古い家(東京都文京区) | コワイハナシ47

古い家(東京都文京区)

カズオさんが文京区白山のアパートに住んでいたのは、学生時代だからもう四十年近くも前になる。しかし当時からたいへん古びた「年代物」の装いを呈していた。

戦後間もない頃に建てられたのであろう木造モルタル二階建て。建物に入るとまず玄関土間で靴を脱ぎ、そこからスリッパに履き替えなければならない。そこから各々の部屋に入るという学生下宿のような形式で、一九七〇年代末でも「都心にまだこんなアパートが残っているのか」と思ったものだ。

ただ古いだけでなく、今思い返すと、入居時からしておかしかった。

なぜか、前住人の残留物がそのまま残されていたのである。

備え付けの食器棚には、茶碗、皿、箸、お椀などの食器に加え、調味料すら大量に置かれたまま。その他にも細々とした小物類、はてはアイドルのポスターまでもが、はがされずにあったという。

しかし大家さんの「よかったら使えばいいわよ」なる言い方があまりに気軽だったので、上京したてのカズオさんは(東京ってこうなんだ)と思い、「ありがとうございます」などと答えてしまった。もちろん気味悪いので全て処分したが、梁に飾られた「さだまさしのサイン色紙」だけは、田舎出身の若者が初めて見る有名人のサインでもあり、退去するまでそのままにしておいた。

その部屋で「サラリーマン」に会ったのは、合わせて二回だった。

一つ目は、正月の帰省から戻ってきた、一月終わり頃。カズオさんが薄暗い和室で寝ていると。

ミシッ、ミシッ、ミシッ……

そうっと畳を歩く足音がする。この部屋には、よく学友たちが寝泊りに来ていたので、その誰かだろうと思った。適当に眠るスペースを探しているんだろう。自分を起こさないように気を使っているようだが、わざわざ対応するのも面倒くさい。そのまま横になって目を閉じていたのだが、かなりの時間が経過しても、まだ足音が続いている。

もういいかげん煩わずらわしい。声をかけようと瞼まぶたを開けたところ。

すぐ目の前に黒い影があった。人間らしきものが、自分をぐいっと覗き込んでいたのだ。

とっさに後ろに飛びのくと、それは背広を着てネクタイを締めた風体の男だとわかった。だが顔だけは、黒く染まっていてなにも見えない。

「うわあっ!うわあっ!うわあーーー!」

他の住人に助けを求めようと、カズオさんは三回、悲鳴をあげた。サラリーマンの知り合いなどいないので、泥棒かと思ったのだ。懸命に叫んだ後、ハッと我に返るとサラリーマンは消えていた。すぐに起き上がり部屋の明かりを点けたが、部屋はもぬけの殻となっていた。

二回目の遭遇は、その翌年に起きた。年末年始のバイトに明け暮れた後、そろそろ新学期が始まろうという、ある夜。

横になっていたカズオさんの耳に、ミシミシという畳を踏む音が響いた。去年のことなどすっかり忘れていた彼は、同じように(友達の誰かが来たな)と、それを無視していた。だがやはり、足音は三十分ほどしても止む気配がない。頭の奥にしまいこんでいた光景がかすかに閃き、布団の中から体を起こす。

黒い顔がこちらを覗いていた。自分の真横に立つ男の服は、やはり背広とネクタイのサラリーマン風。

叫び声をあげつつ、今度はすぐに電灯を点ける。しかしその瞬間、男の姿はかき消えてしまった。

……これ、去年の、同じやつ……!

記憶が完全によみがえった。またここに及んで、男が泥棒の類ではないことにも気づいた。

先述通り、この建物は入り口に土間があり、靴を脱いで上がることになる。誰かが訪問するたび、アパート玄関から向かってくる音、古い階段をのぼるギシギシという音がいつも響いている。さらに自分の部屋もオンボロなので、ドアを開ける際はノブを上に持ち上げないと回らないが、その都度「ガタン」と大きな音がたてるはず。そこから入った板の間も、踏めばうるさく「ギイー」ときしむはずなのだ。

しかし男の出現は二度とも、いきなり畳を踏む「ミシッ」から始まっている。ウトウトしていたとはいえ、ありえないことだ。

いや、それよりいっそう不気味な点に気づいてしまった。

──今日って、前の年と、まったく同じ日じゃないか?

一年前と、一月終わりの日付が一致している。あの男は毎年同じ日に、ここにやってくるのか。いったい今日、ここでなにがあったというのか?

しかしそんな事実などはいっさい知りたくもない。カズオさんはその日から友達宅を転々とし、契約満了前にアパートをひきはらってしまった。

私が調査したところ、驚いたことに、このアパートはまだ現存していた。アパート名も当時のままだ。

とはいえ体験談の時点ですでに築三十年超、そのままなら七十年以上の築年数になってしまう。さすがに一九八〇年頃に建て替えを行ったらしく、カズオさんの居た頃とは外観など変化しているはずだ。

ただ、そこからまた四十年近く経っているため、建物自体はかなり古びている。人の気配もなく、廃墟かと思ってしまったほどだ。しかし近隣の人々に聞き込むと「まだ人は住んでますよ」とのこと。それならばと建物前でじっと人の出入りを待つ。そのうちに住人が出てきて玄関が開いたので、それとなく内部の様子をうかがう。

そこでまた驚いた。カズオさんから聞いた通りの、古びた玄関土間がまだ残されていたのだ。さらに狭く急な木造階段が続いている。今では文化財建築でしか見かけないような、おそろしく古い階段だった。建て替えたといっても外側だけで、内部は体験談当時のままになっているのだ。

建築法上、このような物件を賃貸アパートとして使うことができるのだろうか。大家も代替わりしているはずで、都心のため相続税も高いはずなのに、ずっと残しておく意図がわからない。

この建物は、なにか取り壊せない事情でもあるのだろうか。

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