新聞配達(東京都川崎市多摩区) | コワイハナシ47

新聞配達(東京都川崎市多摩区)

今から二十年以上前。当時二十四歳のヤマモトさんが、多摩地区の新聞販売店で働いていた時のこと。

彼はその仕事中、二つの怪異を体験している。一つ目の現場はT団地、もう一つはM団地。

余談だが、母親の職場がちょうど中間にあったため、私もヤマモトさんの体験と同じ頃の両団地を訪れており、それらの風景を見知っている。いずれも、日本のスタンダードな団地群のイメージを想起してもらえればいいだろう。

さて、まずは一つ目のT団地から。

そこのある号棟について、ヤマモトさんは以前から不審に思っていた。

他の部屋は全てきれいなのに、四階のある一室だけ、黒く煤けたような痕跡があったからだ。階段脇すぐにあるドア付近は不自然な修復がなされていて、人が住んでいる様子はない。

多摩地区の配達は他エリアよりも早いそうで、ヤマモトさんはいつも明け方三時すぎくらいに団地に到着するようにしていた。

真冬の夜はまだ明ける気配すらない。しんしんと冷たい空気の中、件の棟の入り口へとたどりつく。

一階の集合ポストに次々と新聞を入れようとした矢先、暗がりに奇妙な気配を感じた。目をこらすと、隅になにかがうずくまっている。

なにしろ深夜のこと、建物の暗がりは真っ黒い空間でしかない。ただ、なぜか緑色の薄明かりがぽうっと小さく灯っており、それによってかすかなシルエットが浮かび上がる。

(……狐かな?)

はじめはそう思った。この辺りなら狸はいるだろうが、さすがに狐が出たなど聞いたことはない。しかしその細長い輪郭が、一瞬、狐と似通っているように見えたのである。

ゆっくり近づいていくと、それがこちらを振り向いた。

ぎくり、と体が固まった。

それは、口に細長い木の棒をくわえていた。棒の先には緑の炎がちろちろと燃えている。

火によって照らされた顔は、明らかに狐ではなかった。しかし人間ともいえない。その中間とすればよいのか、とにかく見たこともない動物の顔だった。ただなんとなく、「メス」であるようには思えた。

五秒ほど目が合っていただろうか。動物はひょいと立ち上がり、火の棒をくわえたまま、よつんばいで階段を上りはじめた。

じり、ひた、じり、ひた。

狐や犬のようなピョンピョンとした動作ではない。前に出す足の他は、三本とも地べたについたまま、にじるように動いていく。

じり、ひた、じり、ひた。

しっぽのようなものも見えた気がした。

二階への踊り場で向きを変え、動物は階段の陰に隠れていく。そこまで固唾を飲んで微動だにしなかったヤマモトさんだったが、突然、その動物の後を追いかけたくなってしまった。

こちらも、抜き足差し足で静かに階段を上っていく。

二階から三階へと向かう動物が目に入った。距離を置いて、あまり近づかないようにする。動物の歩みはあまりにもゆっくりで、なんだか疲れ果てているようにも感じられた。

じり、ひた、じり、ひた。

少し間を置いて、三階踊り場から顔を出してみる。その上はすぐ、例の焦げた玄関部分だ。

動物は、ドアの前にいた。ただ立ち止まっていたのではない。全身が緑色の炎に包まれていたのだ。

かすかな鳴き声も燃えはじける音もいっさい聞こえない。静寂の中、火だるまになった動物は、苦しそうにのたうちまわっている。

(火、消さないと!)

考えるより先に、ヤマモトさんの体が動いた。販売店から支給されていたジャンパーを脱ぎ、たたいて消火しようとしたのだ。チャックを下ろし、両袖から腕を抜き、バサリと襟元をつかむ。

しかしその目を離した一瞬で、動物も炎も消えてなくなっていた。視線を戻すと、いつもと変わらぬ煤けたドアがあるだけ。なにがなんだかわからないまま、ヤマモトさんはその場を立ち去った。

販売所に戻ったヤマモトさんは、先ほど目撃した怪事を同僚たちに打ち明けた。すると横にいた店長が、ボソリとつぶやいた。

「あそこな、たいへんな事件があったんだよ」

以前、その部屋に住んでいた夫婦の留守中、夫と不倫関係にあった女性が忍びこみ、ガソリンをまいて放火した。結果、部屋で寝ていた幼い子ども二人が亡くなったのである。

かなり有名な事件なので知る人も多いだろう。もちろん、ヤマモトさんの体験と関連づけられるかどうかは、誰もわからない。

ヤマモトさんが販売所を辞める時、長らく空いていたその部屋に、誰かが入居したという噂を聞いた。

二つ目の現場はM団地。

夕暮れ時、ヤマモトさんは月末の集金業務のため、めったに行かない高層棟の廊下を歩いていた。

──バンッ!

突然、はるか下の道路から大きな物がはじけるような轟ごう音おんが響いた。

なにか落ちたのかと、慌てて廊下の手すり越しに見下ろしてみたが、地上には一つも異常はない。

なんだったんだろう……。

そう思いながら廊下に視線を戻すと、いつの間にかすぐ近くに人影が立っていた。髪を三つ編みにした、若い女である。

「来てくれたんだ」

女性はニコリと笑いかけてきた。

その顔には確かに見覚えがあったのだが、とっさには誰か思い出せない。

「あ、すいません」

(うちの新聞とってるお客さん?集金とか景品あげるとか約束してたかな?)

ヤマモトさんは急いで伝票メモをめくりだした。その棟にある数宅分の伝票を確認してみたが、なにも書いてない。

「あれ……何号室でしたっけ」

そう言いながら顔を上げると、もう目の前の女性は姿を消していた。

わずか数秒間である。足音もしなかったし、全速力でも廊下の角を曲がることは出来ないだろう。

とはいえ、その時はさほど不審には思わなかった。

それから少し経って、ヤマモトさんは岡山県の実家に帰省した。特にすることもないので、数年前に購入し、そのまま部屋に置かれていた青年漫画誌をパラパラと読み返していたという。そこで、あるページの写真に目が釘付けになった。

それは某女性漫画家が流行の場所を訪れてレポートするという、テキストベースの連載コラムだった。たまたま開いた回では、東京の写真館にて、宝塚っぽい恰好をして撮影された漫画家が写っていた。

──あの時の人だ!

M団地で見た、三つ編みの女性を思い出した。もの覚えが悪いヤマモトさんだったが、なぜかあの日のことだけは、ずっと頭の片隅にひっかかっていた。

もっとはっきり素顔がわかるものはないかと、前後の号をあさってみる。その頃、人気急上昇中だったダウンタウン浜田へのインタビュー記事に、彼女の姿がありありと写っていた。やはり同一人物で間違いない。

その女性は、孤独にさいなまれ、人間関係の疎外をテーマにした強烈な作風で、いまだカルトな人気を誇る漫画家である。

東京に戻ったヤマモトさんは、急いで買ったばかりのパソコンで検索をはじめた。そこで出てきたのは、彼女が一九九〇年代はじめ、M団地から投身自殺したという情報だった。年月日はもちろん、飛び降りた団地の号棟や階数も正確に記されている。

何度もパソコンの画面を読み返したが、自分が話しかけられた場所は、まさしく女性が身を投げた同じ棟の同じ階で間違いなかった。とはいえその二年前に、彼女はそこで亡くなっているのだが。

ヤマモトさんは、今でも時折、あの日の団地から見た空を思い出すという。

十一階の廊下の向こうに広がっていた、ぞっとするほど美しい夕焼け空を。

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