「母」と「女」(岩手県花巻市) | コワイハナシ47

「母」と「女」(岩手県花巻市)

キョウコさんは母子家庭で育った。母と姉、弟との四人家族で、花巻市郊外のアパートにて暮らしていたそうだ。

そして、お母さんにはずっとつき合っている恋人がいる。もう十五年近くにもなるという。キョウコさん姉弟も、小さい頃はその存在を知らなかったが、大人になった今、たまに男性を交えて会ったりもするそうだ。母との関係は良好らしいが、なぜか再婚をしようとはしない。まあ、色々な事情があるのだろう。

そんな家族に、少し昔に起きた出来事。

キョウコさんたち三姉弟は、週末は祖父母の家で暮らすことが多かった。ただその日、中学生の姉だけは友達の家にお泊りをするということで、小学生だったキョウコさんと弟の二人が、数キロ離れた祖父母宅に向かった。

昼頃、家に到着したキョウコさんだったが、ちょっとした忘れ物があると気づいた。お母さんに車で運んでもらえばいいかと思い、自宅に電話を入れる。姉も友達の家に行った頃なので、母親しかいないはずだ。

「もしもし?キョウコだけど、今おじいちゃんち着いてるのね」

でも忘れ物しちゃって……と続けたとたん。

「うるさい」

今まで聞いたこともないほど低く沈んだ母の声が響き、ガチャリ、通話が切られた。

予想外の事態に、唖然としたキョウコさん。なんとか落ち着いた後も、母の声色にただならぬ気配が感じられたので、怖ろしくて電話をかけなおす気にはならなかった。

その数時間後である。祖父母の家のチャイムが激しく鳴らされた。

なにごとかと皆で玄関先に向かうと、外に立っていたのは青ざめた顔の姉。その後ろには一台の車があり、中年男性が心配そうにこちらを見つめている。事情を聞けば、友人の父親がここまで送迎してくれたとのこと。

なんでまた突然……そういぶかしむキョウコさんたちに、姉はおびえながら呟いた。

「お母さんが、なんか変だったから、逃げてきた」

しかし、それ以上の詳細を語ろうとはしない。「難しい年ごろだから」と思ったのか、祖父母もしつこく問いただしはしなかった。ただキョウコさんにだけ、姉は先ほど体験した話をこっそり説明したのだという。

その日の午前中、姉が一人、自宅アパートにて外泊の準備をしていた時。

ガン、ガン、ガン

突然、外から激しい金属音が響いてきた。

なんだろう?窓を開け、二階から外を見下ろしてみる。音は、廊下から続く鉄階段から鳴っているようだ。そして階段下の地上部分に、一人の女が立っている。大きくうつむいているため顔は見えないが、誰かはすぐにわかった。

母親である。しかしなんだか様子がおかしい。母親は一番下のステップに大きく足を乗せ、ガン、と音をたてると、なぜかすぐ地面に足を降ろす。そしてまた同じ足をステップに乗せ、また降ろす。ガン、ガン、ガン……ヒールが鉄階段にぶつかり、耳障りな音をたてる。しかし上りたいのか上りたくないのか、がっくり頭をうつむけて奇妙な動作を繰り返し続けている。

「……大丈夫?」

外に聞こえるような大声で、そう呼びかけてみた。しかし向こうはなんの反応も示さず、ただガン、ガン、を繰り返すだけ。

なんだよ、無視かよ。

当時の姉は思春期まっただなかで、母との仲は良くなかった。せっかく心配してやったのに、とふてくされた彼女は、窓を閉めてそのまま外出準備を続けた。

ガンッ

少しすると、また別の感じの音が響いた。

ガンッ……ガンッ……

ステップを踏む音が、ゆっくり近づいてくる。母親が階段を上っているのだろうが、なぜ一歩一歩踏みしめるようにしているのか。さすがに気味悪くなってきた姉は作業を止め、そろそろ開くであろう玄関をじっと見つめた。

ぎいっ、ドアが開く。ゆっくり母が入ってくる。やはり前髪を垂らすほど下を向いたまま、ヒールも脱がず土間に立ちつくした。

「お母さん?」

声をかけると、母は顔を上げた。

ぎくり、と姉が後ずさる。

目の前にある顔は「母」ではなかった。

比喩ではない。本当に別人の女の顔に変わっていたのだ。髪も服も体つきも、毎日見ている母のそれに間違いない。しかし顔だけがそっくり、見知らぬ女と入れ替わっている。

声も出せず固まった姉を、「女」は眉一つ動かさず、にらみつけてきた。

怒った面持ちではない。どちらかといえば無表情に近い。しかし「にらまれている」とはっきりわかる。冷たい顔の奥に、激しい怒りや憎しみが渦巻いているのが、ひしひしと伝わるからだ。

「……ってこい」

ふと、「女」の口からなにごとかが漏れた。ひっ、と姉が小さな悲鳴をあげる。

「塩もってこい!」

母の声だった。悲鳴に近くはあるが、確かに、いつも聞きなれたお母さんの声だ。

「塩もってこい!」「塩もってこい!」「塩もってこい!」

ひたすら続く喚きに押され、姉は台所に駆け寄った。そして一キロの塩袋を取り、土間に向かって手を伸ばした。

「母」か「女」かわからないそれは、姉から塩をひったくると、袋の口を大きく裂いて、中身を周囲にぶちまけた。まき散らされた粉末が姉にもかかり、思わず身をかがめる。

すぐに顔を上げると、ぜいぜいと息を切らしている「女」の顔は、母親に戻っていた。

そして乱暴にヒールを脱いで部屋に上がると、無言で床にへたりこむ。

もはや半分パニックになってしまった姉は、そのままアパートを飛び出し、友達の家に駆けこんだ。そして事情をボカしつつも、友人の父親に頼んで祖父母宅まで送ってもらった。それと前後して、キョウコさんは電話口の母親から「うるさい」と告げられた……という次第だったのである。

おそらくその日のうちに、祖父母が母へ連絡したのだろうが、その辺りのいきさつは姉弟の誰にもわからない。とにかく翌日にあたる日曜の夜、母は子どもたちを迎えに来た。

引き渡しの時も運転中も、母はほとんどしゃべらず押し黙っていた。その重苦しい雰囲気に、三姉弟の誰も事情を問いただすことはできなかった。

自宅アパートに帰ったキョウコさんは、まず玄関先に大量の盛り塩がしてあることに気が付いた。部屋に入ると、その四隅にも同じく塩がこんもりと盛られている。それどころか、床やらテーブルやら洗濯物やら、室内のいたるところに塩がまき散らされ、まるで粉雪が積もったような白一色になっていた。

だがそれについても、キョウコさんたちはあえて反応しなかった。母親も無言のまま、部屋に上がるなり布団に横になってしまった。全ての塩をきれいに片付けるのと、母親が元の調子に戻るのに、一週間ほどかかった。

それから十年と少し経つ。

現在のキョウコさんは東京に出て、アパレル関係の仕事に就いている。家族の会合はよくあるが、先述の話を母親に聞くこともないし、ほぼ何も知らない弟に打ち明けることもない。たまに姉と自分だけで語り合うだけだ。

あの時の母親は……自分の中に入った「女」をなんとか抑えつけて、階段を上らないよう頑張っていたのではないか。部屋に入ってしまった後も、自分がいたからとっさに守らなくてはいけないと、正気に戻ったのではないか。

姉はそう考えているようだが、母親になにも聞けない以上、もちろん正解はわからない。彼女が目撃した「女」の顔。それが誰だったかについては、心当たりすらない。

ただキョウコさんには、なんとなく思い当たる節もあるそうだ。

大人になってから知った諸々の事情と当てはめると、おそらくその頃から、母は今の恋人と付き合いだしている。

「関係ないかもしれないですけど。本当のことはわからないですけど」

そう前置きしつつ、キョウコさんは取材の最後にそっと自らの「心当たり」を漏らした。

「たぶんその時、男性の方には家庭があったのかもしれないです。お母さん、不倫した上に相手の奥さんから彼を奪ったのかな、と」

私はその場ではなにも返さなかった。

ただ正直なところ、正体不明の「女」よりむしろ、「お母さん」の方を怖ろしく感じてしまっていた。より正確に言えば、その「女」をはね返してしまうほど強烈な、「お母さん」の中の「女」に、私はひっそり背筋を寒くしたのだった。

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