遠ざかる(愛知県名古屋市) | コワイハナシ47

遠ざかる(愛知県名古屋市)

名古屋市内は、中心部であってもそれほど家賃が高くないらしい。

ナナさんが借りはじめたマンションは、名古屋の有名な繁華街に位置していた。そんなエリアでも、若い女性が手の届く物件が幾つかあったようだ。

もっとも彼女のマンションに限って言えば、安いなりに築年数はそうとう古く、あちこちガタがきてはいる。

ナナさんは特に、一階エレベーター付近が好きではなかった。

エレベーターがあるのは、マンション入り口から見て最奥の突き当たり。ずっと手前に設置された蛍光灯の明かりもうまく届かないため、やけに暗くて陰気な雰囲気だ。それだけでなく、空気も重く澱んでいるような……そうした違和感は前から抱いていた。

ある日、会社の飲み会に参加したナナさんは、深夜にマンションへと帰宅した。

こんな遅い時間になったのは、引っ越してから初めてではないだろうか。静まり返ったエレベーター前はやはり不気味だが、七階の部屋まで階段を上る気にはなれない。

ナナさんはいそいそとエレベーターに乗りこんだ。

「おい!」

近くで、男の怒鳴り声がして、思わず体がビクリとはねる。

ダン!ガンガンガン……

続いて、硬いものがぶつかるような連続音。

怖くなったナナさんは閉扉ボタンをぎゅうっと押す。エレベーターが昇りはじめると、音も聞こえなくなった。

繁華街なので、深夜に酔っ払いが騒ぐなどは日常茶飯事だ。しかし今の音は外というより、この建物内で鳴っていたような気がする。一階スペースは入り口からエレベーターまで一直線なので、誰かいれば見えないはずがない。

まあ、そうとう酒が入っているので、思い違いということもありえる。

あまり気にしないようにして、部屋に帰るとすぐベッドにもぐりこんだ。

そのあたりから、ナナさんは社内での仕事がたてこんでいくようになる。大忙しで働くうち、先日の出来事もすっかり頭から追い払われていった。

その日は残業に追われ、深夜の帰宅となってしまった。

へとへとに疲れたナナさんは、一刻も早く眠りたいとエレベーターに入っていく。

「おい!おい!」

ダン!ガンガンガン

あっ、と思った。

以前聞こえた、男の怒号と、あの響き。まったく同じ音が、いままさに再現されている。それも今回は、確かにすぐ近くで聞こえる。建物の中、というよりも、このエレベーターの中で。

慌てて外に飛び出した。

今は疲れているとはいえシラフだ。幻覚ではない。配管の具合などで他の部屋のケンカが響いた?でも毎日乗ってるのに今までそんなこと……。

そういえば、とナナさんは気がついた。正確ではないが、前に同じ音を聞いた時と今夜、ほぼ時間が同じではないか?

胸の奥から強烈な不安がせり上がってくる。もうエレベーターは乗りたくないので、自室までの階段を苦労して上っていった。

ようやく七階についた時には息もあがってしまい、いったん壁にもたれて呼吸を整える。すると、向こうのドアがすうっと静かに開かれた。

同階に住む顔見知りのおばさんが、怪訝そうにドアの隙間からこちらを覗いている。

「……あら、あなた。階段で上がってきたの?」

夜中に足音が響いたので、気になって確認してみたらしい。

はい、とうなずくと。

「そうよね、この時間、エレベーター使いたくないよね」

「え、なんのことですか?」

ああ……そうよね、不動産屋さんもいちいち説明なんてしないわよね……。

おばさんはこのマンションに長く住んでいるが、深夜この時間帯のエレベーターで奇妙な音がすることを知っていた。他の住人たちもたびたび、そんな苦情を漏らしていたそうだ。

「どうも聞いたところによるとね」

おばさんが住みはじめるよりも、さらに前。このマンションで殺人事件が起きたのだという。

ここの住人の一人がストーカーにつけ狙われていた。当時は今と違ってストーカーという言葉もなく、警察もあまり本気で動かなかったため、事態はどんどん悪化していった。

そしてついに、ストーカーが凶行におよんだ。被害者をしつこくマンションまで追いまわした末、用意していたナイフで刺し殺してしまったのだ。

犯人もその場で自分の首をついて自殺。つまり無理心中をなしとげたのである。

その惨劇の場こそ、エレベーターの中だったのだという。

「あ、こんな話聞きたくないわよね、おやすみなさい」

一通り語り終えると、おばさんはそそくさとドアを閉めた。

陰鬱な気分を抱え、ナナさんは自分の部屋へと帰った。

やっぱり私の聞き間違えじゃなかったのか……。

気を紛らわせようとケータイを手に取ると、そこには女友達からの着信が。

ここ最近ずっと仕事が忙しかったため、SNSをいっさいチェックしていなかった。既読すらつかない自分になにがあったかと心配しているのだろう。

ちょうど心細かったこともあり、その友人へ電話をかけなおす。

「もしもし、ごめんね連絡もらっちゃって」

少し世間話した後、ナナさんは気晴らしに先ほど聞いた話を打ち明けようとした。

「あのさ、実は最近引っ越したマンションで変なことがあって……そのね、エレベーターでね」

「え?なになに聞こえない」

と、話を切り出したとたん、なぜか電波が悪くなったようだ。相手の声はクリアなのに、こちらの喋りがうまく通じない。ナナさんは部屋を移動しながら、ハッキリ大きな声で顛末を語っていく。

「……えっと、ナナちゃん……ごめんね」

あらましを聞き終えた友人は、なぜか辛そうな声でそう謝ってきた。

「あの、ごめん、こんなこと言うとほんと悪いんだけど……」

その無理心中したっていうストーカーね、エレベーターからナナちゃんについてきちゃってるかもしれないよ。

「え、なにそれ、なんでそんな」

「うん、ごめん。でもね、その話をしはじめた時から、変な音がずっと聞こえてくるんだよ」

「音……って?」

「……ナナちゃんの声の後ろからね、〝ううううう〟って、うめき声みたいな音がしてて……実はそれ、今もまだ聞こえ」

思わず通話を切ってしまった。そのままケータイを放り投げ、布団にもぐりこみ、震える体で眠りについた。

翌朝、ナナさんがケータイを確認すると、例の友だちからSNSのメッセージが入っていた。

「こわがらせちゃってごめんね。よかったら私が聞いたおはらいの方法があるから、試してみたら?」

友人の親戚で、そういった類の相談に乗るお婆さんがいるらしい。以前に聞いた話では、「悪い場所から拾ってきたもの」を退散させるには、その悪い場所にもう一度行き、一塊の塩を握って待ち続けるとのこと。その間、なにをされても無視して立ち止まっていれば、とり憑いたものが自分から離れて、元の場所に戻っていくのだとか。

いつものナナさんなら、眉に唾つけて聞いていただろう。しかし二度も続いた怪現象に怯えきっている今は、藁にでもすがりたい気持ちになっている。

その日の夜。ナナさんはなんとか会社を早めに抜け、二十一時前には帰宅した。そしてこれまで音を聞いた深夜の時間帯まで待機し、教えられた方法をおこなうため、一階へと階段を下りていく。

薄暗く静まりかえった一階突き当りまで歩を進め、エレベーターのボタンを押す。開いた扉から中に乗り込む。右手に塩を握り、左手で開扉ボタンを押し続け、じっと佇んでみる。

「おい!おい!」

途端に声が聞こえてくるが、じっと耐える。

ダン!ガンガンガンガンガンガン

例の物音が響く。これも必死に我慢し、目を閉じて逃げないでいる。

ガンガン、ガン、ガン、ガン……

そうするうち、音がどんどん遠ざかっていくのを感じた。

ガン…ガン……ガン……

…………

すっかり音が消えたところで、ナナさんは目を開けた。

いつも通りのエレベーターで、周囲はなんら異変がない。

ああ、あの子の言った通りだ。よかった……。

気を取り直したナナさんは、そのままエレベーターにて部屋に戻った。すぐに友人へと電話をかける。

ありがとう、あなたの言った通りにしたらうまくいったみたいで……。

明るく感謝を述べているのだが、「うん、うん……」と相手の反応がやけに鈍い。

「ちょっと待って」

いきなりこちらを遮った友人が、口ごもりつつ、こんなことを伝えてきた。

「ごめんナナちゃん……うなり声、まだしてる」

え?

「しかも昨日よりハッキリ。それ、なんか、女の声に聞こえる」

「もしかしてだけど……」友人が声を震わせる。

死んだストーカーって女の人だったんじゃないの?

後日、ナナさんが同階のおばさんに確認したところ。

例の事件については、確かに加害者が女で、被害者が男だったらしい。

ストーカー女は後ろからおぶさるように男性にのしかかり、ナイフで体をめった刺しにした。女はその場で自分の喉を刺して自殺。男はエレベーターから逃げたが、マンションを出た路上で力尽きて死んだ、とのことだった。

ナナさんの背中には、その女がおぶさっているのかもしれない。

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