬県内のある高い山へ昆虫採集に出かけた。そこは舗装道路が山頂近くまで整備されているので、夜でも採集ポイントに入ることができる。駐車場に車を駐めて登山を開始したO崎さんは、懐中電灯でヤナギなどの広葉樹を照らしながら見ていった。狙いは七十ミリを超えるミヤマクワガタである。

満月が出ていた。紺青の夜空が明るい。月の周りが紫色に輝き、白い雲を浮き彫りにしている。七色の月光が登山道に優しく降り注ぎ、歩くだけなら灯りもいらないほどだ。

(いい夜だな。これででっかいミヤマがいてくれれば、最高の夜になるんだが……)

幸い熊や猪と遭遇することもなく、無事に山頂まで到着したが、クワガタムシの類いはいなかった。帰路も広葉樹をよく見ながら下山する。

今度はヤナギの樹皮に〈齧り痕〉を見つけた。平地や低山地ではカミキリムシやボクトウガの幼虫が開けた穴から発酵した樹液が噴き出し、それが昆虫の餌場となるのだが、標高一〇〇〇メートル以上の山地では夜間の気温が低いことから、発酵した樹液が噴き出すことは少ない。そのため、クワガタムシの雌はヤナギやシラカバなどの樹皮を自ら齧って、滲み出るわずかな汁を吸う。雌がいる場所には交尾をするため雄もやってくる。新しい〈齧り痕〉があれば、近くにクワガタムシがいるはずなのだ。

けれども、この〈齧り痕〉はやや古く、ミヤマクワガタは来ていなかった。アカアシクワガタやスジクワガタもいない。

しばらく山を下ると、道の両側に石垣が築かれている場所があった。その先に廃屋がある。平屋建ての小さなもので、避難小屋か、あるいは林業や狩猟に来た者が寝泊まりする小屋だったのかもしれない。屋根が半ば崩れ落ち、戸も失われて荒れ果てていた。その前を通り過ぎようとしたときのこと──。

廃屋の脇に生えているスギの木の上から、何かが音を立てて落ちてきた。水分を含んだものが弾けたような音である。

O崎さんは立ち止まり、そちらに灯りを向けてみた。

どろどろした真っ黒な油のようなものが、直径一メートルほど地面に広がっている。

(何だろう?コールタールか?)

しかし、なぜコールタールが木の上から落ちてきたのか?怪訝に思いながら五メートルほどの距離を置いて凝視すると、コールタールに似たものが動き出した。上へ伸びてきて、胴体と手足らしき形ができてゆく。真っ黒で、裸体なのか、服を着ているのかわからないが、人間の体形とよく似ていた。さらに両肩の間から頭部がせり上がってくる。

ところが、それは頭部にしては異様な形状をしていた。ひどく長いのである。そのまま五十センチ以上も伸びて、ついには頭頂がスギの木の枝にくっついた。そして左右に身をくねらせ始めたのだ。両足が宙に浮いて、全身が木の枝にぶら下がっていた。

O崎さんは過去にも〈人のような姿をしているが、人でないもの〉を見た経験が何度もあったことから、ここまでは冷静に観察できた。だが、それも限界であった。

(こいつ、クネクネみたいじゃないか!)

〈クネクネ〉とは、インターネットで広まった都市伝説で『遠く離れた田畑にくねくねと動く白い物体が見える。遠いのではっきりした姿はわからない。そこで好奇心の強い人が望遠鏡を使って見たところ、その人は気が狂ってしまった』というものである。

O崎さんがその話を思い出していると、上のほうからブチッ、と音がした。〈クネクネに似たモノ〉が木の枝から離れて地面に降り立ち、こちらに向かってくる。都市伝説の〈クネクネ〉とは体色が異なるが、その黒い肌は粘液に覆われたようにヌメヌメと光っていて、巨大な蛭を思わせた。

(うおっ、気持ち悪わりい!)

いかにも不浄な感じがする。どんな危害を加えられるのかは不明だが、絶対に触られたくなかった。O崎さんは駐車場まで全速力で走って逃げた。車の近くまで戻ってきて振り返ると、相手はいつの間にかいなくなっていたという。

それから一年余りが経った。O崎さんは五十種を超えるともいわれる日本産クワガタムシを全種そろえて飼育し、死んだ個体は標本にして保存することを目標にしていた。けれども、ヒメオオクワガタはまだ採集できていなかった。

ヒメオオクワガタとは寒冷地を好むクワガタムシで、北海道や東北地方の北部では低山地にも棲んでいるが、それ以外の地方では標高一〇〇〇メートルを越える山地にしか生息していない。実際には、幼虫が主にブナの朽ち木を食べるため、ブナ林が広がる山地の、標高一三〇〇メートルから一六〇〇メートル付近に多いといわれている。

群馬県内にはヒメオオクワガタの生息地が何ヶ所か存在している。とはいえ、どこも個体数は少ない。かつては多産した山もあったが、広葉樹林の伐採とスギの植林が行われたことで激減した。

それでも群馬県出身在住のO崎さんは「最初のヒメオオは地元で捕りたいものだ」と考え、幾つかの山へ行ってみたものの、なかなか捕れなかった。そこでやむを得ず、また〈クネクネに似たモノ〉と遭遇した山へ行く決意をしたという。他の虫屋(昆虫採集を好む趣味人のこと)から「数は少ないが、あの山にはいる」との情報を得ていたからである。

九月中旬、O崎さんは朝から採集に出発した。ヒメオオクワガタは六月頃から姿を見せるが、他のクワガタムシが減ってきた九月中旬頃に最も数が多くなる。しかも夜間ではなく、気温が上がる昼間に活動することが知られている。

今回、O崎さんはバナナトラップを自作していた。これはまず、皮を剥いたバナナに焼酎や砂糖、ドライイーストを掛けてよく混ぜ、発酵させる。さらに大きなペットボトルを二つに切断し、飲み口の周りも切っておく。そして本体となるほうに発酵したバナナを入れ、口があるほうを逆さにして蓋とし、本体に差し込めば完成となる。

山に到着すると、廃屋の前を急いで通り過ぎた。今度は何も起こらなかった。藪に踏み込み、他の採集者には見つかりそうにない木の幹にトラップをビニール紐で縛りつける。

高い山は自然が豊かなわりに、虫ちゅう影えいが分散していて薄いことが多い。この日もヒメオオクワガタはおろか、他のクワガタムシも見つけることができなかった。

それから三日後。

O崎さんは仕事を早めに上がらせてもらい、同じ山へ向かった。日が暮れてからあの廃屋には近づきたくないので、今日はトラップを回収するだけにしようと決めている。駐車場で車から降りて登山道を走って登り、藪を漕いでトラップに辿り着いた。トラップの蓋を外して中を覗くと、真っ黒に崩れたバナナの間から、黒い甲虫類の腹部と脚が覗いていた。符節(足の先にある細い部分)がやけに長い。ヒメオオクワガタの特徴であった。

(入ってる!)

逸はやる気持ちを抑えながら登山道まで戻ると、中身をぶちまけた。バナナの甘酸っぱい香りが辺り一帯に広がる。獲物も転げ出てきた。オオクワガタを小さくしたような、がっちりした身体と大顎、他のクワガタムシよりも長い脚──まぎれもなくヒメオオクワガタだ。手に取ると、怒って大顎を広げた。元気が良さそうである。

ノギスの代わりに持参した定規を当てて大おお凡よその体長を計ったところ、五十ミリを超えていた。この種としては大きなほうだろう。喜びに手が震え出す。

(やった、やった!ついにやったぞ!)

勝利の雄叫びを上げたくなる。スマートフォンのカメラで記録用の写真を撮ってから、ヒメオオクワガタをプラケースに収め、車へ戻ることにした。午後五時半、辺りは既に薄暗くなりかけている。あの廃屋が見えてきた。足早に通過しようとしたとき……。

水分を含んだ大きなものが落下する音が、背後から聞こえてきた。振り返ると──。

クネクネに似た黒いものが立って、揺れ動いていた。今度は木の枝にぶら下がってはいなかった。背が高い。身長一七七センチあるO崎さんが首を曲げて見上げたほどで、身の丈二メートルを優に超えているだろう。もっとも、華奢な身体つきをしていて、頭の長さが七、八十センチもあり、肩の位置はO崎さんの肩よりもずっと下にあった。とりわけ頭だけが長いのである。それがゆらゆらと身体を揺らしながら、こちらに向かってきた。

(ちっ。また出やがった!)

O崎さんは走って逃げた。振り返ると、〈クネクネに似たモノ〉も走って追いかけてくる。ふんぞり返って両手をまったく振らず、両足だけを動かす奇妙な走り方をしていた。

(くそっ。こんな奴なんかに!)

相手の動きからして強そうには見えなかったので、O崎さんは立ち止まった。石でも拾ってぶつけてやろうかと、地面を見回したが、手頃な石がなかった。〈クネクネに似たモノ〉も立ち止まって、こちらを向いている。真っ黒な顔には目鼻も口も耳もなくて、表情はまるで窺えないが、どことなくO崎さんをからかって面白がっているように思えた。

(この野郎、ぶん殴ってやろうか……)

だが、粘液に覆われたような相手の肌はいよいよ不気味で、やはり直接触れたくはなかった。O崎さんは再び走って逃げることを選んだ。相手もまた追いかけてくる。その手がO崎さんの首筋に触れた。ヌメリとした指の感触があったが、温かくも冷たくもなかった。走って走って、必死に駐車場まで逃げてきて振り返ると、〈クネクネに似たもの〉はいなくなっていた。やっとヒメオオクワガタが捕れたのに、嫌な気分で家路に就いたという。

O崎さんは今も元気に暮らしているが、その山へ行くのはやめている。

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